鬼道有人の初恋
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地区予選決勝は、帝国の圧倒的な勝利に終わった。
決勝とは名ばかりの試合だ、所詮は地区レベル。決勝の相手であった野生中は個人の身体能力こそ突出していたがそれだけだ。帝国の戦術を駆使すれば足元にも及ばない。
当然だ、予定調和に過ぎない……。勝利の余韻さえ些細なものにしながら鬼道は帝国学園の通路を進む。勝手に早まる足音を諫めつつも、喉の奥からこみ上げる感情が鬼道を突き動かしていた。しかしながら鬼道を急き立てているのは勝利の喜びではない。
ようやく目的の扉の前に辿り着き、間髪入れずに指を伸ばす。そして痺れている指の腹でも寸分の狂いなくキーパッドに指を沈めた。
今日の試合に特別性は一つもない。
重厚な自動ドアが鬼道の少し乱れた呼吸だけの空間を分かつ。緩慢に開いた自動ドアの隙間に、身体を滑り込ませるようにして鬼道は入室した。すぐさま部屋の奥、大きく開いた窓枠に手を乗せてピッチを眺めていた彼女が鬼道の瞳に映りこむ。
照明の照り返しさえ自らのものとした艶やかな濡羽色の髪が、彼女の動きに合わせて揺れる。振り返った眼差しが鬼道を捉えた。
その目は鬼道を映して水面のように光を纏う。心の中に抑え込んでいた熱が壁の崩壊と共に溢れ出した。
そうだ、今日の勝利は帝国にとって通り過ぎるだけのもの。だが、鬼道にとっては。この試合はただの勝利とは異なる意味をもたらしていた。
…………月島が俺を見に来てくれていた。本当に、ここにいてくれた。
彼女の存在をこの目で確かめ、事実を認識してやっと、鬼道は今日の勝利の価値を実感した。ただの義務でしかなかった勝利が初めて彼女を見て彩られる。
落ち着きを装った足取りで鬼道は花織の元へ歩み寄る。だがその声色には望外の喜びでわずかに震えていた。
「見に来てくれたんだな」
約束していた。数日前、試合を見に来てほしいと鬼道が願って花織はそれに頷いてくれたことは鮮明に記憶している。今日を迎えるまでその頷きを何度も胸の中で反芻した。今日、きっとここへ来てくれるはずだと端から期待を抱いていた。
それでも実際にこうして、事実を目の当たりにすると狂おしいほどの充足感に満ちた。今日、彼女は俺だけのためにここにいてくれたのだ。
「……はい」
鬼道の囁きに対し、彼女は密やかな声と共に伏していた眼差しを持ち上げる。濡れた瞳が感情を堪えるように細められた。
「優勝おめでとうございます。鬼道さん」
それは美麗な夜の海の如く。静謐な眼差しが鬼道だけを映す。緊張を帯びた声が、彼女が鬼道の勝利を賞賛した。たったそれだけのことで、マントの奥に隠した心臓は平然となどしていられずに破れそうなほど暴れていた。だがそれを、やっとの思いで押し殺し鬼道は余裕ぶって微笑んだ。
「ありがとう。……だが、優勝といってもまだ地区予選だ。本番はこれから、といったところだがな……」
敗北に価値はない。勝利以外の結末はなかった。だからこそ鬼道の言葉に嘘はない。総帥に師事する自分が完璧なゲームメイクをすることは鬼道有人に求められた義務。成し遂げて当然のこと……。謙遜を口にする鬼道に静かに彼女が首を振る。
「いえ……、素晴らしかったです。鬼道さんの采配。ここからでも見えました、鬼道さんが完璧に試合の流れをコントロールなさってて……」
鬼道は痺れの残る指先をマントの中で強く握りこむ。平静を保ちつつ、鬼道は彼女の一言一句を逃すまいと神経を研ぎ澄ませる。
「まさに、天才の名を体現されていた」
穴が開くほど見つめた鬼道の視界の中、光を落とした花織の瞳が揺れた。
「凄かったです」
噛みしめるように重々しく彼女が言葉を紡ぐ。時折言葉を詰まらせながらも、彼女は噛みしめるように鬼道への賞賛を囁いた。打ち震えるような激情に、鬼道は胸が圧し潰れてしまいそうだった。
彼女が俺を讃えてくれた。……いいや、俺を見ていてくれた。俺のサッカーを、プレーを。
花織から視線を逸らし、鬼道はさりげなく咳ばらいをした。このまま花織を見続けていると、触れてしまいたいという感情が溢れ出して止まらなくなるのは分かっていた。
今日のゲームメイクは完璧だったはずだ。彼女の言う通り、ミス一つない試合運びだった。花織が見に来ると信じていたから、決して無様な失態を演じないよう入念に戦略を確認していたんだ。ゴーグルの奥から鬼道は熱を込めた視線を花織に送る。
力を温存してもよかった試合だった。完膚なきまでに野生中を叩き潰し、勝利のために力を尽くしたのは。他でもない彼女に、全力でサッカーに向き合う俺を見てほしいと思ったからだ。
「……」
しかし胸中で駆け巡るすべてを抑え込んで、鬼道は余裕たっぷりに大人びた笑みを花織に向けた。
「フッ、褒め殺しだな。……何も特別なことじゃない。あの程度じゃ肩慣らしといったところか」
浮つく感情が子供じみた虚勢を張らせる。だが、実際彼女がこれからも自分見ていてくれるのならば。きっと限界を超えて戦えると根拠もなく思えた。より冴えた試合運びが、完璧な勝利が手に入る確信があった。
舞い上がる感情が、鬼道をらしくなく饒舌にしそうになる。だが、鬼道は口を開くよりも先に花織の表情に違和感を持った。このところ、鬼道をまっすぐに見つめられるようになっていた彼女の視線。その瞳に落ちたわずかな陰を鬼道は見逃さなかった。
「月島」
焦燥が胸を駆け巡って彼女の手にそっと触れた。冷え切った指先に己の指を沿わせ、掬い取るようにして握り締める。彼女の手は、まるで試合が終わった後の沈黙に似て冷ややかだった。鬼道は眉を顰めて花織の顔を覗き込む。
「お前……、少し疲れたんじゃないか? 今日は俺の我儘に付き合わせてしまったからな」
試合のあの膨張するような熱気と圧。決勝戦ということもあって観客もそれなりに入っていた。ピッチのひりつく空気と大勢の人間の喧騒。この場所での観覧を勧めたとはいえ、普段とは異なる環境だったことには違いない。
普段は静かな場所で一人で過ごすことの多い花織のことだ。今日の慣れない試合観戦は彼女を疲弊させてしまったかもしれないと鬼道は推察する。
「座って話をしよう。……こっちだ」
軽く握った花織の手を引き、鬼道はベンチまで甲斐甲斐しく花織をエスコートした。花織がベンチに腰掛けると鬼道もその隣に腰を下ろす。握り締めたままの手は離さない。離すなどという思考もない。
鬼道は握ったままの花織の手をそっと、労わるように親指で撫でつけた。冷えた手が自分の体温で上書きされるように。
こうしていれば日常の通りだ。二人で過ごす時間と何ら変わりはない。何も臆する必要はないことを、与えた静寂と手の温もりで鬼道は懸命に伝えようとする。試合の余韻も緩やかに下がっていくだろう。
「月島、今日の試合はどうだった?」
だが、少しの物足りなさが鬼道の口を突いて出る。
「お前の糧になるものがあったならいいんだが」
狡猾に、慎重に鬼道は花織の心を覗き込む。彼女を試合観戦に誘った口実を取り繕ったようにして持ち出した。彼女が得た学び、今日を実りある日だと思ってもらえたか……。それを確認するのが彼女をここへ招いた自身の努めだ。
だが学びという名目は建前にすぎない。俺はまだ、彼女の口から聞きたくて仕方がなかった。月島花織にとって今日の試合はどんな風に見えたのか。サッカーをどう思ったのか、俺のプレーをどのようにとらえていたのか……。欲深い感情が、彼女の心を暴こうとしている。
あの程度の言葉では足りない。もっと知りたい。彼女の言葉で聞きたい。お前の心に俺がどのように刻まれたのかを確かめたい。それがすべてだった。
「よかったら聞かせてくれ。……ゆっくりで構わない」
***
鬼道有人の恋心は、もはや純粋な好意だとは言い切れないほど深く底が見えなくなりつつある。それは鬼道自身が感情を御しきれなくなるほどに。
後日、練習を終えた彼は、威風堂々とした振る舞いでロッカールームへと急ぐ。戦術について総帥の師事を仰いでいて少し遅くなってしまった。
今日もこのあとに月島花織との約束がある。いつでも彼女との時間は待ち遠しいが、もうすでに伝えたい言葉を吟味してあった。その事柄とは、今日の体育で彼女が残した記録についてのことだ。
鬼道は脳裏にその記憶を回想する。陸上での”動”とは対照的でありながら、彼女の能力が遺憾なく発揮された”静”の美しさ。今もまだその光景が射撃音と共に鮮烈に焼き付いている。
命中率九十八パーセント。モニターに映し出された、他の追随を許さない圧倒的な数値に鬼道は思わず感嘆の息を吐いた。その表示を前にしても特段の感興も示さない彼女。イヤーマフを外したその仕草で翻った黒髪の合間から、気弱な彼女とは一線を画す凛々しい眼差しが覗いた。まるでそれは、タータンの上を駆ける姿を彷彿とさせる。
体育の授業は他クラスと合同で行われることが多い。そして幸運なことに今日のクレー射撃の授業は彼女のクラスと一緒に授業が行われることになった。
他の人間の目もある。声を掛けられるわけでもない。それでも、同じクラスに彼女がいるということ自体が、鬼道にとって貴重な機会に他ならなかった。この目に、普段とは違う彼女を映すことができる……、普段の授業以上の意義をそこに見出されていた。
――――それにしても。
ゴーグルの奥で鬼道は目を細める。走る姿からある程度は推測していたが……。月島花織は珠玉の身体能力を持っている。あの命中率を叩きだす体幹の強さと動体視力、瞬発力は並ではない。クレーを捕らえるリズム感もある。
何よりこの、緊張感のある場で安定した結果を出せるメンタルの強さ。アスリートとしては一流の部類だ。
かねてより感じていた。月島花織の最も優れている部分、それは卓越した精神の収斂。……すなわち驚異的な集中力に他ならない。先の競技中も静止の中に在りながら、その瞳はゴールを見据えて疾走する眼差しそのままだった。……いや、彼女の能力が発揮されるのはスポーツに限ったことじゃない。これまでにもその片鱗を幾度となく目の当たりにした。例えばあの部屋で、鬼道を待ちつつ自習を始めたなら。鬼道に声を掛けられるまで全くと言っていいほど気が付かないのが彼女という人間だ。
鬼道の目は彼女を見つめて和らぐ。二の腕を組み、何でもないふりをしながら彼はごくわずかに口元まで緩めた。素晴らしい才覚、彼女の成果はまるで自分のことのように誇らしい。あの熱が走りに注がれるからこそ、鬼道は彼女のためあらゆる手を尽くしてやりたいと思える。磨けば磨くほど彼女は宝石のように眩く輝く。
――――彼女は美しい。
一つの事象にすべてを注ぐひたむきさ。一見気弱で、権威に押し負けるようにみえて実のところ彼女は意志が固い。あの静謐な瞳の奥に華やかではなくも掻き消せない光を見ることがある。焦がれてやまないその光の存在に鬼道は思いを馳せる。
だが、ロッカールームの扉が開いた瞬間、彼の心に陰りが差した。
『へえ、すごいな。月島花織……ってやつ』
脳裏に響く、射撃場の乾いた銃声とざわめき。彼女が正確に的を撃ちぬくたびに、月島花織という女に集められた視線の声の一つ。疎ましさを感じて顔を顰めたのはその時も、今目の前にある現実も同じ。
「月島花織って女らしい。……お前知ってる?」
疎ましい賞賛の声は、潜められた疑心の声にすり替わった。彼女の名前を挙げたのはロッカールームでの何気ない雑談の中の一つだっただろう。だが、その名前を鬼道が聞き逃すはずもない。
ロッカールーム内は鬼道の登場により、一瞬だけ、静まり返ったがすぐにざわめきがぶり返す。鬼道は周囲の警戒を気にも留めていないふりをして自身のロッカーの前に立った。
「いや……、いい女なのか?」
「それがさ……、暗くて地味なヤツなんだよな」
そして、おそらくは続けられている月島花織の話題を盗み聞く。暗くて、地味か……。彼女に向けられた薄っぺらな批評を鬼道は思わず鼻で笑いたくなる。愚かだな、お前たちは何も分かっていない。
「人と話してるとこ、見たことないし。何か野暮ったい感じでさ」
「へー……、どんな奴かすら知らねえんだけど」
しかし、実に不快だ。手のひらに痛みが走ってやっと、鬼道は爪が食い込むほど手を握り締めていたことを自覚した。耳障りな声を払うように、鬼道は脱いだ練習着を洗濯カゴに投げ入れた。冷めた毒が体中を這いまわる。
「……」
評価についてはまだ抑制が効く。暗い、地味、野暮ったい。月島花織にまつわるその評価は決して間違いじゃない。彼女のうわべはまさしくそうだ。上手く友人を作れず、もう二学期も始まったというのに未だに孤立し続けている。奴らの話は事実として遜色ない。
鬼道の評する月島花織は才能があり、努力もする。少々人見知りだが心を許した人間には親愛を覗かせる。嘲笑の対象になるには不自然なのに現実に乖離が存在するのはなぜか。答えは簡単だ。鬼道自身が、彼女の評価をコントロールしているからだ。
決して彼女を妨害しているわけではない。だが、鬼道は意図的に彼女の本質を周囲に秘匿していた。そうすることで花織が引き続き帝国で息苦しい生活を強いられることを分かっていながらだ。
本当に彼女の為を思って行動すれば、鬼道は彼女の世界を一日で変えてやれる。相応しい舞台を与え、その魅力を周囲に知らしめる。正当な評価の場を与えるだけで彼女を避けている人間の評価は様変わりするだろう。すぐにも花織の周囲には人が集まるのは明白だった。
それを理解しているからこそ、鬼道はこうして彼女の不名誉な評価を耳にしても否定も肯定もしない。むしろ、月島花織から人が遠ざかることを内心願っていた。きっと彼女だって注目を浴びることを望まないはずだ。人の視線を避けるように俯く彼女へ余計な負担をかける必要はない。
これもある意味彼女のためだ。たとえ花織が不当な評価に甘んじ、教室の端に追いやられることになったとしても。誰の話題にも上らせるべきじゃない。……月島花織の存在が、名前が。誰かの口から出てくるなど、花織の存在に手垢をつけられたようで耐え難い。
――――傲慢だな。
俺は彼女の存在を誰にも気づかれたくない。ましてやその美しさや魅力がどこの馬の骨とも分からない輩の目に触れるなど……。考えるだけで虫唾が走る。彼女が微笑み、心を許せるのが俺だけであればどんなにいいか。幾度となくありもしない妄想をした。彼女が俺の不調を理解してくれたように、俺が彼女の唯一の理解者でありたいと、昏い感情を腹の底に抱えている。
俺を見つめて微笑む彼女の眼差し、陽だまりを灯したような温もりと控えめながら人懐こい笑み。鬼道さん、と俺への信頼を宿した甘い囁き。これを手に入れるために俺がどれだけの苦心をしたか。これは俺のものだ。……他の奴に晒すつもりはない。
この想いは留まることを知らない。鬼道はゴーグルを外して汗を拭う。ふと、視線の先、ロッカーに掛けられた鏡の中に映った己を一瞥する。瞳に宿る熱はいっそう濃さを増して劫火の如く燃え盛っていた。タオルで汗を拭いつつ、鬼道は鏡から視線を逸らす。
何一つとして知られてはならない。彼女のすべても、この感情さえ誰にも知られるわけにはいかない。
分からなくていい、知らなくていい。アイツの笑顔がどんなに愛らしいか、知っているのは俺だけでいい。
彼は帝国学園サッカー部のキャプテンとして、冷静な鬼道有人の仮面を完璧に纏う。
誰にも触れさせるものかと閉ざしたロッカーの音が静かに深く反響した。