鬼道有人の初恋
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定例試験を終え、フットボールフロンティアの時期が迫っていた。フットボールフロンティア、中学サッカー最強を決める大会。鬼道有人のサッカーにおいて、現状最も重要とされる一大イベントであった。
三十九年間、無敗であり続ける帝国学園。その伝統を守るため、そして鬼道自身の悲願達成のために彼は完璧な勝利を手にする責任があった。絶対王者としてその頂点に立つ義務が、鬼道有人という名前には存在していた。
しかしながらその義務と責任の真逆のところに彼の心は囚われたままだった。いやむしろ季節の移り変わりと共に、外気温の上昇と共に。鬼道の恋心は留まるところを知らず熱を上げていくばかりだった。無論、美しい黒髪のあの少女に向けられた感情のことだ。
春が過ぎ去り夏の訪れを感じても、彼と月島花織の密かな時間は途切れていない。それどころか、わずかな時間を見つけては頻度を増していた。逢瀬を重ね、時間を共有することで彼女との関係はより深まる。少なくとも鬼道はそう感じていた。だが、錯覚ではない。以前に比べれば格段に、彼女が自分に心を許してくれていることも彼は確信していた。
自動ドアの開放ともに彼女の姿がその目に映る。華奢で、いつ見ても愛らしい背中に相も変わらず胸いっぱいになりながら鬼道は声を掛けた。
「月島」
空気が揺れる。鬼道の声を聞くと、長い黒髪がふわり揺れて、長い睫毛に縁どられた美しい瞳が彼を見上げる。まるで夜の海のような色をした、出会ったころは萎縮と恐ればかりを浮かべていたその瞳。今、それは鬼道を見つめると柔らかな木漏れ日に似た光を映すようになっていた。
「鬼道さん、お疲れさまです」
甘い声色が囁く、口元に浮かべた微笑が彼女の表情を彩る。一目見ただけで張り詰めていた身体の疲れが抜けるようだった。表情筋が勝手に緩んで締まりのない表情を浮かべそうになる。鬼道にとって季節よりも大きな変化が彼女だった。まるで、花が開くように。……彼女は、鬼道に向けてごく自然に笑いかけてくれるようになった。
「待たせて悪かった」
「いいえ……。私も来たばかりなので」
膝の上に載せたノートから指を持ち上げ、はにかみながら落ちた髪を耳に掛けなおす。以前なら髪に触れることは彼女にとって緊張と萎縮の表れだったが、そこにはいつしか優美さが宿っていた。まるで鬼道を待ちわびるかのような視線、それは隣に腰を下ろす鬼道を見つめて細められる。それは彼は平静を装いながら彼女の顔を覗き込んだ。
「それで……、どうだ最近は。ノートを見せてみろ」
「はい、鬼道さん」
華奢な指が鬼道の言葉に従順にノートのページを開き、細かな書き込みがされた左のページを鬼道の前に差し出す。鬼道が何気なく与えた発言から始まった彼女の陸上の軌跡。この場所での逢瀬を繰り返すたびにこれを二人で確認するのが自然と習慣になっていた。彼女の努力とその結果を、余すことなく知りたい。実に打算的だったが、その分彼女にとっても有用な時間となるように努めた。
踏み込みやフォームの改善点など、陸上競技に関する論文を読み得た知識で助言した。自分の言葉が彼女にとって価値があるものになるように。鬼道にとってそれは喜びに等しかった。
鬼道は彼女の記録を目にし、すぐさま感嘆の息を漏らす。分析を読む前から記録されたタイムだけで彼女の成果は明白だった。
「すごいな、十二秒を切ったのか……?」
記録を指でなぞりながら鬼道が指摘する。彼女は鬼道の指摘に瞳をいっそうきらめかせた。至極嬉しそうに、何より花織は照れくさそうな表情を浮かべて俯いた。
「……はい、そうなんです。昨日初めて」
「そうか」
胸の奥に熱いものがこみ上げて胸が詰まった。心臓が大きく拍動するのを感じながら、彼女の微笑が鬼道の世界を一色に染めていた。心が震えるほど喜びに浸る。そうか、などという素っ気ない言葉が飛び出すが、まとまりのない感情が零れださないように言葉を飲むのに必死だったからだ。
これは快挙だ、日本記録に届きうるのも時間の問題かもしれない。彼女にはもとより走る才能があったが適切なトレーニングでここまで伸びるのか。彼女には彼の助言を聞き入れ実行する素直さがあり、それを完璧に遂行する力があった。それでもこの伸びはもはや天賦の才というべきか。鬼道は彼女の驚異的な成長力には目を見張る。
だが、反面悔しい気持ちが内在した。俺はなぜその記録の樹立に立ち会わなかったんだ。彼女が記録を更新する瞬間をこの目に焼き付けるチャンスがあったのに。昨日は学園内にいただろう、滅多にない機会だというのに俺はそれを逃したのか。喜びと悔しさと、鬼道の心は混ざり合って言葉を潰す。
「この記録を出せたのは、鬼道さんのご指導のおかげです。いつも本当にありがとうございます」
しかしながら、月島花織はそんな鬼道の複雑な感情を知ることなく純粋な喜びに綻んでいた。確信的な鬼道への信頼が彼女の声にはあった。純真で愛らしい笑顔をこちらへ向けてくれる。それが嬉しくて鬼道は表情を緩める。
「そんなことはない、お前の努力が成したことだ」
自分のおかげだと言われて悪い気はしない。だが、記録を打ち立てたのは彼女自身の努力があってこそだ。自分の手柄にする気は欠片もない。そう思いつつ、鬼道がノートを返却すると花織は受け取ったノートを胸に押し抱く。ノートの表紙を大事そうに撫で、彼女は小さく首を横に振った。
「いいえ」
黒翡翠のような眼差しに温かな光が滲む。
「……鬼道さんがいてくれたからです」
その瞳と、言葉を都合よく解釈できたらどんなにいいだろうと思った。
彼女には明確な変化があった。それは一定の分野に限局しての話ではない。あらゆる事柄において鬼道の目には彼女の変化が映し出されていた。
陸上に対する熱意が向上したのは明白だ。これは彼女の目的意識がそうさせているのかもしれない。以前の話で彼女は目標ができたと語っていた。鬼道に対して心を許して見せるのも、時間の積み重ねと鬼道のアプローチが効果を発揮した結果だと感じる。
だが、それだけで片づけられない事象もあった。それが今、目の前にある彼女の姿がまさしくそれだ。
昼休み、鬼道は図書室へと足を運んでいた。本棚の間を縫うように歩き、目的のものを探す。データ分析に必要な資料を集めるためだった。この場所に来ると心が研ぎ澄まされるようだ、冷房の低い唸りと本のページを繰る音。古書の独特の匂いも嫌いではない。熱狂的なピッチの空気とは正反対の位置にありながら、むしろ鬼道にとって好ましい空間だった。
目的の図書を戻すために視線を上げる。本棚を見上げたその視界に唯一無二の黒が彼の視線を奪った。
そこは少し離れた自習コーナーの一角だった。この静まり返り、褪せたような空間の中でそこだけは鮮やかな色味を纏っていた。圧倒的な存在感が鬼道の視線を惹きつける。誘われるまま、鬼道はその方へと歩き始めた。
俺は彼女を探すのが日毎に上手くなっている気がする。鬼道はそんなことを思いつつ、理科の参考書に視線を落とす花織の姿をじっとゴーグル越しに見つめた。麗しい横顔は鬼道の心を即座に癒す。
落ち着いた雰囲気の図書館の中に溶け込む彼女は静謐な美しさを宿していた。それは彼女の見目が優れている、という理由だけが原因ではない。並々ならぬ彼女の集中力こそが、彼女の麗しさを引き立てているのだ。
「……」
花織の視線は揺れない。彼女の手に握られたペンは一定以上の間を置かずにすぐに走り出してしまう。鬼道がこれだけ視線を送っても彼女はそれに気が付かない。それは常々もどかしいのだが、これこそが彼女の変化の理由ではないのかと鬼道は推察していた。月島花織の集中力は人並み外れている。そしてそれは何か明確な目的と掛け合わさって爆発的な力を生んでいるようだ。
目的は不明だ、だが出会ったころの彼女にはなかった向上心が月島花織の中に芽生えているのは火を見るよりも明らかだった。現に今も、定例試験が終わったばかりだというのに休み時間を惜しんで勉学に励んでいる。以前の彼女にはなかった行動だ、あるいは自分が知らなかっただけか。ここに来て彼女の努力の才の片鱗を見る。それは走る彼女の姿さながらにまっすぐでひたむきだった。
それに……。本棚の影から彼女の姿を見つめて鬼道は目を細める。ぬばたまの髪から覗く楚々とした横顔はますます美麗さを増した。元より艶めいていた髪でさえ、その漆黒を深め、より輝きを放つ気さえする。その感覚に客観性があるのか、鬼道自身には判断がつかない。俺が深く彼女にのめり込んでいるせいでそう感じているだけなのか。
「……」
やっているのは理科の問題か。ちらりと見えた参考書の表紙に目を凝らして鬼道はそれを確信する。一昨日顔を合わせたときに、彼女が俺を頼ってくれた。ノートに書きこんで解説をしたが、それは彼女の役に立てているだろうか。
「……ふ」
胸の中で何度も彼女の名前を転がした。言葉を掛けたい。名前を呼んで俺の方を振り向かせたい。見つめているだけで甘く切ない感情に胸が苛まれる。
誰の目に留まるわけでもない、それでも努力を重ねる彼女をどんなに愛おしく思っているか。その姿勢がどんなに鬼道の心を打つのか。人目もはばからず、この場で語り掛けられたらどんなにいいだろう。だが……。
鬼道はさりげなく周囲を警戒する。下手に声を掛けることはいらぬ注目を集めるかもしれない。自分が声を掛けることでまばらに点在する生徒の視線が、ほんのわずかにでも彼女に注がれでもしたら。想像するだけで胸に焼け付くような痛みが走る。彼女の姿を知るのは俺だけでいい。そんな身勝手な衝動がゴーグルの奥で熾火のように燃え上がった。
俺が公の場で彼女に声を掛けることは様々な危険を孕む。鬼道は自分の立場を思い出し歯がゆさに苛まれる。自分の立場を理解しているはずなのに、それを捨ててでも欲望に忠実になりたいと身勝手な考えが胸を過った。
……であれば、それを叶えるためにできることは一つだ。
止めていた足を動かして鬼道は彼女の傍へ歩み寄る。彼女の隣をすり抜ける瞬間に、ノートを抑えている花織の手にそっと指で触れた。わずかな交わりがお互いの心に火を灯す。
すれ違いざまに鬼道がほんの一瞬だけ花織の手に触れる行為。これは、いつしか定着した二人の間の合図だった。
触れた鬼道の指の感覚に驚いたのだろう、花織はびくりと肩を揺らした。彼女の揺れに伴って鬼道の指先も微かに震える。視線の交錯と共に呼吸の乱れが静寂の図書室に響く。しかし鬼道の姿をその瞳の中に映すと、花織はわずかに表情を緩ませる。彼の意図を汲み、花織は瞳に光を映す。
「……鬼道さん」
彼女の声は消え入りそうなほど微かだった。だがそれでも、鬼道にだけは花織の声は明瞭に届いた。
月島、と音もなく鬼道の唇が彼女の呼びかけに呼応する。刹那の瞬間だけ触れた指先が熱かった。鬼道は火照った指先を握りこむ。花織の方も熱を感じたのかもしれない。ペンを置き、鬼道が触れた指先をきゅっとその手で握りこんだ。まるで鬼道の熱を失わないよう、そこに閉じ込めようとしているようだった。可憐な仕草は鬼道の衝動を加速させた。
この熱を手のひら全体に、腕に、この体で感じたい。あの場所でなら、多少はそれを叶えられるか。いや、少しくらいならこの場の人間も俺たちに誰も気が付かないかもしれない。
交わる視線が熱を孕む。見つめ合うだけで心が激情に押し流されそうだった。
あの程度の触れ合いでは物足りず、鬼道は指先が疼く。熱を含んだ眼差しでこちらを見上げる花織を見ていると、平衡感覚が狂った感覚に陥る。
「……」
熱に浮かされた感情が判断を鈍らせた。指先が微かに持ち上がる。だが、その指は遠くで扉が開く音に叩き伏せられた。
「は……っ」
鬼道はびくりと肩を揺らし、周囲を警戒する。赤いマントが彼の動揺さながらに揺れた。
――――何を、しているんだ俺は。
一歩、花織から距離を置き、鬼道は乱れかけた呼吸を整える。第三者の存在が鬼道を現実に引き戻した。拳を硬く握りしめ、鬼道は小さく頭を振る。そして何度も自制を己に言い聞かせた。
――――これ以上、逸脱した行為は許されない。
あの部屋での逢瀬は、自分以外に部屋の存在を知るものがいないからこそ許されるものだ。月島花織の交流を他人に知られるわけにはいかない。俺が恋心に現を抜かしていると知れれば、示しがつかないどころの話ではない。父の期待を、総帥の信頼を裏切ることになる。いや、俺だけの責任で済めばまだいい。だが間違いなく花織にさえ累を及ぼすだろう。
帝国学園は恋愛禁止の学則がある。優秀な学徒の育成のために、異性間の交流は不要だというのが教師たちの考えだ。破れば厳しい罰則が与えられる決まりになっている。二人の関係は鬼道のすべてを管理している影山総帥にも伏せられたものだ。不適切な交流や通信の記録が露見した場合、どんな事態になるか分からない。
それを警戒して連絡先の交換さえせずにいるというのに、俺自身が隙を作っては元も子もない。失態は俺と父の約束の破棄に繋がり、彼女との時間をも失うことになるだろう。
俺自身の体裁の為、ひいては彼女の安全のためだ。それに俺と共にいることで彼女が好奇の目に晒されることはあってはならない。鬼道は呼吸を一つ置いて、彼女を見つめる。花織は鬼道が動揺を見せたことに少し戸惑っているようだった。鬼道が触れた指先を頼りなさそうに握りしめている。微笑を湛えていた口元が、鬼道の揺らぎを前に不安げに結ばれていた。
……そんな顔をしないでくれ。彼女の見せる感情の一つ一つに心が大きく揺さぶられる。せっかく抑え込んだ衝動がまたぶり返しそうになって、鬼道は腕を組んだ。別れ際、最後に一度彼女の瞳を覗き込む。
放課後、いつもの場所で。視線だけでその意を送った。これで彼の合図は完結する。指先で彼女の意識を向けさせたあと、視線を交わす。表立って言葉を交わせないからこそ、この一連の行為が二人の間で逢瀬の約束の形になった。
「……」
鬼道の意図を汲み、花織は小さく頷く。花織の反応を見て鬼道はマントを翻した。面映ゆさを宿した花織の指先が無意識に鬼道の書き込んだ文字をなぞる。彼の逃れた視線はそれを見逃していた。自分の感情を抑え込むことに鬼道はただ必死だったのだ。
名残惜しさを振り切るように鬼道はマントを払った。いや、惜しむ必要はない。放課後になればまた彼女が俺のもとに来てくれる……、その確信が彼の指先に熱として残っていた。彼は自分に言い聞かせる。そうだ、落胆する必要は微塵もない。
先ほどは飲み込まざるをえなかった、彼女の努力を賞賛する言葉。それらは今日の放課後にふんだんに掛けてやりたい。俺と彼女しか存在しないあの場所でならそれがきっと許される。そう思いながら、鬼道はまだ熱の残る指先をそっと擦り合わせた。
その考えこそがすでに逸脱していると知りながら、鬼道はそれを制御しようとは考えなかった。月島花織との逢瀬は、もはや切り離せない鬼道の一部になっている。