ツイステッドワンダーランド 短編
直立不動に立ち尽くす姿を見て足を留めざるを得なかった。ここは閉店後のモストロ・ラウンジ。夜が深まる頃合に、ようやくジェイドが今一番楽しみにしている時間が訪れる。彼は待ちかねた目的のために支度を整えてきたところであった。
取引に関する確認事項のためにアズールに呼び出されてしまったから、すっかり遅くなってしまった。着替えを済ませて廊下を急ぎ歩き、先に入り口で待っているだろう彼女の姿を思い描いてこの場に辿り着く。
彼女はどのような心持ちでジェイドのことを待っていてくれているだろうか。少しでも待ち遠しいなどという感情を抱いてくれれば、ジェイドの心は舞い上がるだろう。そうでなくても足を留めてしまうまでは、これからどのような時間を過ごそうかという心躍る空想をしてばかりであった。
「……」
監督生さん、と余所余所しい呼び名で彼女を呼ぼうとした声が、喉の奥に詰まって出てこなくなる。ジェイドは遠くに彼女の姿を視認して、その場で立ち尽くしてしまった。非常灯以外が落とされた、夜の海ほどに暗い店内に彼女は佇む。仄暗い闇の中にも皓皓と輝く麗しい赤の眼差しはジェイドではなくある一点へ、店の入り口にある姿見に向けられているようであった。
あるのは姿見なのだから自分の姿を確認しているだけ。そのように短絡的な思考だけで居られたのならば、足を止めることはなかったのだろう。ジェイドは言葉なく眉を顰める。彼の心に過るのは、容易く心の中を埋め尽くしてしまう不安。
――――彼女は決して、元の世界を捨てたわけではない。
一時の気の迷いで彼女はジェイドの傍にあることを選んでくれただけなのかもしれない。今は確かにジェイドを選び、つがいという名の関係を取り結んではいる。
だが決して元の世界に帰ることを諦めたわけではないだろう。でなければ、ジェイドとの関係が内密である必要はない。他の前で名前を呼ぶことを嫌うこともない。今のように想いを馳せて鏡を見つめることもないだろう。
恨めしくて堪らない。自分と過ごす楽しみよりも元の世界への憧憬は大きいものか。これほどまでに時を紡いでも忘れ去れないものか。僕という存在がありながら、どうして他を見ることができるのだろう。
――――僕がこれほどまでに貴女でいっぱいにされていると分かっていて。
全く対等ではないでしょう。彼女がいなくなってしまった時のことを考えるだけで動悸が治まらなくなる。それはきっとあまりにも耐え難い景色。貴女がいなければ、世界は暖炉の中に残った燃え滓のように味気ない灰色に染まることだろう。想像だけで胸がきゅうと締め付けられて呼吸まで詰まる。
――――その眼に映すものは僕だけでは不足ですか。
我慢ならなくなってジェイドは歩みを再開させる。大きな歩幅で距離を詰め、締め付けた腕で彼女の視界を覆いつくした。彼女が自分を支配してし尽しているように、ジェイドが彼女の視覚も聴覚も嗅覚も。彼女の五感に感じられるすべてのものに自分を結びつけてしまえたら良いのにと、思い描くだけは簡単であった。
「……どうしましたか。ジェイド先輩」
抱き留めた彼女が、苦しいのですけれどと巻き付くジェイドの腕に触れる。こんなときであっても彼女は落ち着きを払い、人目があるかもしれないとジェイドを退けようとする。ジェイドはそれを面白くないと感じながらも完璧な平静を、にこやかさを取り繕った声を返す。
「いえ、何でもありませんよ。慎み深い僕は貴女に触れたかっただけです。……もしや僕はつがいに触れることも許されないのでしょうか」
彼女が困るだろう言葉を選んで投げつけた。わざとらしく彼女の柔らかな黒髪を撫でつけてみせる。ゆっくりと巻き付けた腕を彼女の首に下ろせば、鏡越しに彼女の赤がジェイドを映した。彼女の瞳が鏡に映る自身に向けられていると、反転させた世界の中に在る己の瞳にすら浅ましくも敵意を抱く。
彼女の頬に掌を這わせて、見つめ返した眼を意識の外で睨み返す。注意が逸れてしまうと柔らかな黒髪を撫でる手が思わず止まってしまった。こんなことですら揺らがされる己を情けないと分かっていても、心の動きを制御することはできない。
彼女はジェイドの瞳の揺らぎと視線の運びを見る。真一文字に唇を結んだままであったが、ジェイドの目の前に映し出された赤の瞳は視線を逸らして彼を直視した。
「いえ」
彼女がジェイドの掌にさりげなくすり寄ったように、彼には思えた。ジェイドは自分で仕掛けておきながら、彼女の所作に目を見張る。彼女は知ってか知らずか、ジェイドの眼差しを捕らえて目を細め口元を緩める。彼女の声が邪魔の入らない無音の世界を構築する。
「こんなものでよければ、いくらでも」
際限なく求めることが許されるのならば。
ありもしない幻想を抱いて彼は小さな体を掻き抱いた。眼前に在る虚構ばかりを映すものを蹴り壊すことを思い描いた。抱きしめた幸せをすべてで締め付け思う。この世界から逃れる術を奪う覚悟が僕に在ればよいのにと。