鬼道有人の初恋
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その日、鬼道有人は疲弊の中にあった。
ベンチに腰を下ろした彼は膝に手を付き顔を覆う。練習の疲れが蓄積し、些か眠気を誘っていた。今はまだ、この場に彼女が来ていない。約束の時間まであともう少し。しかしながら休息を取るほどの余裕があるという訳でもない。
鬼道の名を背負う彼の日々は多忙だ。フットボールフロンティアの開催に伴い、確実な勝利を得るための万全の策を講じる。戦略を練るため、毎夜対戦校のデータの確認を行うことは苦にならない。彼にとってデータ収集は趣味のようなものであり、相手チームの分析することは鬼道のゲームメイクの手数を増やすためには不可欠なことだ。今や習慣となっているのだし、サッカーに関する事柄は全くもって苦痛はない。
だがそこに、父の付き添いでの社交パーティーが重なるとなれば話が変わってくる。鬼道の名を継ぐための義務、学びが多い場であることは否定しない。しかしながら鬼道家の御曹司として、常に大人たちに愛想笑いを振りまき続けるのには神経をつかった。それが頻繁に行われるのだから尚更だ。
はっきり言って休息が不足している。合理的に考えるなら今すぐに迎えを呼んで明日に備えた方がいい。そうと分かっていながら鬼道はここで彼女を待つ。
月島花織との時間を設けるのは容易ではない。週にたった一度もしくは二度のわずかな時間、彼女とのこれを得るために鬼道はそれなりに無理を通していた。今日だって約束を取り付けず、彼女との時間を削れば余裕が持てたはずだった。休息が取れる、そうすれば身体的にはより良いコンディションを獲得できると、頭では理解していても感情が納得しなかった。今や、できるわけもなかった。
学内では滅多に彼女と顔を合わせられない。無論、彼女を捕まえるのは容易だ。だが鬼道がひとたび学内で彼女に声を掛ければ、花織にいらぬ注目が集まることが想定された。人見知りな彼女にとってそれは苦痛になる。花織に負担をかけることを鬼道は望まない。それに余計な噂が総帥の耳に入りなどすれば、彼女との接触すら危ぶまれるかもしれない。
――――これは俺の意志だ。
額に手を当て眠気を払おうと頭を振った。彼女を一目見ることの恩恵は、高々数十分の仮眠に比べて余りある。俺自身が望んでこの選択をした。義務も責任もなく俺がただ彼女に会いたいだけ。
睡眠欲の支配に抗いながら鬼道が扉を睨む。それとほとんど同時に扉のロックが解除される音がした。
「失礼します」
清涼な声が暗鬱とした部屋に一気に風を吹き込む。視界に入ったその姿は鬼道の眠気を瞬時に吹き飛ばした。
陸上に精を出した後だからだろう、頬を上気させた花織は鬼道を見つめて親愛に満ちた微笑を浮かべた。煌めく黒髪を揺らし、楚々と歩いてくる花織に鬼道もつられて表情を和らげる。
「お待たせして申し訳ありません」
「いや……、俺も来たばかりだ」
鬼道は自分の隣のスペースを撫で彼女に座るように促す。花織は素直に頷き、鬼道に言われるがままそこに腰を下ろした。スカートを整えている彼女の所作を眺め、鬼道はゴーグルの奥で目を細める。
息遣い、動きに伴って白さを帯びた蛍光灯の光が花織の清廉さを引き立てる。俺の選択は間違っていなかった。彼女を見ているだけで疲れ切った心が解れるようだった。心なしか肩の重みさえ抜けるような気がする。
「……」
何も言わず、鬼道は花織の顔を見つめ続ける。花織は鬼道の視線を受け、戸惑いを浮かべて視線を泳がせる。口を開きかけたのに一度躊躇って口元を結んだ。
その小動物じみた動きにさえ愛らしさが滲むと感じる。もはや、俺は重症なのかもしれないと鬼道は思う。このままずっと見ていられる……。鬼道がそうやって黙り込んでいると花織の方が口を開いた。
彼女の視線が鬼道に留まる。花織はおずおずと視線を上げ、鬼道をじっと見つめた。吸い込まれそうになる漆黒の瞳が鬼道を映す。夜の海のような彼女の眼差しは鬼道を映す。そうして、彼女はこれまで見せたことのない表情を鬼道に向けた。
「鬼道さん……、お疲れではありませんか?」
「……え?」
唐突な指摘に言葉が詰まる。鬼道は花織の言葉に狼狽えて咄嗟に表情を取り繕えなかった。そうじゃない、むしろ……、彼女が入室してから今まで表情を取り繕えていたのか? それがそもそも疑わしくなった。……いや。
それよりもなぜ、彼女がそんなことを言い当てるのか。想定外の出来事に理解が及ばずに鬼道がわずかに口を開く。
「なぜ……、そう思う」
やっとのことで絞り出した言葉がそれだった。口にした後になって鬼道は情けなく自分の声が震えていたように感じた。常に冷静であれという師の教えは、彼女を前にすれば元より困難なことだった。だが、ここまで心中深く、意図的に彼女から踏み入られたのは初めてだった。
鬼道の問いかけを受け、花織は目を瞬かせた。彼女はスカートの上に置いた両手の指を絡めてぎこちなく弄ばせる。そして控えめに微笑んで手をベンチの上にそっと這わせた。
ベンチの上に置いた鬼道の左手に触れないぎりぎりの位置で彼女の指は留まる。そして花織は鬼道の顔をほんの少しだけ覗き込んだ。
「こうして……、お顔を見ていれば分かります」
「……は」
緩みそうになる口角を必死に抑えて唇を噛む。ポーカーフェイスを作っているつもりだった。少なくともチームメイトの前や、他の生徒の前では完璧に振舞えているはずだ……。疲れているのか、などという弱さを突かれたことは一度もない。そもそもゴーグル越しにどれだけ鬼道の本心が汲み取れるか。
本来なら自分を顧みて改めなければならない。俺の欠陥を明るみに晒す彼女を脅威に感じなければいけないはずだ。……だが。
胸の中に広がる温かい感情のせいで指先まで熱い。脅威どころか、彼女がこうして心に触れようとしてくれることに喜びを感じた。都合のいい解釈かもしれない。だが、彼女はそれだけ俺を見てくれているのか。仮面を透かして、素顔の鬼道有人そのものを……。その仮定は俺にとって堪らなく甘美な希望だった。
「……ほう」
鬼道は熱に促されるまま指を動かす。言葉と寄せられていた花織の指先に手を重ねて徐に触れる。指を絡めて少しだけ自分の方へ引き寄せた。花織はわずかに身を硬くしたが、鬼道の手を拒むことはない。鬼道は握り締めた花織の手を持ち上げ、自分の胸に押しあてる。しっとりとした彼女の小さな手が微かに震える。
底の見えない美しい瞳も薄桃色の唇から零れた呼吸も、鬼道の胸に手が振れた瞬間大きく揺らいだ。頬にさした赤みが目に見えて濃さを増す。それを愉しむように眺めながら、鬼道は子供じみた期待を込めて花織に問いかけた。
「なら……、月島。俺が今、何を求めているか分かるか?」
極めて悪質な問いだ。俺自身さえこの瞬間、月島花織に何を期待しているのか分からない。だから、彼女に答えが分かるわけがない。鬼道はゴーグルの奥から透かすように花織の瞳に映りこんだ男の顔を眺めた。
月島花織の心が欲しい。以前からそう思っていた。だが、今はそれだけでは足りないのかもしれない。こうして胸に押し抱いた彼女の指も、俺だけを見つめるその眼差しも……、いやそれだけじゃ足りない。視線を交え、言葉を交わすたびに欲が深くなる。
彼女の答え次第で……、俺はもうこの手を離せないかもしれない。
「……」
彼女から紡がれる言葉をひとつでも見逃してなるものか。花織の唇が開き、わずかに動く。しかしそれは声にならず、音もなく消えてしまう。彼女の顔は真っ赤だった、今にも泣きだしそうな目をして鬼道を一瞬縋るように鬼道を見る。しかし潤んだ瞳は自信なく俯いて鬼道から逸らされてしまう。
「……い、いいえ」
ぞくりと皮膚が粟立つのを感じた。言い知れぬ高揚感が鬼道の中に溢れかえる。高鳴る胸の鼓動に彼女の手を押し付けて強く握りしめる。強欲に攻め込んだ自覚がありながらも、鬼道はその手を放すことができなかった。彼女が自分のために思考し、この表情を浮かべて見せた。それが堪らなくいじらしく愛おしい。その衝動は鬼道を止められない。
「月島」
「……っ、鬼道さん……⁉」
名を呼び、より強く彼女の腕を引き寄せて。バランスを崩した花織の上体を腕の中に抱き留める。漂う甘い香りが鬼道の距離感を狂わせる。花織の声は明確に焦りと緊張を孕んでいたが、その声がますます鬼道を煽った。鬼道の行動一つに身を震わせる花織のすべてが彼の心を絡めとって離さない。鬼道は右手で花織の背を支え、その細い首筋に顔を寄せる。
「冗談だ。……お前はここにいてくれるだけでいい」
欲望のままに囁く。他の強欲な願いを抑え込めても、これだけは何よりも譲れない。花織は鬼道の腕の中に息を堪えたまま小さく頷いた。
「……はい、鬼道さん」
従順な花織の答えに鬼道の心は満たされる。そっと彼女の背に手を這わせ、抱き留めた花織の髪を撫でつけた。癖なくまっすぐで、艶やかな黒髪。ほつれ一つない彼女の美しさを際立てるその髪を愛でるように撫でる。
生え際から髪をひと房かきあげ、赤くなった耳に柔らかな手つきでかけた。花織がされるがままにしているのをいいことに、鬼道の口からささやかな願いが零れ落ちる。
「……月島、もし……、お前の都合がよければだが」
「……?」
「次の日曜日、フットボールフロンティアの地区予選決勝がこのスタジアムで開催される。……この場所からでも試合が見えるはずだ。……だから」
きつく胸が締め付けられて、彼女を寄せた両の手に力がこもる。耳元に寄せた唇から零れた吐息が震えると、彼女の身体がびくりと鬼道に反応して揺れた。
今この瞬間がこれまでで一番表情が取り繕えていないことを鬼道は確信していた。彼女に余裕のない顔を見せるわけにはいかない。感覚を失った指で花織の身体を抱き寄せて囁く。
「決勝戦を見に来ないか。……きっとお前の走りに役に立つ」
恐ろしく長い沈黙が続いた。高望みしすぎたかと胸の中に焦りが溢れ出る。不安に揺れる心が彼女を逃がすまいと彼の腕の力を無意識のうちに強めていた。
そして鬼道は、静寂のその果てに彼女が小さく首を縦に振ったのを見る。そこでようやく、鬼道は息を吐くことを思い出した。