鬼道有人の初恋
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あれから、彼女は一度たりともこの部屋に姿を見せなかった。
鬼道有人が月島花織と初めて言葉を交わしてから二週間の時が過ぎた。彼女と語らい、鬼道のみが知る場所を明け渡したあの日。忘れようもない出来事がきっと、自身の今に何らかの変化を生むものだと鬼道は考えていた。
眼前の扉は固く閉ざされている。まるで鬼道のささやかな期待など一蹴するかの如くわずかも間隙を開けない。ゴーグル越しに冷えた鉄の扉を睨みつけた。だが、いくらそうしていても何一つとして現実は変わらない。
そう、鬼道の予想とは裏腹に、あの日から鬼道の生活は変わらなかったのだ。月島花織は一度としてこの部屋を訪れなかった。
始めはすれ違っているだけかもしれないと考えた。
鬼道自身も忙しい身だ、サッカーに勉学に他校の視察に赴くこともある。この部屋に四六時中こもっているわけでもない。彼女が訪れたとき、たまたま自分が不在だっただけ……。そう信じていたかった。
しかしながら……、そうではないことは明白だった。
扉のセキュリティログは冷たく現実を突きつける。連なったアクセス記録はすべて自分の身に覚えがあるものだった。理解するには十分すぎる記録だった。
彼女はこの部屋に入るのはおろか、鬼道が教えた番号を入力してみることすらしていないのだ。
静寂の佇む部屋で、鬼道はベンチに腰掛けて階下を眺める。眼下に広がるのは誰もいないサッカーグラウンド。試合中には熱気の立ち込めるピッチは、スタジアムの投光器の白けた光のせいでやけに色褪せて見えた。
ゴーグルの奥で数度、彼は重く瞬きを繰り返す。侘しい光景に胸の中の寂蒔たる思いが募っていく。
――――いつでも来ていいと、そういったはずだが。
両肘を膝に付き、彼は組んだ拳を額に押し当てる。朝と夜を繰り返すにつれ、まるで砂時計のように。焦燥感と不安に似た感覚が時間と共に心の中に積もっていく。鬼道はあの日の記憶を何度も辿って自分の発言に落ち度がなかったかを確かめる。
俺の申し出は迷惑だったのか、それともあの日の俺の強引さが彼女を怖がらせてしまったのか。彼女の言葉や表情を思い返し、頭の中でリプレイしながら心を探る。……あるいは俺の立場のせいか。
彼自身にそう思わせるほど、この学園の中において鬼道の存在は圧倒的だ。帝国学園で鬼道の名を知らない者はおらず彼の存在が注目を集める。常に光が照らす場所に彼は立ち続けていた。
対して月島花織は、強い光によって生み出された影の中に佇んでいるような少女。俯いた顔を黒髪で隠し、華奢な肩を丸めては息までひそめようとする彼女のことだ。
もしかすると鬼道との接触を望んでいないのかもしれない。先日の邂逅だって彼女は疎ましいと……。いいや、あるいは不愉快だと感じていたのかもしれない。
関わりたくないと判断されたのか。避けられている可能性すら思い至って鬼道は深く眉間に皺を刻む。
考えたくもない想像が日に日に鬼道の頭の中を侵食していた。まるで毒が全身に回るかのように鬼道を蝕む。
こんな細事にすぎないことで彼のサッカーや学業に支障が出るわけではない。だが……、メンタル面には少なからず彼女のことは影を落としていた。
万全のコンディションを保てないのは、一流のプレイヤーにはあってはならないことだ。せめて白黒はっきりさせたい。彼女を問いただせば、この暗澹たる気持ちは消え失せるだろうか。俺が、月島花織を呼び出せば……。
「……ふ」
安直な己の思考に呆れかえりながら鬼道は重々しくため息をついた。彼女をここへ強引に呼びつけて何になる。俺はそんなことを願える立場でもないというのに。……いや、違うな。そもそも前提がおかしい。
唇を噛み、ゴーグルの奥で固く目を瞑る。彼女にここに来てほしいと願うことがまず間違っているのだ。責任や使命を置いて何かにかまけるなど……。そんな鬼道の愚行を誰も許しはしないだろう。
月島花織との関わりは鬼道に何も意味をもたらさない。サッカーにも勉学にも……、鬼道財閥の跡取りとして歩む華々しい人生の道に彼女の存在は必要ない。……誰もがそう判断するはずだ。
ならば、現状を打開する必要は欠片もない。意味のないことに割く時間は鬼道の中に一秒たりとも存在しないのだ。特に、鬼道が彼女に対しすべきことは一つも。
無味乾燥な景色の中、鬼道はちらとベンチの空いたスペースに目をやる。あの日、花織はここに座って鬼道の話を聞いていた。緊張に身体を強張らせながらも、彼女は鬼道の言葉に確かに微笑み、あまつさえ可憐な瞳で彼を見つめていた。
その瞬間の彼女の姿を鬼道は完璧に思い出せる。彼女の声……“鬼道さん“と囁くように呼んだ花織の声には紛れもない親愛を感じた。
「……月島」
意図せず彼女の名前が口から零れ出る。それは彼にとって実に女々しく不本意なことだ。
だが目を背けていられるほど、既に彼女の存在は小さな事柄ではなかった。思い出すたびに想いは強さを増していく。忘れるべきだと鬼道が己に言い聞かせるたび、いっそう心は彼女の存在を鮮やかに思い起こさせた。
いつしか簡単に思い描ける。衝撃的な美しさで焼き付いた彼女の走り、初めて心を見せてくれたときの花開くような微笑み。そして夜の海のような色をした眼に浮かべた、木漏れ日に似たまたたき……。
不必要な望みだ。分かっている、分かっていながら……やはり、彼女にここへ来てほしいと願ってしまう。
時間だけが勝手に過ぎていく。鬼道の領域であるこの部屋は、あの日から常に精彩を欠く。鬱屈と淀んで彼の瞳に映っていた。
❀ ❀ ❀
日を追えば追うほど、彼女のことは細事の一言で片づけられなくなり始めた。
ひと気のない通路に鬼道の足音だけが響いている。彼は重しを乗せられたような胸苦しさを抱きながら教室へと向かっていた。人目を避け、この遠回りでもある通路を選んだのは余裕のない自分自身を誰かの目に晒さないためだった。
このところ鬼道の心は、とても穏やかだとは言えない。
ふとした瞬間に、月島花織のことが頭に浮かぶ。授業の合間、サッカー部の練習の休憩中。家に帰ってからのデータ整理の最中や食事や入浴、さらには眠りに落ちる間際にまで彼女の存在が心に憑りついて離れない。
……由々しき事態だ。あの日から一目と見れていないというのに、月島花織の存在はいつしか鬼道の心にあまりにも深く根を張っていた。
――――とはいえ、俺に何ができる?
求めたところで彼女が俺のところに来てくれるわけではない。得られないものを願うのは不毛だ。
そう言い聞かせる鬼道のもとに機会は再び訪れた。
廊下の角を曲がった瞬間、目の前の人影に気が付いて鬼道は反射的に目をやった。その生徒は鬼道からまだ随分と遠くにいたが、彼の目が見極めるには十分な距離。
「……っ」
まず彼の瞳に映ったのは揺れる黒髪であった。一瞬で膨れ上がった期待感に、薄く開いた唇から息が零れる。鬼道はまじまじとその生徒を見つめた。
絹のように艶めく黒髪は俯いた彼女の顔を暗く覆う。こんな人気の失せた廊下だというのに、周囲の視線を避けようと小さく肩を丸める。その仕草は紛れもなく彼女の、夢に見るほど想い募らせた月島花織のものだった。
彼女を瞳に捉えた瞬間、鬼道の胸の鼓動は跳ね上がる。落ち着けと自分に言い聞かせながら、彼は無意識のうちに堪えていた息を吐いた。
ひとたび視界に入れてしまうと、逸らすこともできなくなる。鬼道は食い入るように彼女を見つめ続けた。一歩一歩距離を詰まるたび、あの日味わった甘い痛みが彼の胸を締め付ける。
「……!」
顔を伏せていた彼女がようやく鬼道の気配に気が付いて顔を上げた。鬼道を映した彼女の瞳が、何を思ってか大きく見開かれるのを見る。
ゴーグル越しに視線が絡み合った瞬間、闇に溶ける色をした彼女の瞳は、鬼道の姿を映して光を溢れかえらせる。それはまるで桜の花の間から注ぐ木漏れ日のような光。
……しかしそれは刹那の間だけであった。
「……っ」
彼女はすぐさま鬼道から視線を逸らす。そして気まずそうに俯いて目を伏せた。その瞳の色を隠すよう白い指先が前髪に触れ、その手は彼女の顔すらも覆い隠す。彼女の見せた不可解な仕草に鬼道は拳を握り締めた。
――――なぜだ。
たった数秒の間にどれだけの感情が渦巻いたか分からない。花織が見せた一筋の光に魅せられて、その光に弄ばれて。鬼道は彼女の心を知りたい衝動に駆られる。
許されるなら彼女の元へすぐにでも走り出したい。この前の時間は花織にとっては何でもないものだったのか。俺だけか、あの時間がせめて挨拶程度は交わせる関係になれたのではないかと思っていたのは。
答えてくれと彼女に問いたい。傲慢な願いに突き動かされそうになる指先が疼く。手も足も彼女の方に吸い寄せられそうになるのを必死に堪えた。
少しでも気を抜けば、俺は彼女のことを捕まえて自分のもとに引き寄せてしまうだろうと思った。
……誰が見ているかも分からないんだ。拳を握ることで自分を抑え込みながら、鬼道は二人分の足音以外、音の存在しない廊下を進む。理性を保て、前に進めと懸命に足に言い聞かせる。
しかしすれ違う瞬間、彼女の滑らかな黒髪がふわりと風に揺れ、記憶と同じ仄かな甘い匂いが薫る。その優美な髪の揺らめき、彼女の香りが鬼道に囁く。
――――だが、今を逃したら……。
俺はいつまでこの不快感を抱えていればいい?
そう思ったのが早いか、それとも彼の手が枷を逃れて無意識のうちに動いたのが先かは分からない。振り返った彼女の眼差しが驚きを露わに見開かれる。
鬼道の手は間違いなく、彼女の右手首を掴んでいた。
「……」
お互いの息遣いが静寂に包まれた廊下に存在する。交わった二人の視線はどちらも零れそうな感情をその眼に湛えていた。沈黙の中、鬼道も花織も何も言わず、ただお互いを見つめて動かなかった。
「なぜ、あの場所へ来ない……?」
沈黙を破ったのは鬼道の声だった。低く呟かれた声は確かに落ち着きを払っている。しかし、微かな震えを隠しきれてはいなかった。彼の眉間に皺が刻まれる。
平然を装いたいと思いながらも、痛みを覆いきれない表情で鬼道は花織に問いかける。
「扉の開け方が分からないわけじゃないだろう」
「……」
鬼道の重々しい言葉が空間に響く。彼女は切実な鬼道の表情と眼差しに目に見えて狼狽えていた。彼女の左手がそっと口元を隠して俯く。
花織が浮かべているのは困惑と呼ぶべきか……、彼女の呼吸のリズムは明らかに乱れていた。極度の緊張を露わに彼女は言葉を紡ぐ。
「あれは……、社交辞令だったのでは」
社交辞令? 思いにもよらなかった彼女の言葉に彼女の手首を握る力が強まる。
「社交辞令だと……? まさか」
あまりにも想定外だった彼女の言葉に鬼道も動揺を隠せなかった。呆気にとられ言葉を失う。ままならなさに、思わず笑ってしまいそうにすらなる。
……まさか、そんなふうに思われていたとはな。俺の心はその程度に解釈されていたのか。
胸中にある、心を埋め尽くしてしまうほどの想いをここで明かすわけにはいかない。鬼道には立場があり責任があり、そこには恋心は要されない。
だが、自分が掛けた言葉が社交辞令だなどと……、馬鹿げた勘違いをされているのには我慢がならなかった。
「どうして俺がそんなことを言わなければならない」
たとえ、恋の気持ちは伝えられなくとも……。鬼道の言葉にはそれ以上の、彼女への想いに対するが至誠が尽くされていた。ゴーグル越しの眼差しがどれだけ想いの丈を語れていて、彼女がそれを感じ取ってくれているかは分からない。
それでも分かってほしかった。お前が来ることを願い、俺が待っていたことを。先日俺が語り掛けた言葉は一つたりとて嘘は無い。
「俺は望んでいないことを願ったりはしない」
低く一言一言を噛んで含めるように吐く鬼道の声に花織は息を呑む。夜の海のような眼に波紋が広がる。その瞳の色を注意深く観察しながら鬼道はゴーグルの奥で目を細めた。
そして、花織が部屋を訪れない理由がただの遠慮だというのなら。そんなものは言い訳にさせない。あの日の何物にも代えがたい時間を再現できるなら、俺はこの機会を逃すつもりはない。
鬼道の腕がぐっと花織の腕を引き、彼女の身体を自分の方へと寄せた。体が少し触れ合ったが彼女は逃れようとはしない。嫌悪を滲ませることもない。……ならば。
心を図りながら判断を下す。夢ではない、ここに実在する彼女をつかみ取るため、最低限の線を引きながらも鬼道は領域を侵して深く踏み込む。
「お前は、俺たちの練習を見て自らの練習に役立てたいんだろう? 差し出されたものは掴めばいい」
もっともらしい言葉を説きながら鬼道は、抱き寄せるのも容易いほど近くに寄せた彼女の瞳を慎重に覗き込む。
揺蕩う彼女の瞳は鬼道を見つめ、彼には図り切れない感情を滲ませている。その真意を問いたくて、彼女の気持ちを試すために鬼道はゆっくりと口を開く。
「それとも月島、俺の所へ来るのは……嫌か?」
彼女の瞳が一際大きく揺れる。それと共に唇が震えるのがつぶさに見えた。
狡い聞き方をした自覚はあった。策略的に会話を進めながら鬼道は審判を待つ。
こんなふうに問いかけて彼女が俺を拒めるはずはない。俺のこの問いで彼女は内心がどうであれ屈従するしか選択肢はなくなる。分かっていながら強引な言葉を口にした。
だがお前を手繰り寄せるためならば、手段は選びたくない。もっとお前を知りたい。知るためには、手をこまねいているだけでは何も変わらない。
明らかに鬼道の言葉に花織は困惑を隠しきれていない様子であった。彼女の口元に当てられた指先が覚束なく前髪に触れて指先を体側に下ろす。鬼道は何も言わずに花織の言葉を待っていた。
どれくらい続いたか分からない沈黙の果てに彼女の瞳が鬼道を見つめる。
彼女の眼差しはゴーグル越しの眼差しの真意を読み解こうとしているようだった。上目遣いに鬼道を見ては静かに呼吸を繰り返す。彼女に見つめられると鬼道の胸にもざわめきが走る。
夜闇のような誰にも塗りつぶせない色をした瞳は、凛然とした強い光を放って鬼道の心を鷲掴みにする。視界の端で彼女の細い指がスカートの裾を握る。そして。
「……嫌ではありません。決して」
彼女の声はこの深閑とした空気の中でさえ消えてしまいそうなほど小さかった。だが、声はどんなに儚げでも……。決して彼女は鬼道から瞳を逸らさなかった。
「……!」
じわりとした温かさが胸を侵す。胸の内に込み上げる衝動を抑えて鬼道は息を吐いた。緊張がほどけ、そこには安堵が滲んでいた。
彼女の言葉は嘘ではない。毅然とした瞳にも小さくも響いた彼女の声にも真実を確信させるだけの説得力があった。決して、と結んだ彼女の言葉にも……。鬼道に何かを伝えようとする意図が感じられた。その意図までもは明確に汲み取れなかったが。
お前の心に触れたい、お前の心からの言葉がほしい。だからこそ、この曖昧過ぎる距離を埋められたら。
鬼道は自ら歩み出て、より彼女との距離を詰める。急な接近に花織は驚いたようだったが、やはり鬼道を見上げているだけで距離を置こうとはしなかった。鬼道は彼女に耳を寄せ低く囁きかける。
「その言葉が偽りじゃないならあの場所に来い。今日の放課後、練習が終わったらだ」
命令に等しい言葉、あまり強すぎれば彼女を萎縮させてしまうかもしれない。だがこのくらい言っておかなければ、彼女はまたあの部屋に来ないだろう。
彼女の耳元に囁きかけながらも鬼道は一瞬臆する。ここまで無理を強いたが、本気で彼女が俺を拒絶しようというなら……。俺は強制するつもりはない……。
複雑な感情の中で鬼道は面を上げた。身体が離れると微かに感じていた彼女の体温が遠ざかる。それでも視線だけが再びお互いを繋ぎとめるように絡み合った。
花織の瞳はただひたすらに鬼道だけに注がれている。そして彼女は小さくだが、鬼道のために間違いなく首を縦に振った。
「……!」
些細だが大きな成果だった。鬼道は耐えられず頬を緩めてしまう。彼女が自分の言葉に応えてくれた。制御できない喜びが身体の奥から噴き上げてコントロールできない。
「約束だ」
これ以上彼女の前にいると醜態を晒してしまいそうだ。
浮かれて何をしでかすか分からないと、平然さを取り繕い鬼道は花織の手を放した。努めて何事もなかったかのように彼は赤いマントを翻す。
最後に彼女の姿を一瞥し、名残しさなど微塵も滲ませず。鬼道は背を向けて手をひらりと振った。
「ではまた後でな、月島」
去り際に言葉を掛けた鬼道の声は実に平静さを保っていた。だが……。彼女に触れていたその手はほのかに熱を帯びている。その温もりを強く胸に押し抱いた。
――――月島、花織。
彼女の名前を、姿を声を。鬼道は胸の中で噛みしめて余韻に浸る。練習の後……、また彼女に会える。そう思うだけで今の自分はまるで全知全能で何事も成せるような……、そんな愚かな気にさえさせられた。しかしそう錯覚してしまうほど晴れやかな気分だった。
――――また後で。
彼女と交わした約束を心の奥で噛み締める。花織がどう感じているのかは分からない。しかし少なくとも、その言葉を鬼道は心の底から期待していた。