ツイステッドワンダーランド 短編



 この世の者ならざるものたちが行脚していても不思議のない夜だった。仄暗くジャック・オー・ランタンに灯った火は道しるべ、彼にとって良き時間を案内してくれることだろう。今はもう昼の喧騒は消え失せ、この夜は水を打ったように密やかである。

 趣のある屋敷、その談話室でジェイド・リーチは待ち人を待っていた。雰囲気を出すためか、蝋燭一本だけに灯された炎がゆらゆらと頼りなく揺れている。ティーカップから立ち上っていた湯気は、いつの間にか空気に溶けてしまった。

 ジェイドと彼女は昼日中に共にあることを許されずにいる。というよりも、少しばかり困難であっただけだ。これはふたりの意見を尊重した上で決めたこと。ジェイドはただでさえ、運営委員にモストロ・ラウンジにと忙しい。そして彼女は今になっても捉えどころがなく、周囲には自分自身のことを闇に包んで隠したがる。

 ジェイドとオンボロ寮の監督生が恋仲にあることは他の誰にも内密であった。それはジェイドとは血を分けた兄弟であるフロイドにも、彼女の相棒である魔物にも。誰にも彼らの関係は打ち明けずにいる。だからこそ人前で仲睦まじくはいられない。彼女がジェイドのことを、上下も関係なく呼んでくれるのもふたりきりのときに限る。

 だが、これでも進歩がある方だ。心を許される前であればジェイドがこんな時間にオンボロ寮に訪ねて来ようものなら、鼻先でぴしゃりと戸を閉められてしまっただろう。このハロウィンという特別な日を共に過ごすことなど許されるはずもなかった。

 本当はハロウィンの特別な装いで、賑やかな祭りの中をふたりで歩くことができたらよいのに。そう願う心がジェイドの中にないわけではない。だが、それはまた次のハロウィンの夜に取っておいてもいいだろう。いつか彼女が許しをくれればそれでいい。

 ーーーーそれにしても監督生さんはどうしたのでしょう。

 着替えてきます、と言った彼女が退席してしまって時計の秒針が何周したことだろう。何しろ訪ねてきたのが夜更けだったのだ。ジェイドは焦るわけではないが、どうしても時間が気になって何度も時を見る。明日も恐ろしい忙しさが待ち構えているジェイドが、眠る時間を削ってオンボロ寮を訪ねてきたのにはもちろん理由があった。要因は全て彼女だが、彼女と過ごせる時間だけが理由ではない。

 外でとても着る気にはなれないけれど、自分も憧れていた仮装衣装を手に入れたんです。

 そんなふうな、ジェイドが飛びつかないわけもない誘い。昼間に彼女とすれ違った一瞬に差し出された餌に食いつかされて、ジェイドは遥々このオンボロ寮を訪ねる羽目になってしまったのだ。

 そう囁いた時の彼女はゴーストが用意してくれたという可愛らしい帽子と黒いローブを纏っていた。それだけでも正直十分すぎるくらいだった。この世界の祭りなどに、彼女という存在が手を伸ばしたということだけで満足に足るはずだった。

 だがその上に、かつてはこの世界での思い出を作ることすら拒んだ彼女が、手ずから用意した仮装があると知ってしまうとジェイドはとても黙っていられなかったのだ。だからこうして今この場所にジェイドはいる。

 それにしても彼女の戻りが遅い、だがかといってジェイドが声を上げて、上の階で眠っているグリムが目を覚ますと困る。彼が起きることでふたりきりの時間を妨げられることは不本意だった。しかし探しに行こうにも彼女がどの部屋にいるかは検討が付かない。

 闇雲に屋敷を歩き、自分が不用意に扉を開けたことで愛しい彼女がジェイドのために用意してくれたシチュエーションを台無しにしてしまったら。それはおそらく自分が一番後悔することだろう。そうやってジェイドは最大の楽しみのために頭を悩ませていたところであった。

「……!」

 突然衝撃が走る。ジェイドは首筋に這わされた凍てつくほどの冷たさに、思わずビクっと肩を振るわされてしまった。

 自分が入室した入口とは違う場所から冷たい風が吹き込んだのと、その冷たさが自分の身体に触れたのは同時だった。この部屋、そちらにも扉があったのですね。

 吃驚のあまりバクバクと脈打つ心臓を落ち着ける間もなく、ジェイドは両目を真ん丸に見開いたまま顔を逸らして上を見上げる。そうすると、とろける菓子よりも甘く微笑んだ紅と目が合った。

「監督生、さん……」

「お待たせしました。せっかくですから驚かせたくて」

 ジェイドの首筋を撫でた手は触れた時は飛び上がるほど冷たかったはずなのに、今はジェイドの体温よりも温かさを持っていた。そう、普段の彼女の手は熱すぎるほどであるのが常だ。

 もしかして手を冷やすのに時間を掛けていたのだろうか。ジェイドを驚かせるために? 想像に過ぎないが彼女のお茶目な一面を思うと、ジェイドは何も言えずにただ愛しいとばかりに口元を結ぶことしかできない。

「とても驚きました。貴女がそこまでしてくださるだなんて」

 これまでのことを思えば。彼女が行事ごと、特にこの世界のイベントに手間暇をかけることは想像もできないというのに。ジェイドはそれだけで感慨深く頬を緩めることしかできない。

 ……しかし、これは一体何の仮装なのだろう。ジェイドはこれまで見たことのない形の衣装に首を傾げる。襟は幾重にも布が重なり、ウエストを太いベルトが締める。そして長い袖は彼女が楚々と歩くたびにヒレのように揺れた。それらはすべて、汚れなき白を基調としてまとめられている。このような姿のお化けや妖精は、見たことがない。

「これは、私住んでいた国の民族衣装のレプリカです。この世界なら異世界人の服ですね。……用意のためにかなり無理を言いました」

 事もなげに彼女が言う。ジェイドはそれを聞いて、決して顔には出したりしないがやや期待外れであるように思ってしまった。確かに衣装は美しく、彼女がそれを身に纏うと言葉にできない奥ゆかしさがあった。この世界の誰とも違う存在感。

 だが、このハロウィンの特別な夜にはいささか物足りなくはないだろうか。

「素晴らしいお召し物ですね。良くお似合いですよ」

 嘘ではない言葉をジェイドが口にすると、彼女の長く垂れた袖が視界の端で揺れた。

「……ジェイドさん」

 そんな、ジェイドの底意を悟ったのだろうか。彼女はやはり彼女であった。ジェイドの頬に手を伸ばし、彼の期待も落胆もすべて掌の上で転がして。彼の上も下も分かったかのように求めるものを差し出す。

「……私の世界には妖怪と呼ばれるものが存在すると伝えられています。この世界で言うならば、魔物に等しいもの」

 ぞくり、とジェイドの心を打つのは未知の世界に対する高揚感。今日が特別な夜であろうと変わりはしない。いや、今日のような恐ろしい夜であるからより引き立つのだろう。彼女の夢物語の味は。

 彼女が彼女であるならば、ジェイドがジェイドであるならば、そこに必ず美しい唄が存在した。ジェイドは先ほどの残念だと思う気持ちなど拭ってしまって期待を込めた目で彼女を見つめる。

「では今宵の貴女は……」

「雪女、と呼ばれる妖の姿です」

 心許ない蝋燭の明かりの中で彼女は静かに物語を紡ぐ。

 雪女、それは彼女の生まれた世界での童話にも出てくる妖怪。寒い雪の夜に木こりの親子の前に現れ、雪女はその父親の魂を奪う。しかし残った青年のほうに美しい輝きを見て、雪女はその子を殺さずに生かした。そこで雪女と青年は一つ約束をする。

 この夜のことをもしも誰かに話したら、その時は貴女の命を奪う。と。

 それから一年の月日が流れ、青年の家の前に美しい女が現れた。その女は青年と結ばれ、子宝にも恵まれ二人は幸せな暮らしを手に入れた。だがある日の夜、青年は美しい妻へ話してしまうのだ。あの不思議な夜のことを。雪女は決して誰にも話してはいけないといったのに。

「妻の姿は見る見るうちにあの日の雪女の姿になってしまいました。ですが、青年の命を奪うことはしなかったのです。雪女はこれまでの生活が幸せであったことを告げ、消えて行ってしまいました」

 そういう物語があるのですよ、と彼女は袖で口元を隠して微笑む。ジェイドはうっとりと彼女の語る物語に聞き入り、その余韻の中で彼女を見上げた。雪のような白に血のような赤の瞳は皓皓と煌めくものだから、ジェイドは眩しさに目を細めてしまう。

「貴女の世界には美しい物語しか存在しないのですね」

「そういうわけではありませんけれど。……さぁお茶を入れなおしましょう、今夜は冷えますから」

 肩を竦めて炎の明かりの中でうっすらと頬を染める彼女は、どこかに遠く。ジェイドの知らない何かへ想いを馳せた目をした。

 灯る光が弱々しいからだろうか。ジェイドはそれを見て、彼女が今話に上がった雪女のようにどこかへ消えてしまいそうだと思って彼女の腰を引き寄せる。

「お待ちください」

 彼女の細い腰を抱きしめてジェイドは彼女のことをまっすぐに見上げた。孤独に輝くその赤はもう既にこの手中に収めたはずだ。

 貴女が僕を揺るがそうと、一枚上手に渡り歩こうとそれに変わりない。貴女は今、他の何物より僕を選んでここにいるのでしょう。

「貴女は僕の前から消えてしまいませんよね」

 それでも些細なことがジェイドの中に不安の影を落とす。いつまた彼女が自分の前から消え失せるかも分からない。それが彼女の意志でなくともだ。

 そう、それこそ僕らの秘密を誰かに打ち明けたら。僕が幸せの絶頂に立てばこの夢は終わるのかと、根拠のない恐れを抱いてしまう。

「どうでしょうか」

 しかし彼女はそんなジェイドの言葉を躱す。ジェイドは食らいついて彼女の言葉を引き出そうとした。

「監督生さん、僕は」

「トリックオア、トリート。……ジェイドさん、どうぞ答えてください」

 居なくならない、と、その言葉だけでよかったのに。彼女はそれを遮ってジェイドにハロウィンにお決まりの呪文を問いかける。ジェイドは少し解せないという目で彼女を見た。だが、そちらがそのつもりならばジェイドにだって考えがある。

 答えは決まり切っている。菓子を与えてしまったら、僕ばかりが貴女に与えているみたいでしょう。せめて僕は、貴女の痕が今でもほしい。トリック、と答えた唇が開いて歯を覗かせる。

「さぁ監督生さん、……貴女は僕にどんな悪戯を施すのでしょう。氷漬けにして永遠に貴女のものにしてくださっても構いませんよ」

 彼女がジェイドの期待を裏切らないことを知っていて、彼は挑戦的な言葉を掛ける。二色の瞳はぎらぎらと狙いすまして、ただとにかく締め上げた腕だけは離さないようにと力を込めた。

 彼女はそんなジェイドに対して穏やかに微笑みかける。くすぐったそうな表情を浮かべ、彼女の雪のように白い手はジェイドの頬を這って包む。

 決して雪女には相応しくない掌の温もり、そしてジェイドに落とされた唇の熱は雪をも溶かしてしまうだろう。離れた唇が静寂の中で囁きかける。

「私はヒトですから、こうしてもジェイドさんの魂は奪えません」

「……いいえ」

 ジェイドが手を伸ばし、見上げた彼女を頬を撫でつける。世迷言を、と彼女の告げた言葉を笑いながら、ジェイドは腕の先にある光に手を翳す。不思議な夜は闇に消え、そこにあるのは唯一手に抱きしめたそのぬくもりだけ。

 灯りはいらない、仮装も。悪霊を追い払う必要はないのだから。僕らのことを誰にも気づかせなければいいだろう。誰にもこの場は邪魔させない。

「既に僕の魂は貴女のものです。どうかこのまま、僕を縛り付けていて」

 この秘密が誰にも悟られないように。ジェイドは溶け合った闇に囁きかける。
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