鬼道有人の初恋
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扉の奥に、波打つように揺れる艶めく黒髪を見た。
途端に感情が押し寄せて目を細める。己の隙に一撃を差し込まれた気分だ、目に捉えるだけで表情が緩むのを抑えなければならない。鬼道は背後で閉まる扉の動きを感じながら、呼吸に伴って揺れる小さな姿に視線を注いだ。
立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花。まさしく彼女のためにある言葉だ。少なくとも鬼道はそう思っている。この学園内において、彼女以上に絶美な存在感を放つ人間はいなかった。
月島花織の気配ならば、鬼道はどんなに小さくとも拾いとるだろう。
ただ、鬼道はそうであっても彼女は違う。目前の月島花織は、背後にいる鬼道の気配にちっとも気が付いていないようだった。冷えきり、殺伐とした空間の中で彼女の微かな息遣いが世界に色を塗りつける。
しなやかな指が髪に触れる。嫋やかに髪が耳にかけられると、ノートに落とされた真剣な眼差しが覗く。早く言葉を掛けたいと気持ちが急くが、この儚く繊細な光景を惜しむ感情もまた彼の中で蠢いた。
彼女の、月島花織の姿がここにあることが嬉しかった。習慣になりつつあるこの時間を、鬼道は堪らなく愛おしく感じていた。
しかも今日は珍しく、花織の方が先に来て鬼道を待っているのだ。彼女が、他の誰でもなく俺を待っている。そう思うと、なおさら言い表せない充足感が彼の胸を満たした。
大抵の場合……、月島花織は約束の時間ぎりぎりまで陸上部の練習に励んでいる。遅刻をしてくることこそないが、鬼道よりも早くこの場所に来ることも滅多になかった。
……もっとも、それは鬼道が彼女を待ちわび、早々にこの部屋に訪れるせいなのだが。
「……」
義務と責任できつく締め上げていた心が緩む。彼女をこの目に映すだけで、疲れた身体が石を下ろしたように軽くなった。この場で呼吸を繰り返すだけで、身体が湯にくるまれたように癒される。
心満ちる感情で息を零す鬼道に、それでも彼女は気が付かない。彼女は膝元に広げたノートにひたむきに向き合うばかりだ。
その姿は絵画のように清麗で美しい。見ていて飽きるわけもないが……、こちらに気づきさえしないというのは少し面白くない。鬼道は僅かに眉を顰める。
よほど集中しているのか? 彼女の眼差しを、何がそれほどまでに独占しているのか知りたくなる。
どこまで近づけば、彼女は気配に気が付いて俺を見る? 振り返って俺に気が付いたとき、お前はどんな顔を見せてくれるのか。
子供のような好奇心が顔を出して、鬼道はそろりそろりと彼女の方へ足を滑らせる。彼の動きに合わせ、マントが空気の中をゆらゆらと漂った。
鬼道が傍に歩み寄っても彼女はちっとも呼吸を乱さなかった。それどころか、手を伸ばせば届いてしまう距離まで近づいても。彼女の視線はじっと手元のノートから逸らされない。
彼女の前に屈み、鬼道は徐に顔を覗きこんだ。ここまで近づいてようやく、彼女の小さな手の中にあるのが数学のノートだということが分かった。覚えのある彼女の筆跡で図形の証明問題が書き取られている。覚えがある内容だ。確か数日前、彼も教科書で目にした問題だった。
もうすぐ定例試験が迫っているから、それに向けての復習だろう。視線を戻し、ノートばかりに意識を向ける花織の表情を見つめる。
それにしても……、今も俺がここにいることに気が付かないとは。凄まじい集中力だ。走っている時さながらに研ぎ澄まされ、何者をも退ける。それは、彼女が思考の中にいるからよりそう感じるのか。
さっきからノートに付けられたペン先が、ピタリと張り付いたようにその場に留まり動かない。愛らしい彼女の眉間にはいつになく皺が寄せられていた。……どうやら、苦戦しているらしい。
こういう顔もするのだな、と鬼道はふと唇に笑みを浮かべる。眉をひそめて、考え込む彼女の表情は鬼道が初めて目にするものだった。数学が苦手だということは前に彼女自身が話していたか……。
かつての会話を思い返し、ノートを睨む彼女を眺める。このまま月島花織を観察するというのも悪くない考えだが、時間は有限だ。それに、やはり見ているだけというのは少々物足りない。
辛抱の糸が切れて、鬼道は彼女の隣に腰を下ろす。そして、さりげなくノートの上に彼は手を滑らせた。
「月島」
華奢な肩がびくりと跳ねた。
ここまで接近して名前を呼んで、ようやく花織は鬼道のが隣にいることに気づいた。大きな瞳をますます大きく見開いて、花織は鬼道を見る。
「き、鬼道さん……! いつから」
慌てふためき、彼女は咄嗟に前髪を手で抑えつけた。口をパクパクと動かしながらも声が上手く出ないようだった。
「数分前には。……よほど集中していたようだな」
「申し訳ありませんっ。私、気が付かなくて……」
撃たれたような勢い頭を下げようとするのを、鬼道はそっと指先で花織の肩に触れて押し留めた。長い上向きの睫毛に縁どられた、黒翡翠のような瞳が罪悪感を映して震えている。
「いいんだ」
気にする必要は皆無だ。俺があえて声を掛けずに見ていたのを気に病むことなどない。俺が機嫌を損ねたように見えたのか。彼女が俺の心を慮ってくれるのは嬉しいが、そこまで狭量だと思われているのは心外だな……。
出会ったころに比べれば、心の距離も随分縮まったつもりでいる。少なからず俺という人間を彼女に知ってもらえているはずだ。だが、遠慮がちな彼女はしっかりと俺との立場の線を引く。
もう少し、その垣根を越えて触れてくれてもいいものだが……、これは時間が解決することを期待するしかない。
ゴーグルの奥で目を細めながら、鬼道は完全には掴み取れない感覚に苦笑する。
「怒っているわけじゃない。……勉強をしていたのか」
そう問いかけると、花織は小さく頷く。ノートのページを華奢な手が覆った。
「はい。定例試験が、迫ってますから……」
目を伏せつつ、彼女はノートを手繰り寄せる。片付けるつもりのようだ。だが、すかさず鬼道はその手を押さえて彼女を制した。
「鬼道さん……?」
彼女は困惑した様子で鬼道を見上げた。彼はその瞳を見つめ、穏やかに囁く。
「分からないところがあるんじゃないか? 月島さえよければ俺が見てやろう」
随分と前から周到に用意していた言葉だった。むしろ、こういう機会を待っていたと言っても過言ではない。かつて彼女が何気ない話の中で、苦手科目を打ち明けてくれたときから。いつか自分が彼女の悩みを解決することを夢想した。頼ってほしいと願っていた。
「いえ、でも……。そんな」
ただ、花織は鬼道の提案をすんなり受け入れはしない。彼の手を煩わせるわけにはいかないと、花織は鬼道に背を向けノートを鞄に仕舞おうとする。しかし鬼道の方も譲らない。彼女の遠慮をやんわりとも強く退けた。
彼女が頑ななのだから、こうして実力行使をするしかなかった。とても、紳士的な行動じゃないのは承知の上だ。
「……きゃっ」
ちいさな悲鳴が漏れた。有無を言わさず、大胆に鬼道は彼女の身体ごとノートを引き寄せる。背後から手を回し、閉じようとしたノートを少々強引にこじ開けた。
息を呑みこむ音、腕の中の彼女の身体から強張りを感じた。しかし、嫌がっているわけじゃない。それを確認して鬼道は花織の背後から覗き込む形でノートを見る。
「どこが分からないんだ」
「鬼道さん……っ、あの」
驚いたためか息継ぎもおぼつかなく、掠れた声で花織が鬼道を呼ぶ。しかし、鬼道は彼女の動揺にはあえて素知らぬ顔をした。羞恥のせいか赤くなった彼女の耳元に心を擽られる。
高揚感を抱きつつ、顔を寄せて花織に囁きかけた。それでも彼女は明らかな抵抗を見せない。
「俺に聞けと言っただろう、サッカーのことでも勉学のことでも。……俺はお前の為なら力になる」
「……っ」
「もちろん、お前が望んでくれるならばだが……」
腕の中、彼の放つ一言一言に花織は可愛らしく身を震わせるばかりだ。
「お前はどうして欲しい……、月島」
その姿はますます鬼道を煽った。彼の理性のタガをいとも簡単に外していく。そして、花織の心さえ同じところまで引きずり込みたいと彼女の意思に語りかけた。彼女が求める言葉を選ぶよう、鬼道は言葉巧みに誘導していく。
「あるものは使え、学ぶ機会を損ねるな」
低い声が舐るようにして花織の思考を絡めとる。彼らはお互いに深い陶酔感の中に踏み込んだ。間違いなく今、彼らの中にお互い以外は存在しない。
「分からないことは恥じることじゃない。むしろ、そのままにしている事の方が己の首を絞めることになる」
「は、い……」
調べは心を溶かす。恍惚として彼らは距離を狂わせた。
「さて……、どこが分からない」
幾重にも言葉を巻き付けた末、ようやく彼女の方が折れた。花織は微かに震える指でノートの右側に書き写された図形をなぞった。
「この、問い四が……」
鬼道は花織の表情を横目に見つつ、その指の動きも目で追った。やはり先程の証明問題か。苦手意識を感じる奴は多いと聞く。
問題を一瞥し、鬼道は思考の一部を切りかえた。ペンを握った花織の柔らかな手に触れる。ピクリと動いた彼女の細い指を捕まえ、ペンごと強く握りこんだ。
「あ……」
桜色の唇から小さく声が漏れた。それでも彼女は鬼道にされるがまま、振り払う素振りすら見せない。
「『△ABCと△DEFで、AB=DE、BC=EF、∠ABC=∠DEF。△ABC≡△DEFを示せ』……合同は条件を揃えればいい。書き込むと、より分かりやすく見えるだろう」
握り締めた花織の手ごと、鬼道は問題文の条件をなぞっていく。彼らの手は寄り添って図形に書き込みを入れる。その最中にも鬼道は淀みなく解説を続けた。
時折ペンが止まるのは、鬼道が花織に対する衝動を抑え込むための時間が必要だったからだ。手を動かすと、ふわり彼女の髪が鼻先をかすめる。甘い香りが薫ってすべてを放り投げてしまいそうになるのだ……。
問題を解くことよりも、彼女を近くにして欲望を堪えることの方が鬼道には遥かに難しい。指先にこもる力を、彼は度々意識的に抜かなければならなかった。
とはいえ、彼女のための解説をしているのだ。その方にも一切、手は抜かない。
「……BC=EFはもう一つの辺。よって、△ABC≡△DEFだ」
教師も舌を巻くほどの、模範的な解説だった。彼女のためだ、彼は懇切丁寧に完璧やってのけた。鬼道はノートから花織の方へと視線を送る。
「理解できたか?」
自分が抱き寄せたくせ、あまりの顔の近さに鬼道は思わずたじろぐ。だが、花織の方がより動揺が顕著だった。
頬を赤く染めた花織は鬼道から視線を逸らして俯く。身を縮めた彼女は目を伏せ、言葉を選びながら鬼道の労に対する答えを返した。
「すみません、その……緊張して。うまく、頭に入らなくて……」
緊張して。その彼女の言葉で、ようやく鬼道は欲のままに花織との距離を詰めすぎたことを自覚した。
腕の中に彼女を抱きしめているとも言える状況に言葉が詰まる。こんな距離感にクラスメイトはおろか、チームメイトでさえ置いたことは無い。
触れながら、どこまで花織が自分の侵入を許してくれるのかを計っていた。彼女が拒まないのをいいことに、今この瞬間は明らかに踏み込みすぎている。
夢中になりすぎていた。彼女が息をこらえ、手が汗ばんでいることに今更ながら思い至るなど……。
俺を異性と意識して緊張しているのならいい。だが、もしこの身体の震えが恐怖から来るものなのだとしたら……。想像するだけで気持ちが滅入る。彼女の心が見えれば、あるいは。
……できもしないことを考えてどうする。
己を叱責しながら、それでもやはりどんな顔をしていいのか分からない。失態を自覚しても彼は曖昧に微笑むしかなかった。
「あぁ……、そうか」
「せっかく鬼道さんが解説してくださったのに……、ごめんなさい」
花織は消え入りそうな声で謝罪を繰り返す。鬼道を見つめる瞳は潤んで、気を抜けば涙を零しそうだった。彼女は鬼道の労力を無駄にしたことを気にしているようだった。しかし、そんなことは彼にとって些末なことだった。
「謝る必要はない。お前が理解するまで俺が教えてやる」
むしろ、彼女が理解するまではこうしている理由ができたとも言える。
握ったままの手からペンを奪い、空いた隙間に彼は己の指を滑り込ませた。指先を絡めて優しく力を籠める。それは、逃さないとでもいうように。
「……だがな、月島」
距離感を詰めすぎたとは思ったものの、鬼道に引く気など更々なかった。ゴーグルの奥、花織を捕らえた彼の赤い瞳が計算高く細められる。
物理的な距離感は心にも直結する。……そうだな。むしろ、これを彼女と俺の正常な距離感とすればいい。そう、清廉で無垢な彼女に強く刷り込んでしまえば。
「俺を恐れないでくれ。……俺はお前を取って食うわけじゃない」
さすれば、より効果的に彼女の心を手に入れられるはずだ。
企てを隠しつつ、鬼道は温和に花織を見つめ、冗談めかした言葉まで口にする。彼女が自分に親しみを覚えるように。
仮に、彼女が俺に怯えているのなら安息感を与えなければ。緩急は心を接近させる。飴と鞭のように使いこなせば、彼女はより心を俺に向けてくれるかもしれない。
「鬼道さん……」
鬼道に向けられる微笑に、花織はようやく彼の腕の中でも心を和らげてみせた。安堵を浮かべ口元を緩める。鬼道を見つめる瞳は、疑心もなく彼への信頼を滲ませる。彼の言葉に耳を傾け、花織は口を開いた。
「恐れているわけでは、ないですよ……?」
震えが鬼道の身体を抜ける。光瞬く、魅惑的な眼差しに一瞬目が眩んだ。
「……」
息を飲む。そうしている間にも、彼女の指がわずかに握り合った彼の指を撫でたような気がした。都合のいい錯覚か、取り乱しそうになるのを懸命に堪えながら鬼道は唇を噛んで息の乱れを抑える。
彼女が甘く囁いた響きを頭の中で何度も反芻させる。挑発的な言葉に聞こえた、まるで俺の心をを試すような。この薄氷の上を渡る繊細な駆け引きをすべて打ち壊して、すぐにも彼女を俺のものにしたくなる……。
揺さぶりをかけていたはずなのに、瞬きの間に彼女に状況をひっくり返された。月島花織を前にすると、俺はいつも完璧な試合運びはできない。
逸る心臓の鼓動を誤魔化せない。制御を試みるほうが無謀なのかもしれない。そう、鬼道は思わされる。
「……そう、か」
数学の問いとは比較にならないほど、彼女の心は難問だ。知りたい、分かるようになりたい。お前は何を考えている? 解き明かしたくて彼女の瞳を覗き込む。
彼女の心を証明するのは難しい。解を見つけるおろか、条件すら揃えられない。
解き明かす方法を模索しながら。鬼道は時の許す限り、彼女の瞳の色を見極めようとしていた。