鬼道有人の初恋
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高潔なその走りに目が奪われる。ピッチへ向かう道で彼女の姿を横目に見た。今や鬼道が見間違えるわけもない。出会ったあの日と変わらず、むしろ輝きを増す彼女の姿に胸が逸る。
部内の三年生が引退し、一人きりになっても花織の健気さに陰りはない。屋内グラウンドに天候は関係はないが、雨の日も風の日も、一日とて欠かさず月島花織は走り続けた。ゴーグルの奥、鬼道の眼差しが風の精を捕らえて細められる。
志高い花織の姿勢には一目置かざるを得ない。勉学においてもそうだが彼女は決めたことは着実に成し、実現させるまで諦めない頑固さがある。
「大丈夫です、無理なんてしていません」
「鬼道さんの傍にいるともっと頑張りたいって思えるんです」
少しは肩の力を抜けと諭すたびに顔を出す、控えめな彼女の人物像からは想像もできない泥臭さ。だがそこが彼女の不器用な愛らしさでもあり、予想外の魅力なのだと鬼道は実感している。
鬼道自身が自分に厳しい人間だからこそ、目標を抱いて尽力できるその強靭な精神力には好感が持てた。彼女の言葉に煽てられ、負けていられないと刺激を受ける日々だ。鬼道のあらゆる事柄へのモチベーションも花織の存在が原動力になり高まっていた。これに関しては今に始まった訳では無いが。
とはいえ、どうしてか心の中に一抹、形容しがたい微かな不安があるのも事実だった。細い糸が引き絞られ、張り詰めて場を保っているかのような。ひどく漠然とした感覚だった。
その鬼道の感覚は程なくして的中し、均衡の崩壊は突然に訪れる。
「お疲れさまです……、鬼道さん」
その日の日暮れ、曖昧な約束の間際になって花織はようやく観覧室に姿を現した。解錠と共に響いた声に鬼道の心が容易く浮足立つ。だが同時に違和感もあった。並べられた言葉はいつもと同じ。しかしその発声に鬼道の背筋を危うさが抜けた。
「……月島?」
予習のため目を通していた参考書を脇に押しのけ、振り向きざまに彼女の姿を視界に捉える。ほつれた黒髪がふわりと綿毛のように揺れた。
「……お前」
一瞬、鬼道は言葉を失う。瞳に映る花織の姿があまりにも疲弊して見えたからだ。その蒼白さに血の気が引きそうになったが、それでも彼女の肌の方が青ざめていただろう。足取りもどこか軸がなく不安定にみえた。鬼道は弾かれたように立ち上がり、駆け寄らずには居られなかった。花織の肩にそっと触れる。
「体調が、悪いのか」
静寂の中、喉の奥に絡まった言葉が掠れていた。彼にとって、可能であるなら飲み込んでしまいたい言葉だった。
「……いいえ」
鬼道の言葉に花織は微笑んでみせた。……また、あの笑顔だ。彼の目は容易くそれを見抜く。楚々と美しい静謐な微笑み。でも今の鬼道にはその微笑は痛々しく見えた。いつからこんなにやつれていたかと顔がひきつる。平時よりも速く浅い呼吸、潤んだ瞳。花織の額には不自然なほど汗が滲み、濡れた前髪が張り付いている。首筋にも玉のような汗が伝い落ちた。
「酷い顔色だ。それに汗も尋常じゃない」
「えっと……、その……、走ってきたから」
ちっとも言い訳にもならない下手な嘘だ。弱々しい強がりに鬼道の胸は耐え難い圧迫感を覚える。
花織がここに来るようになったばかりの頃、鬼道との待ち合わせに慌ててやってきた時があった。その時に鬼道は多少遅れても構わないからちゃんと息を整えて来いと言い聞かせている。それ以来花織は、鬼道の言いつけを守り、完璧に身だしなみを整えてからこの部屋に来るようになった。
自己肯定感が低い花織は常に鬼道の目を神経質なほど気にしている。だからこそ、汗だくで髪を乱したこの状況がすでに異常だった。いいや、それ以前に表情を見れば一目瞭然だ。どれだけの時間、彼女と顔を突き合わせていることか。
「誤魔化すな」
逃れようのない事実を前に鬼道は微かに唇を噛んだ。憤りが呼吸の中で震えていた。壁の時計が残酷に時を刻む。待ちわびた花織との時間。この時間のために自分を奮い立たせた。用事を前倒しに片付け予定を空けた、花織とのひと時を得るために……。
その努力は水泡に帰した。見るからに体調の悪い花織に無理は強いれない。しかし、鬼道の苛立ちは花織に向けられているものではなかった。
『大丈夫です、無理なんてしていません』
『鬼道さんの傍にいるともっと頑張りたいって思えるんです』
過去の会話で繰り返したやり取りを思い返す。健気な瞳の輝きと眩い笑顔も。無理の兆候は前からあったのだ。彼女が強情で自分を追い込む性質だと分かっていた。脇目もふらずに走り続ける姿に何度も不安を抱いたことがあったくせに。こうして花織が体調を崩し、隠しきれなくなる前に気が付くことができなかった。
彼女を理解できるのは俺だと、そう豪語しながら健康状態さえ把握できていない。自己嫌悪の波が鬼道の中で荒れ狂っていた。
「……医務室へ行くぞ」
「えっ……」
腹立たしさをゴーグルの奥に覆う。強引に花織の手を掴み、鬼道は観覧室の出口へと足を踏み出す。思考に絡め取られて足の感覚はまるでなかった。
この時間に校医は呼べるか、せめて養護教諭へ繋いで保護者に迎えにこさせなければ。花織を放っておけない。だが今は一緒にいる資格さえないと鬼道は痛烈に実感していた。
だが、鬼道の思考を遮ったのは花織だった。
「待って鬼道さん……っ、わたし」
ぐっと存外強い力で鬼道の手が後方に引かれる。僅かな力を絞り出したような花織の声に鬼道はマントを翻して振り返った。ふらふらで足元がおぼつかない花織が、半ば体重をかけるようにして鬼道の手を強く引き留めている。息を堪えるようにしながら、潤んだ瞳が鬼道に訴えかけた。
「まだ、ここにいたいです……。だから」
青白い頬の上を涙が一筋伝い、制服の上に雫を落とす。熱に浮かされた瞳の中には鬼道だけが映っていた。いつも謙虚で落ち着いた彼女が子供のように駄々をこねる姿……。
「お願いです……、鬼道さん」
鬼道は一瞬、呼吸を忘れる。何を言われたのか、それを理解する彼の脳は数秒処理を停止していた。何しろ花織が鬼道の言葉を拒んでまで、自分の意思を示したのは初めてのことだったからだ。
「……っ」
動揺に頬が赤らむ。鬼道はゴーグルの奥で頼りなく視線を泳がせた。その言葉を体調不良が成す嘘偽りのないものと信じていいのかと狼狽えた。
もしも花織が幼子のように素直な弱音を自分の前に零したのだとしたら……。それも”ここにいたい”という鬼道の傍に居ることを望む発言をだ。花織の言葉を紐解くと鬼道の心は怒りを忘れ、場違いな高揚に高鳴りを奏で始めてしまう。
「お前、は……」
抑えきれないほど庇護欲が掻き立てられた。破壊力に優れた一言に咄嗟に口元を顔で覆う。隠していないと、あまりのいじらしさに口元がにやけているのが花織に明らかになるだろう。呼吸を整えて正常な振る舞いを思い出そうとする。
だが、花織を医務室に今すぐ連れていくべきと分かっていながら、鬼道有人としての正解の判断を下すことはどうしてもできなかった。
「分かった。……お前がそこまでいうのなら」
腕を引く花織のもとに踵を返し、彼はそっと彼女の肩を抱き寄せた。そして耳元に熱を孕んだ囁きを吹きかける。
「だが……、安静は譲れないからな」
そういうや否や、鬼道は花織を引き寄せて強引にベンチに腰を下ろした。互いの身体を沿わせるようにして花織の身体を抱き込む。隙間なくぴたりと密着し、彼は花織の頭を自分の胸元に押し付けた。
「っ……!」
鬼道の腕の中で花織が力なく慌てふためいている。彼女は身体を起こそうと弱々しく鬼道の胸を押すが、それは彼の腕一本に封殺されてしまった。荒々しい胸の鼓動を押し付けるようにして鬼道は花織を抱き、そっとほつれた黒髪を整えて撫でつける。
「黙って少し休め。……ここに居たいなら俺のいうことを聞いてもらうぞ」
もはや庇護したいのか、欲望に実直なだけなのか。鬼道にも判断はついていなかった。力を込めれば折れてしまいそうな体をマントで包みこみ冷えぬように。汗ばむ肌も自分のものとして、彼女の呼吸が安らぐことを祈って耳をすます。
やがて安心したのか、花織が脱力したのがわかった。信頼を寄せる行動に鬼道は一層抱き寄せる手に力を込めた。温もりが瞳を熱くさせる。
これまでは過度に触れれば彼女の体を固くさせるばかりだった。だが今日は違う。花織が自ら安らぎを求め、身体を預けてくれたのだ。他の誰でもない鬼道有人に心を許している。
「……」
言葉は不要だった。鼓動を共に温もりを重ねる。この時が永遠に続けばいい、そう言わんばかりに。
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