鬼道有人の初恋
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慎ましくも穏やかな日々が彼の中には積み重ねられていた。
得られる時間はほんのわずかなものだった。分単位にスケジュールの詰まる鬼道にとって月島花織との時間の確保は容易ではない。
しかしながら、彼女との時間を得ないことの方が、鬼道にとって徐々に耐え難いものとなり始めていた。
数日前……、彼女の頬に触れたあの日。彼女は明らかに鬼道に対し心を開く兆しを見せた。
彼女の涙と微笑みが、どれだけ鬼道に深く熱を刻み込んだことか。きっと彼女には分からないだろう、鬼道の心に抗えない気持ちを植え付けるには十分だった。
もっとも、一目見たときから鬼道の心は月島花織の虜だった。それは否定できない。とはいえ、その恋情は日毎に熱を上げていくばかりだ。
明確に鬼道の生活には彼女の存在が息づき始めていた。気がつけば、図書室で陸上に関する本を手に取ることがあった。彼女が苦手だと何気なく口にした科目をより力を入れて学び、淀みなく解説できるだけの用意をした。
求められた訳でもない。ただ、機会があればすぐにも知識を差し出せるように。彼女の求めるものは、自分が手ずから与えたいという願望が鬼道にはある。
多くの制約があろうと、目に見えないほど小さな距離でも詰めたい。その気持ちから鬼道は再び彼女をこの部屋に呼んだ。
彼女になるべく圧を掛けないよう鬼道は細心の注意を払う。とうに済ませたフォーメーションの確認に耽るふりをしながら、それでも隣に座っている少女に否応なく意識は吸い寄せられる。
とはいえ、あくまでも手元に開いた手帳に視線を落とし、あからさまな視線を彼女に向けないように心がけた。
本当は一分一秒でも多く、彼女の姿をこの目に焼き付けたい。この時間は代えがたく貴重だ。
だが欲求が絶えず語り掛けても、鬼道は冷静に計算の上での行動を取る。この、ただ共に過ごすだけの時間の重みを理解していた。
――――すべては、彼女の心に近づくためだ。
強い欲望を鬼道は腹の中に押し込める。単純接触を繰り返すだけでも少なからず効果は得られるはずだ……。彼女が身を縮めて過ごさなければならないこの学園内で、せめて俺とこの場所が本当の彼女でいられる場所になる。
そのためにまずは、俺が隣にいることが当たり前だと月島が感じるようにしなければならない。余計な緊張や萎縮を生むことのないよう努める。最後に二言三言、言葉を交わせればそれでいい。
そう自分に言い聞かせ、ピッチで繰り広げられている練習試合を眺める彼女の息遣いや体の揺れに神経を研ぎ澄ませていた。
俺の隣で彼女の目は今、何を映しているのか。あの闇色の瞳が何を捉えているのか、すぐにも確認できるのに知れないことがもどかしい。
……彼女がサッカーに興味を持ってくれていることは嬉しい。だが、少々複雑でもあった。彼女の目線の先にあるのは、鬼道ではなく彼のチームメイトたちのプレーだからだ。
目の前のゲームに参加することで得られた可能性を思い浮かべてしまう。彼女の視線の先に俺のプレーを披露できたなら、司令塔として完璧な戦略を展開できたのなら……。
彼女が俺自身に興味を持つかもしれない。彼女の視線は俺だけに向けられて……。手帳のページを捲るふりをしながら鬼道は自身の考えを内心で嗤う。
何とも子供じみた求愛だな、彼女との時間の方が惜しくてここで試合を見ることにしたんだろう俺は。わざわざ、フォーメーションの確認なんていう理由を作ってまで試合を抜けた。
だが、それでも。俺の中心であるからこそサッカーに興味を持ってほしい。前提に先ず俺があって欲しいのだ。
考えずにはいられない。もし仮に俺ではない、他の選手に彼女の好奇心が向けられでもしたら……。思わず手に力がこもってノートの端が形を歪める。そんな些細な可能性が胸を圧し潰しそうになる。
「……あの……、鬼道、さん」
遠慮がちな声が静寂を破った。耳を澄ましていた鬼道の肩が小さく跳ねる。
この部屋で彼女から言葉を発したのは初めての事だった。どきどきと速まり始めた鼓動を押さえながら、鬼道はゆっくりと彼女の方へと視線を向ける。
「質問を、許して頂けますか……?」
伏し目がちに鬼道へ視線を寄せ、彼女が今にも消え入りそうな声で鬼道に問いかけた。その手は緊張の為だろう、制服のスカートをギュッと握り締めている。
「ああ。当然だ」
その手をちらと見つつも、落ち着きを払って鬼道は深く頷いた。小動物のような彼女の怯えは愛らしさもあるが、それ以上に心の距離に寂しさを感じた。
それでも彼女が自ら口を開いて、あまつさえ鬼道に答えを求めて疑問を投げかける……。これまでを考えればこれは画期的な一歩であった。
期待と興奮が己の強欲な感情を埋めてしまう。彼女の言葉を求めつつ、努めて穏やかに鬼道は微笑みかける。
「……そんなに固くならなくていい。……それで?」
サッカーのことか、それともピッチに立つ選手のうちの誰かのことか。彼女の返答によっては平静を保てないかもしれない。彼女の興味を推察しながら思う。それでもあるべき鬼道有人の姿を保って言葉を待った。
花織は質問を許した鬼道の答えにほっと安堵した様子を見せ、そして言葉を続ける。
「はい。えっと……、鬼道さんのその手帳は、サッカーの記録をつけていらっしゃるのですか?」
「え……」
想像もしなかった質問に呼吸が止まった。彼女の視線は、ピッチではなく俺の手元に、俺自身に向けられている。その事実が心臓を暴れさせた。
「ずっと熱心に、確認をされているから……」
声は遠慮がちで強張りつつも、彼女の眼差しは一筋の光のように鬼道を指す。鬼道は勝手に開いてしまった口を誤魔化したくて目を逸らし、手帳の方へと視線を落とした。どく、どくと脈打つ心臓の音が全身を支配していた。
――――彼女の興味の先は……。
歓喜に震えるようなことでもない。彼女にとっては些末な疑問なのだろう。
だが、目前のグラウンドで彼女の練習に役立つかもしれない事象が無数に転がる中。それでも彼女が質問をするだけの興味を抱いたのは、鬼道に対しての事柄だというのだ。
「あ、ああ……、これか」
彼女の発言も、まるで鬼道をずっと見ていたかのようだった。
自惚れかもしれないと思いながら、鬼道は逸る鼓動を抑えきれない。心が彼女への想いで満たされる感覚に酔いながら言葉を紡ぐ。
「そうだ、練習や試合の記録を取っている。分析すればチームの強さも弱さもはっきりする。無論、俺個人のものもな。書き出すことで形として見えてくるだろう」
冷静を装った声で鬼道は語る。彼女の方に手帳を差し出し、熱に震えそうになる指先でページを捲った。彼女にはすべてを明かしても構わないと、その小さな手に己の記録のすべてを明け渡す。
興味深く彼女が手帳を覗き込んだ時、嫋やかな黒髪が流れるようにするりと肩から落ちた。意図などないのだろうが彼女から寄せられた距離に、思わず鬼道は呼吸のペースが分からなくなる。
無防備に身体を寄せ、手帳に細かに書きこまれた鬼道自身の文字を彼女は真剣な眼差しで見つめている。時々、鬼道の書き込んだ言葉を細い指でなぞった。
彼女の指がページに触れるたび、脈が喉を締め上げて呼吸が浅くなる。彼女の一挙一動に、鬼道の心臓は爆発寸前だった。
「……お前もやってみるといい」
かろうじて裏返るのを阻止した声で鬼道が花織にそう告げた。花織はそっと手帳から顔を上げて鬼道をじっと見つめた。
いつもよりも距離が近い。言葉を求める彼女の瞳に振り子のように心を揺さぶられながら、鬼道は心を押さえて言葉を吐く。
「結果を記録して振り返ることで自己を俯瞰的に見られる。きっと、お前の走りの役にも立つはずだ」
「俯瞰的に、見る……」
おずおずと、だがはっきりと。彼女は鬼道の言葉を口に出して繰り返した。鬼道にとってはそれは自身の言葉が、彼女の中に残った証のように思えた。
「そうだ、お前が記録を出すための糸口も見つかるだろう」
己の選んだ言葉が、彼女にとって魅惑的な殺し文句であることを願って鬼道は囁く。
「やり方が分からなければ俺が教える」
陸上に彼女が求めているものが何かは分からないが、彼女の眼差しは好奇心に満ちる。向上心がないとは思えない。……ならば、力は惜しまない。心からの想いを鬼道は捧げる。
「その気さえあれば、お前はもっと速く走れるはずだ」
「……」
「少なくとも、俺はそう確信している」
彼女の手はもう震えていなかった。小さく華奢な手は大切そうに鬼道の手帳を抱えている。
その指先に触れたくて、思わず軽々しくも手を伸ばしてしまいそうになる。触れて、握り締められたら……。より心が満たされるはずだと思った。
「ありがとう、ございます……」
楚々と浮かべるその笑みにも、触れてもっと奥深くまで見つめたいと欲を抱く。あの、頬に触れた日の熱が未だに忘れられない。体温を感じ、心を通わせ合う喜びを、再び味わいたいと思いながら鬼道の手は動けない。
――――今はまだ、怖がらせるだけだ。
軽率な行いをするわけにはいかない。先日、彼女の頬に触れた奇跡は、互いの感情が高ぶっていたからこそ得られた僥倖だ。身勝手に身体に触れる行いは、彼女の中に芽生え始めた俺への信頼を、容易く摘み取るだろう。
鬼道はひとつ咳払いをする。それにだ、そもそも彼女に触れるべきでは無い。
ひとたび触れたなら、きっとそこから俺は俺を制御できなくなる。……目に見えていた、こうして彼女との時間を重ねるようになっているが何よりの証拠だ。
彼女への想いは、海の底がみえないように際限がない。深く潜れば潜るほど、俺は彼女に溺れていく。己に課された責任を、義務を忘れてはいけない。
それを胸に刻めと、理解しろと言い聞かせても。彼女に触れたいと身勝手に心が叫ぶ。欲望を強く押し潰しながら鬼道は静かに彼女の横顔を、夜の海のような眼差しを見つめていた。
❀ ❀ ❀
しかしながら、鬼道の慎重な考えとは裏腹に彼女は目に見えて鬼道に心を許し始めていた。それが顕著に見えたのは鬼道が花織に対して記録を取るアドバイスをした翌回の逢瀬でのことだった。
部屋に現れた彼女は小さなノートを胸に抱いていた。そして見よう見まねで自分の練習の記録をつけ始めたことを鬼道に報告した。
さらには練習記録や反省点の綴られたノートの一日目のページを鬼道に差し出しながら、鬼道にノートの付け方が間違っていないかと助言を求めたのだ。驚嘆以上に鬼道は喜びを抱く。
彼女が俺の助言を真剣に聞き入れてくれた。俺の意見を欲してくれた。鬼道の胸は大躍進ともいえる結果に震える。かつては己の言葉を社交辞令と取られたこともあった。ようやく、自分の心が彼女に届き始めたと感じた。
しかも、それだけにとどまらない。彼女の記録の一日目の日付は、鬼道が話をしたその日のものだった。さらにはノートの一番上に、彼女の繊細な文字で『自己を俯瞰的に見る』と綴られていたことも鬼道の胸を高鳴らせた。
あれはあの日に鬼道が語った言葉だった。彼女はそれをわざわざノートに書き留めたのだ。
――――いじらしい奴だ。
彼女の文字を目の当たりにした時、鬼道はだらしなく口元が緩まないよう抑えなくてはいけなかった。
彼女の行いを思い返しては胸が温かくなる。彼女の親愛が目に見えたことは、ますます鬼道の月島花織に対する欲求を深めていく。その日のうちに、次の密会の約束を鬼道は取り付けていた。
そして、今日がその約束の日だった。
静けさの漂う部屋の中で鬼道は足を組み替えた。白く味気ない光の元、時計を確認する。いつもならばもう彼女が来ていてもおかしくない時間だ。そう思いながら鬼道は咳ばらいをし、もう一度足を組み替えた。
まさか、約束を忘れているわけじゃないだろうな。いや……、いつも俺は半ば命令のように彼女にここへ来るように呼びつけている。……この時間を望んでいるのは俺だけだろう、彼女が望んでここに来ているわけじゃない。
約束の時間が過ぎたわけでもないのにそんなことを考える。それだけで彼は途轍もなく頼りない感情に苛まれる。
浮かれた感情に踊らされ、ちょっとした想像に馬鹿らしく落ち込む。月島花織に関するすべては、細事なことでも鬼道の感情の制御を困難にさせた。
気持ちのせいか部屋の空調さえ格段に冷えるように感じていた。だが、鬼道がまたも足を組み替えようとしたその時、パスコードが解かれた音が響く。駆動音と共にドアが開くと、春風のような衝撃が部屋の中に一気に吹き込んできた。
ふわりと舞い上がった髪が緩やかに宙に落ちる。軽く息を切らした月島花織が鬼道の目の前に姿を現した。
「遅くなって、すみません……っ」
白けた空間の中に凛麗な黒が存在感を放つ。彼女は結い上げた髪を揺らして鬼道を見る。そして自分が酷い失態をしたとばかりに、恐縮しながら彼女は頭を下げた。
今日の彼女はいつもと違った。規則通りに身にまとったいつもの制服姿ではなく、陸上用の練習着に一枚ジャージを引っかけた姿でここに立っていた。
「どうした、そんなに慌てて」
あまりの花織の慌てぶりに、鬼道は先ほどの拗ねた気持ちを完全に忘れてしまっていた。何かあったのか。心配が先行して、鬼道は息を整える彼女の顔を覗きこむ。
素早く彼女の身体を上から下まで見て、少なくとも彼女が慌てる原因が怪我ではないことを確認した。
「いえ、何も……。ただ、練習が長引いて……。鬼道さんをお待たせするわけには、いかなかったので」
「……そうか」
何も無かったことにひとまず安堵した鬼道だが、彼女の言葉をよくよく考えると言葉に詰まった。……まさか彼女は俺を待たせないために、急いでここまで来たというのか?
期待を込めた眼差しを鬼道が向ける。すると花織はぎゅっと身を縮めて、ジャージの前を掻き合わせた。俯き、蚊の鳴くような声で花織が囁く。
「すみません。こんな……、みっともない格好で」
「……」
何がだ、と聞き返さないことが今の鬼道にできる精いっぱいだった。彼女の放った言葉の意味が分からない。今の彼女の姿は”みっともない”とは程遠い。
恥じらいに髪を掻きあげる仕草。そこから覗く桃色に染まる彼女の頬、星の瞬きのような輝きを放つ瞳。走っていた直後だからか。この部屋で見てきたどの彼女よりも生き生きとして、より鮮麗に瞳に映る。
「みっともないなんて、思うわけないだろう……」
熱に逆上せた声で鬼道は呟く。だが、美しいだけで今の彼女が片づけられないことも鬼道は瞬時に悟った。彼女の姿は、瞬間的に鬼道の心を焼き尽くす。
彼女の姿を見つめていると、むしろ心だけでなく全身が熱に浸されそうになった。
ジャージを羽織った程度では隠しきれていない。セパレートタイプの練習着からすらりと伸びた下肢、白くくびれた腹 。
さらには黒髪がまとめあげられていることによって、細い首筋も惜しげもなく晒されている。……その白い柔肌がうっすらと汗で濡れ、艶やかさを放つのは……。鬼道の中によからぬ感情を掻き立てた。
グラウンドに立っているときの彼女は高潔そのものだ。なのに、今の彼女は。
狭い密室の中でこの彼女の姿を、鬼道はただ清廉なだけだと言い切る自信がなかった。
「……いや」
ズレてもいないのに鬼道はゴーグルに触れ、調整を行うふりをする。
自分を待たせまいとした彼女の健気な行動、それとは裏腹にぞっとするほどの色香。感情は踊らされるばかりだ。……そして。
――――この格好で月島はここまで来たのか?
当然の事実が鬼道の中に懸念を生む。月島の姿を他の誰かに見られたのではないか。その可能性を考えると鬼道の胸には微かに苛立ちが立ち込めた。
他の誰も見ることは許されない。そんな身勝手な衝動が鬼道の意識を抜ける。
「とにかく……座れ、月島」
鬼道の内心は手の施しようがないほど搔き乱されていた。数多の感情を通り越し、いっそ冷静沈着とした声で鬼道は隣に花織を呼んだ。花織は会釈しつつ鬼道の隣に腰を下ろす。
だが、いつもよりも心なしか座る位置に距離があった。意味不明な距離にも面白くなさを感じたが、ひとまず言及せずに貴重な時間に鬼道は目を向ける。
「よほど……、熱が入っているようだな。陸上に」
「……はい」
小さく彼女が頷く。足を擦り合わせる彼女の動きに合わせて艶やかな黒髪が揺れる。だが今日は結い上げられているのもあって、髪で彼女の表情が隠れなかった。
「目標が、できたんです」
俯きながらも、彼女は確かに表情を緩めていた。
……なぜ、そんな顔をする。彼女の事柄において分からないものをそのままにしておくわけにはいかない。理由を知りたかった。さらには彼女が掲げた目標も知らずにはいられない。
「目標か、……それは?」
「……すみません」
「言えないようなことか」
秘匿するような事でもないだろう。ややぶっきらぼうに鬼道が眉間に皺を寄せながら彼女に聞く。いつもなら、鬼道がこんな顔をすれば彼女は顔を逸らし、背を丸めて縮こまるだろう。
「はい。……ですが」
だが、彼女は俯き、ジャージの前を寄せたものの、鬼道から顔を逸らさなかった。それどころか、頬を赤らめながら唇をきゅっと結ぶ。そして照れくさそうに口を開いた。
「鬼道さんが、もっと速く走れると……そう仰ってくださったから」
彼女の声は小さくも部屋の中に凛と響く。それは、鬼道にとってとんでもない殺し文句だった。
「……っ」
漲る熱が鬼道の全身を犯す。彼女の言葉が本当にその口から発されたものか。俺の都合のいい幻聴だろうか。真偽を疑いながら、突如として出現した動悸が治まらない。火が出るほど熱くなった頬を隠したくて、鬼道は口元を手で覆う。
「そ、うか……」
高揚する気持ちのせいで上手く声が出ない。彼女が俺の言葉を聞いてくれた。俺の言葉を信じ、目標の糧としたと……?
もはや手のひらで転がされている気分だった。彼女はただ無垢で、人並みの信頼を鬼道に寄せているだけだ。鬼道にとっては特別な言葉でも彼女に他意はないのだろう。 鬼道を弄んでいる訳でもない。
分かっている、分かっていながら月島花織の言葉に彼の心は波立ち、有頂天にさえなる。実に単細胞的だ、だがそれに流されたいとさえ思うのだ。
余裕などない。それでもせめて、誠実に言葉を返そうと鬼道は口を開いた。
「だが、俺は本心でそう思ってる。お前に……」
そこまで言ったところで、ピタリと鬼道の言葉が止まった。
さりげなく彼女がジャージの腕を擦り合わせたとき、彼の目がかすかに震えた彼女の肩をとらえたからだ。ゴーグルの奥で鬼道は目を細める。その震えが、いつもの委縮から来るものではないことなど一目瞭然だった。
駆け引きも信頼も、すべて思案の外だった。鬼道は自分のもうひとつのトレードマークであるマントを外して立ち上がる。そしてそれを何も言わず、彼女の背後から抱きしめるようにマントを着せつけた。
「き、鬼道さん……!?」
彼女の体にマントを巻き付けた瞬間、爽やかな制汗剤の匂いが鼻を掠める。花織は鬼道の行動に慌てふためき、これまで聞いたことの無いほど大きな声を発して鬼道を振り返った。大きな瞳が動揺に見開かれ、ゆらゆらと揺れている。その眼差しを眺めながら鬼道は囁いた。
「寒いんだろう。着ておけ」
狼狽する彼女を他所に鬼道はいっそうマントを強くまきつける。マントの紐を後ろから手を回して彼女の首元で結んだ。
制服の時とは違って薄着なのだ。それに部活の後、火照った身体のままここへ来たのだろう。この部屋は空調もよく効いている。寒さを感じるのは当然だった。寒さに震える彼女に気づいた時、勝手に身体が動いていた。
「ですが、これは鬼道さんの……! 」
しかし花織は鬼道の厚意を素直に受け取ろうとしなかった。小さな抵抗をし、鬼道が着せたマントを脱ごうともぞもぞと動く。首の結び目に彼女が手を伸ばした。咄嗟に鬼道は、結び目を解こうとしたその手を捕まえる。
「月島」
ずっと触れたいと思っていた華奢な手は、柔らかくしっとりとしていた。そして何より爪先まで氷のようにひやりとしている。
「こんなに冷えているんだ……。少しは俺の言うことを聞け」
その細い指を労るように撫でながら鬼道は花織の耳元に囁く。もはや、鬼道に引く気はなかった。触れてしまったその手を壊れ物のように撫でつける。
こんなにも滑らかで手に馴染む。鬼道は己の手で包むことで彼女の手を温めようとした。
「でも、私、汗をかいて……」
この期に及んでまだそんなことを言うのか。
「そんなことは関係ない」
弱々しくなった花織の抵抗を跳ね除け、鬼道は一蹴する。耳まで赤く染まった横顔を見つめ、鬼道は彼女の手に指を絡める。
ここまでしても彼女は逃げない、指先は冷たくとも指に震えはない。彼女の反応から拒絶の意思が無いことを鬼道は目敏く悟る。ゴーグルの奥から好機を見据え、考えうる最善手を取った。
「だが、次からはちゃんと着替えてこい。……選手は体が資本だ。そうだろう?」
多少遅れようが、来てくれさえすればそれでいい。お前に風邪などひかせるわけにはいかない。それに……、この姿をいたずらに晒す訳にもだ。
「月島」
マントに包まれた彼女の姿を熱に浮かされた瞳で見つめる。彼の色を身に纏い、そして恥じらいながらも彼女の瞳は鬼道だけに注がれていた。
「分かったな?」
彼女の瞳の中には鬼道だけが映りこむ。そうしながら彼女は鬼道の言葉に確かに頷いた。重ねあった手が同じ温度を持つ。彼女の全てを自分の色に染めた錯覚を得る。
堪らなく甘美な光景、これは鬼道の自制を振り切るには十分だった。彼女の瞳に赤は艶麗に映り込む。このときだけの虚構だと分かっていながら、月島花織を手中に収めた感覚に満足げに彼は笑んだ。
だがまだ足りない。もっとより深くまで……。欲深い感情が腹の奥で蠢いていた。
もはや、取り返しのつかないところまで。鬼道有人は恋心に身をやつしている。