鬼道有人の初恋
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
重く閉ざしていた鉄の扉は満を持して開いた。
あの日のことは鮮明に記憶している。扉の前には鬼道が待ちわびた少女が酷く恐縮した様子で立っていた。彼女は不安げに、今にも押しつぶされてしまいそうな表情で部屋に足を踏み入れた。
ベンチに腰を下ろさせてもなお、小さく丸めてしまう背中を見つめる。彼女が俯くと艶めく黒髪がその表情を完璧に覆い隠してしまう。鬼道には彼女の心を覗き見ることはできない。
もどかしい。言葉にできない胸苦しさが鬼道の中で蠢いた。
艶めく絹のような髪を整えて顔を見たい。本当の意味で彼女に触れることができたなら。そう思いつつ、鬼道は中身のない言葉を吐き、月島花織とのまだ遠い心の距離に指を泳がせることしかできなかった。
これは現在の、鬼道有人にとって最大の悩みの種であった。
彼女は鬼道を前にすると目に見えて萎縮してしまうのだ。鬼道が望む彼女の姿は、初めて出会った日に見た自由でありのままの姿だ。月島花織の色々な表情が見たくて時間を作っているのに、膠着状態のまま進展のない日々が続いた。
しかしながら……、それは鬼道のせい、というよりも彼女の心がまだ閉ざされていることが原因と言えた。
彼女は見るものすべてに……。いいや、閉塞的な空気、絶対的な序列制度なども含め、帝国学園のすべてに恐れを抱いているようだった。
これまで見てきた彼女の振る舞いを思えばおかしいことではなかった。いきなり望んでいたような、理想のコミュニケーションが図れると思っていたわけではない。それを理解していながら、気の利いた事ひとつ言えない自分を鬼道は歯がゆく思っていた。
――――彼女の心に、触れてみたい。
もっと時間を重ねれば、彼女は心を開いてくれるだろうか。だが、やっとの思いで捻出したわずかな時間だけでどうやってこの距離を詰めればいい?
鬼道自身は彼女の顔を見ていられれば、同じ時間を過ごすことができていればそれだけでもいいと考えていた。
だが、張り詰めた緊張の中に置かされる彼女はどうか。鬼道との逢瀬を負担に感じているかもしれない。彼女の時間を奪ってまで得ているこの機会が、現状月島花織にメリットを与えているとは到底思えなかった。
苦渋を噛みしめながら鬼道はゴーグルの奥で目を細めた。ふとした瞬間、ただ目的地へ向かう移動のさなかにすら彼女のことばかりを考える。彼は勇気のない指先を結んでは開いて、やり場のない感情を胸の中で増幅させる。
――――せめて、サッカー部の練習が彼女にとって価値になればいいが……。
初めて言葉を交わした時、彼女は俺たちの練習を見たいのだと言った。そう語った月島花織の言葉こそが鬼道にとって一縷の望みであった。彼女に対し、鬼道が差し出せる唯一のものがサッカーかもしれない。
それに鬼道自身に、というわけではなくても。彼女が鬼道の世界にわずかにでも興味を持ってくれたことが嬉しかった。
俺の中心とも呼べるサッカーを、月島が好きになってくれたらどんなにいいか……。
彼女の心に期待を掛けながら、長く機を窺っている。彼女が知りたいと望んでくれるのならば、労を惜しむことなく、他でもない自分がサッカーについて答えたいと考えていた。
そのためにも苦境の打破は必須だった。今の彼女はきっと、鬼道が何を話しても弱々しく愛想笑いを浮かべるだけに違いない。
やるせない思いで、小さな陸上トラックの方へと視線をやる。広大な帝国学園の敷地の片隅、本来ならば鬼道が近寄ることもない場所だ。
だが彼はサッカーグラウンドへの移動を名目にしてここへ足を向けた。言葉を交わせないのなら、せめて一目だけでも彼女の姿を見たかった。
「位置について!」
鬼道がそこへ到達したのは、まさに今から彼女が走りだす瞬間だった。遠目にも彼女の艶やかな黒髪は存在感を放ち彼の目を惹く。室内灯の冷たい光の中に彼女の姿があった。無機質な機械音声のコールに月島花織は傾注している。
「用意!」
ふわりとその髪が跳ね上がった瞬間、空間の中に電子音が響く。軽やかな音と共に月島花織は強く地面を蹴り上げた。鬼道の瞳の中で彼女は風を纏いトラックを駆ける。
「……」
どうして、ここまで鮮やかな走りができる……。胸の中になだれ込む感情に鬼道は息を呑むことしかできなかった。
彼女の走りを見たときの衝撃は忘れられない。だが一度ならず何度も、その目で捉えるたびに。彼女の走りは鬼道の心に鮮烈な印象を植え付けた。
まるで重力を感じさせない軽やかさ。空高く飛ぶ鳥のように優美で、風に舞う花びらのように繊細だ。しなやかな筋肉の躍動に、彼女の軌跡を辿る黒髪がきらめいてさえ見える。
やはりいい、走っているときの彼女は何物にも囚われずに自由そのものだ。爽快で心地よく、柔らかに鬼道の心を一握りにしてしまう。世界のすべてが彼女のもとに集約されたかのようだった。
「……は」
震えた唇から息が零れる。ゴールラインを越えても、輝きの残渣が彼女をより流麗に彩っていた。
肩で息をし、清々しく天井を見上げるその姿には鬼道の前には露わにしない彼女本来の姿が見て取れる。……俺の前でもあの自由で飾らない姿を見せてほしい。そう思いながらも、心を許されていないのだから手が届かない。
彼女はコースを外れて歩き出し、ベンチに置かれたタオルに手を伸ばす。細い指先がタオルを掬いとると彼女はそっと汗を拭い始めた。その姿すら、魅力的に見えてしまうのだから重症なのかもしれない。鬼道は時間を忘れて彼女の姿を注視していた。
そのとき、汗を拭ったタオルを丁寧に畳んでいた彼女の視線が、実に何げなく鬼道の方へと向けられた。
「……っ」
鬼道は彼女の表情に衝撃が走ったのをその目で見て取る。花織は目に見えて動揺を浮かべて、ぎこちない動きでタオルをベンチに置いた。狼狽えながら背を縮こませる花織の姿に鬼道はもどかしい感情を抱く。
グラウンドに踏み込んで、彼女のもとに近づきたい。胸の奥から込み上げてくる衝動を必死に抑え込んで冷静を装う。余裕を保つために腕を組み、静かに彼女を見据える。あくまでも彼女の行動を待つことに徹した。
胸の前で両手を握り締める彼女の中には何やら大きな葛藤があるようだった。一度鬼道を見て、彼女の視線は地面へと逸れる。その瞳には……、鬼道の視線が向けられているのが本当に自分だったのかと、信じきれぬ戸惑いが揺れていた。
数十秒か、あるいは数分か。鬼道にとっては長い間をおいてから、ようやく時間が動き始めた。花織が足を踏み出し彼の元へと駆け寄る。
「鬼道さん……っ、お疲れ様です」
花織の表情には隠しきれない困惑があった。白い頬が薄桃色に色づいているのは走った直後だからか。彼女は軽く頭を下げながら鬼道を見る。
彼女は汗で濡れた髪に手をやり、さりげなくもしきりに前髪を整えようとしている。……よく見る彼女の仕草だった。鬼道の前に立つと花織はよくそうやって顔を隠す。いつだって彼女の緊張は明らかだった。
「……ああ」
これ以上彼女を委縮させたくはない。鬼道は注意深く花織の表情や仕草を見つめながら、努めて穏やかに彼女に言葉を掛けた。
「……いい走りだったな月島。速く、それでいて何者よりも美しい走りだった」
少し大げさに感じる言葉選びだったか。だが、嘘でも偽りでもない言葉だ。これ以上の賛辞を求めるのならばいくらでも出てくるが、これ以下は存在しない。
心のままに思っている言葉を鬼道は告げる。手放しに彼女が喜ぶだろうとは思わなかったが、わずかにでも表情を和らげてくれるのではないかと期待した。
「まさか、見に来てくださったのですか……?」
微かに震えた声を鬼道は肯定する。大きく見開かれた目には信じがたいものを見たような揺らぎが存在していた。
「そうだ。お前の走りを見に来た」
しかしながら鬼道の思惑通りに事は進まない。鬼道の言葉を受け、花織は見る見るうちに表情を強張らせた。両手を強く胸に押しあてて、彼女は鬼道から視線を背ける。
「そんな……、わざわざ鬼道さんのお時間を……。……私なんかに」
弱々しく呟いた彼女の発言に鬼道は眉をひそめた。思わず二の腕に触れた手に痛いほど力がこもる。たとえ彼女自身の口から零れた言葉であっても聞き捨てならない。間髪を入れず鬼道は口を開く。
「私なんか、じゃない。自分を卑下するな」
その声には明らかに苛立ちが滲んでしまっていた。低く、語気強い鬼道の声にビクっと花織は肩を震わせる。彼女は俯きながら胸に押しあてた両手を縋るように握り締めた。
その手は緊張からか、それとも恐怖心からか……小さく震えていた。鬼道の胸の奥にずきりと刺すような痛みが走る。
怯えさせるつもりなどない……。ただ俺は、彼女自身の言葉であってもあの走りを、月島花織という人間そのものを軽んじてほしくないだけだ。少々、強い言葉だったのは否定しないが……。
彼女のことになるとつい、言葉の精査ができなかった。なぜ俺は彼女を前にすると感情が言葉を押し出してしまうのか。
あまりのままならなさに、鬼道は思わず天を仰いでしまいそうな気分になる。……自信の無さは花織のせいではない。帝国の弱者を認めない環境が彼女をそこまで追い込んでいるのだ。
成績下位の者への風当たりは教師たちからも強い。誰も有象無象の人間に価値を見出したりはしない。数字でしか物事を計らない。
――――だが、俺は違う。俺はお前を見つけた。
静かに息を吐いて鬼道は花織を見つめる。伏した目を縁どる長い睫毛が涙の雫を纏っていた。触れて拭ってやりたい気持ちを必死に抑えながら、ありのままの彼女の姿を見つめる。
今にも壊れてしまいそうなほど繊細で、その中に誰にも届きえない美しさを秘めている。
「お前の走りには価値がある。……俺はそう判断している。でなければ、わざわざここまで見に来たりしない」
できる限り柔らかく、噛んで含めるようにして彼女に説く。数値では計り知れない俺にとっての価値がお前には存在している。……それを何としても伝えたいと思った。
「月島、顔を上げろ」
鬼道の声を受けて、花織がおずおずと顔を上げた。恐々と潤んだ眼差しを鬼道に向けている。鬼道は彼女の瞳に中てられて、今度は自分の方が顔を逸らしそうになる。
他の女には感じたことのない感情がこみ上げ、咳払いでそれを誤魔化した。早鐘を打ち始めた胸の鼓動に落ち着けと言い聞かせ、落ち着きを取り繕って口を開く。
「月島」
「……はい」
「俺はお前を評価している。こと走りにおいては、この学園の誰よりもな」
吸い込まれそうな濡れた黒い瞳。壮麗でありながらも、どこか可愛らしさがあって勝手に表情が緩まされる。鬼道は心のままに花織に語り掛けた。
「自信を持て」
萎縮や過度な自己否定の姿勢は成長を妨げる。月島が自分自身を肯定できないなら、俺だけでも彼女の才を……。見たものを肯定したい。そうすることで彼女がきちんと胸を張ることができるのなら。
お前を見つけられない奴のことなど見向きもしなくていい。
「……お前が自分を無下にしていては、お前を評価する俺の立場もないだろう?」
冗談めかして笑う。本当は俺の立場など微塵も気にする必要はないが、こういった方が今の彼女には効果があるだろうと踏んだ。人の目を気にし、肩を丸めている奴だ。俺の為だと、そう言っておけば不服でも自分の才を認めざるを得ないはずだ。
「鬼道さん……」
誘うような声色に呼ばれて、堪えていた指先を鬼道は抑えられずに持ち上げる。彼女は少しだけ身を固くしたが、鬼道の手が身体に触れても拒むことはなかった。
触れた鬼道の指先は頬に落ちた彼女の髪を掬ってそっと耳に掛けてやる。そのまま指先を滑らかな頬に滑らせると、薄桃色だった頬がさらに赤みを増す。
雪のように真っ白な肌に紅椿色を差し、それが目を見張るほど美麗に鬼道には見えた。
「……いいな? 月島」
澄んだ夜空に似た瞳の中に赤い光が迸る。火花のように燃えたそれは幻覚か、それともゴーグルの奥に宿した鬼道の眼の色を灯したのかは分からない。
ただ花織は鬼道を見つめて目を細める。瞳から零れた一筋の雫が鬼道の指先を温かく濡らした。
「はい……、鬼道さん」
桜色の唇が弧を描き、鬼道の名を囁いた。その声には初めて温度を伴った信頼が滲んでいた。彼女は目を細め、触れた鬼道の指先に頬を預けるようなしぐさを見せた。心が震える。わずかにだが、彼女の心が開かれたことを感じ取った。
胸の奥で甘い痛みが蠢く。一心に自分を見つめる彼女の姿に、鬼道は改めて胸打たれずにはいられなかった。
囁かれた声に、自分を映した瞳の美しさに。自分がこれまで求めてやまなかったものの片鱗を見た。その微笑には彼女自身の心が投影されていた。世界に鮮やかに色を塗りつけた、出会ったあの日の微笑みだ。
ただあの日と違うのは……、砂糖菓子のように甘い花織の声や瞳に映る鬼道へ向けられた感情の変化だった。
まぎれもなく今、彼女は個としての鬼道有人を見つめている。他には目もくれず、鬼道だけを見つめて微笑みかけていた。鬼道が与えた言葉に心を許したのだ。たったこれだけで、こんなにも……心が満たされるのか。
「……月島」
頬が熱を持っている。指先に触れた月島の頬、……そして俺のものも同じように。
ぞくぞくと腹の奥から溢れかえる感情が鬼道を貪欲にさせる。もっと色んな色を見てみたい。ありのままの花織の微笑、涙、他の感情でさえ見てみたいと思った。彼女の心を聞き、その目で俺を見ていてほしい。この手で奥深くまで触れ、彼女の心に浸したい。
その微笑みだけで俺を満たしてくれるのなら、彼女の心が向けられた時、俺の世界はどんなに鮮やかな色を映すのか。
新たな欲望が顔を出す。強く抗いがたい感情が鬼道の心に根付き始めていた。
――――月島の心が欲しい。
そのために、己が花織に与えられるものを鬼道は悟った。
興奮が体の中に渦巻く。もしも、己の言葉一つが花織の感情を彩るのだとしたら……。自分にとって花織がそうであるように、自分自身が花織にとって他のものに代えがたい存在になれたら……。あくまで夢想に過ぎないが、堪らなく甘美な可能性だった。
「また、あとで俺の所へ来い」
今にも溢れ出してしまいそうな感情を押さえ、余裕ぶって微笑む。以前無理やり呼びつけたときは彼女がどう思っているのかは分からなかった。
だが、今は違う。花織は懸命に首を縦に振って、あまつさえ小さな声で呼びかけに答えた。改めて鬼道は、確信に至る。
「……」
彼女の心を手に入れる。それが月島花織の心に触れるための手段だと。