ツイステッドワンダーランド 短編
汚れた皿は何枚も洗ったというのに未だに空腹は癒えず、それどころか増々と胃の収縮は強くなるような気がした。おかしくないことだ、オンボロ寮の監督生である彼女が最後に食べ物を口にしたのはもう十時間も前のこと。
授業が終わってから休む間もなく、オクタヴィネル寮モストロ・ラウンジでのアルバイト。異世界から来た自分を誰かが養ってくれるわけではなく、自ら稼ぐほか一切の収入は得られない。それこそ食べてゆくために労働は必須だ。相棒である火を噴くモンスターのためのツナ缶代だって馬鹿にはならない。
ブラックとホワイトの天秤で揺れ動きはするが、学園内に勤め先があるというのは幸か不幸かといったところ。まだ働き始めて日は浅いが着実に仕事は覚えてきている。
何はともあれ本日の閉店作業を終え、あとは着替えて帰るだけだ。彼女は誰もいなくなったキッチンの片づけを済ませて更衣室へ向かおうとする。
寮で一人待つグリムはきっと腹を空かせていることだろう。時計の針は既に深夜を回ろうとしていないか。彼がひとりでツナ缶を開けて食べることができるなら、先に食べていてくれてもよいのだがあの手では無理か。胃の中の空気が回る音を抑えながら、そんなことを考える。
キッチンの戸を押し開こうとすると勢いよく、押すはずだった扉が眼前へと向かってきた。慌ててひょいと脇へ飛びのく。
「あれぇ~、小エビちゃんじゃん」
間延びした抑揚のある声は個性的な綽名を呼ぶ。厄介なことになった。何故今、遭遇してしまったのか。見上げなければ視線が合うことのないその人の顔を見る。
「フロイド先輩……」
「まだいたんだぁ、帰らねえの?」
左右非対称の瞳が僅かに細められて彼女を見下ろす。今の彼の機嫌は如何ほどか、探るようにその目を見て考える。双子のリーチ兄弟の片割れであるフロイドは非常に気分屋な人物で、周囲はいつも彼の浮き沈みに振り回されているような印象を受ける。
イソギンチャク事件以降、こうしてモストロ・ラウンジでのアルバイトをすることにもなったため、関わる機会は多いがそれでも彼の思考を推し量ることはできない。不可能だろう、寮長のアズールどころか双子のジェイドですら読み切れていないというのに。
ただ今彼女が考えているのは。機嫌が良すぎても悪すぎても自分がオンボロ寮へ帰る時間が遅くなるだろうということだけ。本当に帰り際に面倒な人に会ってしまったものだ。
「今からすぐに帰りま……」
当たり障りなく言葉を返して帰ってしまおうと思っていたのに。彼女の声を掻き消すようにぐうっと空腹を知らせる音が地響きのように響いた。間が悪すぎやしないか、彼女は反射的に歯を食いしばって腹を抑える。その音を聞いたフロイドの目は驚いたように見開き、そしてニイッと細められる。
「アハハ!! 今の音やべえじゃん! 小エビちゃん腹減ってんの? シログチの鳴き声みてえ~」
あまりにも愉快そうにフロイドが笑うものだから彼女は羞恥に顔を赤らめて逸らすしかできない。相手が分かっているかはともかくとして、異性に腹の音を聞かれる精神的ダメージは思うよりも大きい。失礼しますと言葉を残して今すぐここから消えてしまいたい。しかしそう思い、動き出す前にフロイドの右手が彼女の手首を捕らえる。
「……え」
「オレもさぁ、腹減ってたんだ~。んで、何か食おうと思って」
ようやくキッチンの出口に辿り着いていた彼女の身体をフロイドは簡単に中へ引き戻す。
「気分いいから特別に小エビちゃんの分も作ったげよーか」
「……は」
差し出された言葉に思わず声が出なかった。だが瞬時に悟るのは命の危機。オクタヴィネル寮の、先輩であるフロイド直々に料理を振舞ってもらういったいそれはどんな対価を支払うことを要求されるものか。そして彼の作る料理の安全性は。双子の片割れ、ジェイドの方は料理ができるような印象を受ける。一方フロイドからは危険な匂いしかしないというのが正直なところだ。しかし、問題なのは……。
「ええっと、今日はもう時間も遅いですし……」
「は? 何、食わねえの?」
ぎろりとフロイドの鋭い眼光が彼女を冷たく睨む。握られた手の痛みと指先の血流が滞る感覚。そう、問題なのは断るという選択肢が存在していないこと。ここできっぱりと”食べません”などと言えば今から料理されるのは自分になってしまう可能性すら、ある。
「では、お言葉に甘えて……」
オンボロ寮で待っているであろう、グリムには申し訳ないが。彼女はおずおずとフロイドの表情を伺いながら言う。パッと彼は険しさを払って口元を緩めた。
「いいよォ~」
その表情から何を読み取ればよいのかは分からない。彼女はフロイドの機嫌が持ち直したことだけに胸を撫で下ろした。気まぐれなフロイドは何を考えているだろう、少なくとも彼女とのふたりきりの夜食に喜びを抱いたわけではない。だが……、彼女はぎゅうと制服の裾を握る。単純にフロイドの無垢な笑顔が見られると安心した気持ちになるのは、身の危険が遠ざかるからだろうか。
***
思いのほか食欲をそそる匂いがしてきた。フロイドがキッチンに立って十数分の時間が過ぎただろうか。監督生はキッチンの隅の椅子に座って彼の背中を見ている。
動いたら締めるから、そう告げられて放置されているので席を立てば自分の命はないのかもということを念頭に置いている。
それにしても手馴れているのだな、と彼女はフロイドの背を見つめて思う。包丁さばきも調味料を振るう手も一切澱みなく動く。警戒しなくたって、よくよく思い返せばフロイドはモストロ・ラウンジで新人指導をするほどの手腕があるのだから料理など朝飯前だったろうか。
「小エビちゃ~ん、お待ちどおさま~」
コト、とフロイドのしなやかな指が上機嫌な声と共に皿を届ける。トマトの赤、バジルの緑など彩り豊かな炒め物らしい。とてもおいしそうに見える。どこかオシャレなレストランで出てきてもおかしくないような。控えめに言ってもといい匂いがしてぐうっと遠慮なくお腹が音を立てる。
「あは、めっちゃ腹減ってるじゃん」
「……すみません、お恥ずかしい」
「いいからぁ、早く食べて小エビちゃん」
もう空腹音に対する興味は削がれてしまったようで、フロイドはニコニコと笑って急かすように皿を勧める。匂いに誘われて躊躇うことも無くフォークで料理を口に運ぶ。シンプルだが本当に美味しい。この身は鮭だろうか、塩気があってご飯が欲しいな、なんて思ってしまう。
「どう? 美味しい?」
「はい! とても美味しいです! なんだか意外な食材がいっぱいで……」
「今日は美味しくてよかったねえ」
調子悪いとヘンな味になるから、とフロイドがニタァっと悪戯っぽく笑う。今日は、とわざわざ前置きしたその言葉に引っかかるものがあって、彼女はフォークを進める手を止める。
「フロイド先輩……、この料理っていつも違う味付けを?」
「知らね。だって何入れたか覚えてねえし」
「……は」
先ほどの料理中のフロイドの姿を思い返す。決して彼はレシピを見るなどはしていなかった。だからこそ、その慣れた手つきに感心したのだというもの。
「レシピ通り作ってもさあ、面白くないじゃん」
呆気に取られた彼女の表情を見て、咎められたと思ったのか。フロイドの表情がわずかに曇る。気まぐれシェフもいいとこだ。万が一の味を想像すると肝が冷えるが……。彼女はちらと彼を見やると、少しつまらなそうにフロイドが皿を指ではじく。その姿を見て彼女は自然と彼の言葉を肯定していた。
「……そうですね」
奇想天外な彼の中で、彼女が唯一想像できることがある。
「今日の先輩じゃなきゃ、この料理は食べられないってことですよね。それってすっごく貴重」
それは決して普通ではないということだ。誰にも予想できないことをする、ということ。それが彼であるというところだ。
「ありがとうございます、フロイド先輩。とても美味しいです」
感謝の気持ちを彼に伝えると、潮の満ち引きのように変わりやすい彼の感情が揺れ、曇り始めていたフロイドの表情がふにゃりと柔らかく緩んだ。机に頬杖をついて彼女と視線の高さを揃える。甘えたような瞳が監督生を見て微笑んだ。
「小エビちゃんにならまた作ってあげてもいいよ~。気が向いたらね」
「ありがとうございます、楽しみにしてますね」
あ、そうそう言い忘れてんだけど、とフロイドが彼女の食べかけの皿から鮭の切り身をつまみ上げ、口に放り込み舌なめずりをして笑う。
「ここの食いモン全部アズールが管理してんだぁ。バレたら一緒に怒られようね、小エビちゃん」