鬼道有人の初恋
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花織。その名前を何度胸の内で繰り返したか、数など到底把握していない。むしろ、もうずっと前から彼女のことを名前で呼んでいた。いつからだったか明確にすることができないほど前に。
何度も彼女の名前を口の中で転がしては、発音することはなく喉の奥に納めてきた。月島花織とは確実に親密な関係を築きつつあると鬼道は確信している。だが、彼女を名前で呼ぶことはどうしてもできない。なぜなら、鬼道は自覚しているからだ。
ひとたび彼女を名前で呼んでしまったらなら。今すでに適切とは言い難い距離を保っていることはできなくなる。これは彼女を守るため。そして鬼道有人として何よりも大切なものを守り、義務と責任を完璧に遂行するために越えてはいけない一線だった。
「……月島」
そっと囁いてやるとノートから顔を上げて躊躇いなく鬼道を見つめる眼差し。鬼道さん、と控えめに囁き、屈託なく笑みを見せてくれる。その微笑みは胸の奥を甘く疼かせる。……出会った時と比べて明らかに見せてくれる表情が増えた。これだけ時間を重ねても奥ゆかしく遠慮がちでいたが、緊張で伏せてた感情が豊かな変化を見せるようになった。だから、抑えようにも焦がれてしまうのだ。少しずつ心を許し、愛らしさを浮かべるその姿から目を離したくないと思ってしまう。
「月島……」
乞うように声を紡ぐ。彼女の指先に触れ、接触を拒まないことを確認しつつ手の中に握り込む。吸い込まれてしまいそうなほど大きな瞳を覗き込みながら、艶やかな髪を間違っても傷つけないように優しく耳に掛けてやる。目を伏せた花織の、じわじわと桃色に色づく頬を愛でた。
「お前の話を聞かせてくれ」
フレームに遮られた視界の中に彼女の姿だけが映る。物理と精神の壁に阻まれ、もどかしさが胸をいっそう締め付けた。何もかもを取り払ってしまいたい。その名を何度も呼びながら見つめ、誰にも触れられていない深層を暴き、彼女のすべてを手に入れることを夢想する。
「……はい、鬼道さん」
微笑むその姿は、つとめて無垢で清らかだった。欲深さに破滅してしまいそうだと繰り返すたびに思う。
ーーーー俺の言うとおりに彼女は応えているのに物足りない理由は明白だ。
一方的にその手を握りこみながら瞳の色を眺める。俺はかねてよりその先を望んでいた。その清廉な声が俺の名を親愛を持って呼び、そして。月島花織が、俺と同じ想いを口にしてくれることを。
日差しが弱まって、肌を撫でる風が時折冷たさを孕むようになった。鬼道が月島花織との逢瀬を始めてからすでに数か月の歳月が過ぎていた。
夏休みという学校が通常通り運営されない期間は杞憂に終わっていった。実のところ、鬼道は己が彼女の欠乏に耐えられるかと危惧していたのだ。しかしながらサッカー部の練習と陸上部の練習が休みなど関係なしに詰め込まれていたおかげで、練習終わりの彼らの時間に支障はなかった。
むしろ学校がないだけより多くの時間を彼女と共にすることができたともいえる。授業が無い分時間に猶予があり、学校で自習をして帰ると言えば、迎えの時間を遅らせることは難しくなかった。
嘘はついていない。花織の勉強を見ることは鬼道にとっても有益な復習の時間だった。彼女の走りを共に振り返ることも、彼の分析力を高めるだけに留まらない。彼女のための効率的な練習方法の立案はサッカー部の練習にも生かせることが多かった。無駄な時間など一秒たりともない。
鬼道の教えに応えるように彼女の魅力は日ごとに磨きこまれていく。走りに知識、その美貌に向けてさえ、花織は鬼道が求める以上の努力を見せた。やりすぎだと諫めなければならないこともあった。だが、花織には強い目的意識があるのだろう。その点に関しては意固地だった。
休むことを知らず、脇目もふらずに走り続ける姿は少々心配ではある。だがそれ以上に、何が月島花織の心をそんなに駆り立てているのかを鬼道は知りたくて仕方なかった。彼女が夢中になっているのは走ることか、それとも学問の面白さか、それとも女子らしく己を飾る美容なのか……。これほどまでに彼女が研鑽を止めない理由となる、姿かたちの分からない何かに鬼道は嫉妬さえしていた。
だがそれでも、彼女の底を引き出せるのは自分だけだと。傲慢ですらある自負が鬼道の理性を取り留めていた。彼の恋情と執着は月島花織を覗き込む瞳をより研ぎ澄ませている。
「……浮かない顔をしているな、どうした?」
それは僅かな表情の陰りだった。どこが、という訳でもない。以前の鬼道なら気が付かなかったかもしれない。だが、いつからか鬼道は花織の表情変化を分かりやすいと感じるようになっていた。痛みを堪えるように引き締めた唇、頼りなくスカートに縋る指先。何より平時より鬼道を見上げる間隔が明らかに広い。
「……いえ」
ノートに落としていた視線を持ち上げて花織は口元を緩める。鬼道を真っ直ぐに見つめ返した花織は、小首を傾げつつ、悠然とした表情で口を開く。
「何でもありません、鬼道さん」
この世界の美をすべて凝縮したような笑み。だが、その完璧な笑顔こそ偽りだということを鬼道は知っていた。
――――嘘だな。
ゴーグルの奥で鬼道は目を細める。一度は絆されたことがあるこの笑み。今や鬼道はその意味を目敏く解き明かしていた。
大抵の人間は嘘をつく時には視線を逸らすものだ。だが花織は一癖ある。咄嗟の瞬間はともかく、花織は想定済の嘘をつく時には彼から目を逸らさない。嘘偽りひとつないと言わんばかりの透き通る眼でこちらを見上げ、心を覆い隠して余裕ぶった笑みを湛えるのだ。まるで防壁を張るように。
「何でもない……か。どうやら俺はお前の信頼を得られていないらしい」
お前の本当の笑顔を知る俺には分かる。誤魔化されると思っているなら舐められたものだ。拳が強く握りこまれる。その感情はかすかに鬼道に憤りを覚えさせた。
お前はこの期に及んで、俺の前でもその壁を張るのか。彼女の信用が得られていないかもしれない、その危惧はこの数か月の否定に思えてしまった。
「え……?」
「気づかないと思ったのか。俺ではお前を見通せないと?」
彼女の瞳がわずかに揺らぐ。それは嘘を肯定する眼差しと解釈し、鬼道は腕を組みつつ花織から視線を背けた。
「心外だ。……相談する価値もないと思われているとは」
勝手な苛立ちのあまり、語気が冷めた自覚があった。言葉が吐き出されたあとになって途轍もない後悔が鬼道の胸を襲う。
――――落ち着け。
彼女を怖がらせて得られるものはない。花織の足がこの部屋から遠のくことは自分にとって死活問題。
それに、人間隠し事の一つや二つあって当然だ。俺自身彼女に明かしていないことの方が多い……。必死に自分を諫めて鬼道は深呼吸を繰り返す。
彼女のことになると感情的になりすぎる。もっと慎重に言葉を選ぶべきだ。花織の心を得るため、必要な信頼を地道にここまで積み上げてきた。それを駆使して、彼女の本心を俺が受け入れると進言すればいい。俺の前では表情を取り繕わなくていいのだと、ありのままのお前でいてくれとそう伝えれば。
「すまない、少し言い過ぎ……」
まずは謝罪を、そう思って振り返った瞬間、彼の表情は凍り付いた。白い陶器のような頬を音もなく涙が伝い落ちていく。彼女は鬼道を見上げたままだったが、その瞳はガラス玉のように脆い輝きさえ失っていった。こんな花織の顔を始めて見た。言葉なき絶望がありありと伝わって鬼道は全身から汗が噴き出るのを感じる。
「っ、月島……?」
動揺のあまり声が震えた。大きな瞳からぽろぽろととめどなく溢れる涙を見て、鬼道は血の気が引いた。
ーーーー泣かせた、俺が、彼女を傷つけてしまったのか。
その事実が目と鼻の先に突き付けられると、先ほどまでの偉ぶった態度は見る影もなく吹き飛んでしまった。
「……ぐす」
彼女の嗚咽は鬼道にとっては銃声と同じだった。狙撃されたような勢いで鬼道は花織の前に膝をつく。膝が地面に衝突して鈍い音と共に痛みが走った。しかし、そんなものはどうでもよかった。
「ちがっ、お前を傷つけるつもりは……っ、俺はお前に頼ってほしかっただけで」
情けない言い訳が口を突いて出る。ゴーグルをつけていることが幸いだった。今の鬼道はいつもの余裕など完璧に損なって、一介の少女の前に膝をつくばかりかその前でおろおろと慌てている。彼は覚束ない手でポケットを探り、ハンカチを引っ張り出す。そして震えの止まらない指先で、彼女の頬にそっと押し当てては涙を拭いとろうとした。
まとまりのない思考がぐるぐると渦巻いている。幼い春奈を宥めていたときはどうしていたか。いや、そんなことはもう九年も昔の話だ。それに彼女を当時の幼かった妹と同じように宥めて泣き止まそうとするなんてどうかしている。
「すまない、俺が言葉選び損じたことは謝る。……だからどうか泣かないでくれ」
終いには、祈るように鬼道は花織の手を取って懇願することしかできなかった。花織は鼻を啜りながら悲しげに目を伏せる。握られた手をそっと引いて離そうとするのが分かって、咄嗟に鬼道は指を捕まえて締め付ける。どうすればいいのか分からず、鬼道は切実な思いで花織を見つめていた。
「打ち明けてほしい。お前が何を心に抱えているのか……。それが知りたいだけなんだ」
噛んで含むようにして鬼道は花織に言い聞かせる。どうかそれだけが願いなのだと、理解のためなら手当り次第投げうってやろうと思えた。しばらく花織の涙を拭っていると彼女が嗚咽交じりに小さく口を開く。
「私は……っ、こ、ここに来る資格が、ない……」
「何をっ……」
何を言っている、誰がそんなことを決めたと声を荒げそうになるのを鬼道はやっとの思いで抑え込む。同じ轍を踏んでたまるか、冷静さを欠くとまた花織を泣かせてしまうかもしれない。落ち着け、落ち着けと言い聞かせながら鬼道は花織の手を痛いほど握って彼女の言葉を待った。鬼道が見守っていると花織は少しずつ心を口にし始める。
「……私みたいな地味な人間が、鬼道さんのお時間を奪うのは不敬だって……」
「……はっ」
いちいち声を荒らげそうになるのを馬鹿馬鹿しくも抑えなければならない。彼女に誰がそんな不愉快な言葉を聞かせた? いや、それよりも俺が花織を特別視している事実がどこから漏れたのか。
呼吸も瞬きも忘れて鬼道は花織を凝視した。ギリギリと花織の手を掴んだ手に力が入って、花織が痛みに顔を歪める。
「鬼道さん、いたい……です」
「す、すまない……」
花織が小さく痛みを訴えたのを聞いて、離すことはしないが慌てて手を緩める。辛抱強く花織の言葉を待ち、ようやく鬼道は花織の涙の理由を聞き出した。
花織の断片的な言葉を繋ぎ合わせれば、事態は数日前のことに遡る。陸上部の練習場へ、鬼道が「フォームの確認」という名目のもと、なかば強引に視察に赴いたある日のことだ。
事前に人払いはしていたつもりだったが、帝国学園サッカー部のキャプテン鬼道有人の異例の行動だ。陸上部、もとい月島花織の視察の光景がどうやらサッカー部の奴らの目に止まってしまったらしい。そして目撃した者たちの軽薄な陰口を、今日彼女は耳にしてしまった。
彼女曰く、話していたのは見覚えはあるがレギュラーではないサッカー部の人間だったそうだ。陰気で華がない。突出した才能もない。鬼道有人の時間を浪費する痴れ者だと”長い黒髪の陸上部の女”を酷く罵るのを震えながら聞いていたと告白した。自らの特徴に当てはまることをわかっていながら、花織は物陰に隠れ、震えながら息を殺しているしか無かったと言った。
「……そうか」
事のあらましを聞き終えた鬼道は、地を這うような声で一言呟いた。
一先ず、この場所での密会を嗅ぎ付けられたわけではないことに胸を撫で下ろしてはいる。だが、その安堵を塗りつぶすほどの憤りが体の中で震えていた。
よもや身内の奴らに彼女を傷つけられるとは思わなかった。華がない、ましてや才能がないだと? 彼女のどこを見てそんな言葉を吐けるのか理解に苦しむ。自らの目が節穴であることを棚に上げ、彼女を貶めるなど愚かなことを。可能なら然るべき制裁を与えたいところだが、俺はそんなことをできる立場の人間ではない。この関係を公にしてしまうことにもなる。
何にせよそんな愚か者のことより、重要視すべきは花織の心だ。謂れのない誹謗中傷に傷つき、孤独の中で震える苦しみがこの冷えた手のひらから痛いほど伝わってくる。
「もう泣くな、月島……」
信用の証として心を明かしてくれた花織の涙を拭う。花織が心細さに涙する姿に鬼道は途轍もない庇護欲に駆られていた。鬼道も立場がある人間ゆえに他人の視線の恐ろしさを理解しているが、彼女がそんなものに晒され摩耗するのは耐え難い。しかし何と言葉を掛けたものか。
そこまで考えて鬼道は息を潜める。ゴーグルの奥で鋭い眼差しが涙ぐむ少女の姿を捕らえてはなさない。静まり返った空気の中、恐ろしくも甘美な策に彼は気が付いてしまった。ーーーーこの状況を利用する。躊躇いは瞬きの間に消え、鬼道は小さく柔らかな彼女の手を撫でた。
「言いたい奴には言わせておけばいい」
全てを許容する包容力を意識して、彼は落ち着きを払った言葉を放つ。
「アイツらがお前の何を知っている? お前の存在を知らない奴らの戯言をどうしてお前が気に病む必要がどこにある?」
「けれど、私が傍に寄るだけで鬼道さんの名に傷を……」
ようやく落ち着き始めた彼女の瞳に真珠のような涙が浮かぶ。華奢な肩が不安に震えていた。どこまでも献身的にあるいは卑屈に物事を考えてしまう少女。それがとても健気で愛おしいと鬼道は唇に微笑を湛える。
「そんなことを気にするなら、俺はお前をこの部屋に招いていない。俺がお前を評価し、望んで共に過ごしている……。それだけじゃ不満か」
ただ真摯に思いの丈を述べれば良い。今、彼女は心無い誹謗中傷に晒され深く傷ついている。過剰に見えるくらいのほうが、励まされているように感じるかもしれない。それが本心なのだとは知りもしないで。
「……っ」
「真価を知らない他の誰がお前を貶めようと、お前の存在を俺は理解している。月島の努力を、美しさをすべて知りたいと思う」
勝手に口が回る。とても素面で言えたセリフではないが、臆面もなく鬼道は花織に囁きかけた。それだけこの好機を逃してはならないと、鬼道はこの盤面に花織との関係の進展を見ていた。今攻めることが、夢描いていた唯一の彼女の理解者の座を勝ち取るのだと指を伸ばす。
「月島、俺を見ろ」
涙を拭った指先を滑らせて彼女のおとがいを優しく持ち上げる。瞳がかち合うと彼女の視線は怯えに揺れる。だがそれでも逃さない。
濡れた瞳の中、閉じ込められた輝きを見つめながら鬼道は静かに心を沿わせる。繋ぎ合わせた手から温もりを重ねて、彼女の痛みを理解していると真摯に語り掛けた。自分だけをこうして見つめていてほしい、強欲な願いを覆い隠し、締め上げられるような胸の痛みを享受し会話を進める。呼吸が同期したのを肌で感じ、鬼道はゴーグルの奥で目を細めた。
「お前が願うならその噂、俺がアイツらに訂正してもいい。……だが」
わざと少しだけ身を引いた。意欲的でない提案を差し出しながら彼女の表情を窺う。あまり押しすぎても彼女を縮こませるだけだ。そもそも遠慮がちな彼女が鬼道に手間を取らせる案を呑むはずもない。分かっていながら彼女の答えをさりげなく誘う。
「俺は、人間の価値は人に説かれて理解するものではないと思う。……月島」
「……」
「俺だけでは……、不足か?」
これはここまで積み上げた信頼の査定だ。共に過ごした時間は確かに心を近づけていたのだと……、選択肢すべてを提示したうえで花織に自ら選んでほしい。祈るような気持ちで鬼道は心の底を吐き出した。
本来なら俺だけを見ていろと、尊大な振る舞いができるだけの自信があればどんなにいいか。ここまで言葉を選んで尽くしても、目を逸らされ、この手を振りほどかれるかもしれない。そんな不吉な想像が頭の隅には存在している。危惧を巡らせ、審判を待つ彼の姿はまさに愛を乞うそれだった。
「……ぁ」
花織は鬼道の言葉に少なからず驚いた様子だった。大きな目をさらに大きく見開き、鬼道のことを無防備に見つめていた。しかしその表情は涙を湛えながらも柔らかく緩められる。それは、今日ここに来て初めての彼女の微笑だった。
白雪の頬にうっすらと朱を差し、潤んだ瞳は砂糖菓子のように甘い熱を持って鬼道を見つめ返す。
「いいえ、鬼道さんが分かってくださるのなら……」
唇が紡いだ言葉に、鬼道は安堵とこの上ない充足感で満たされ表情が綻ぶ。ようやく笑ってくれた、それも己が最も望む形で。鬼道は握り締めた花織の手をわずかに自分の方に引き寄せる。絡まり合った視線をそのままに、熱を孕んだ声が囁く。
「分かっていてくれ。俺がお前を誇りに思っているということを。それだけでいい」
「……はい、鬼道さん」
漆黒の瞳の中で星が瞬く。これを夢見心地というのかもしれない。彼女の唇から零れた自分の名前、そこにこれまでにない熱の錯覚を鬼道は感じ取っていた。