鬼道有人の初恋
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
鬼道有人が月島花織を見初めたのは、帝国学園に入学してまだ間もない頃のことだった。
赤いマントを翻し彼は道を行く。その姿を見ると生徒たちは彼に道を譲り頭を垂れる。彼の名を囁き、彼の功績を称え賞賛した。
こういう扱いを求めているわけではない。だがこの居振舞いは周囲が鬼道に期待する形なのだ。それを飲み込んで鬼道は努めて厳格に前を見据える。
鬼道有人は一年生ながらに帝国学園の主体とも呼べるサッカー部のキャプテンとして部をまとめ、入学テストでももちろん頂点の座に君臨していた。鬼道財閥の御曹司であり家柄も申し分ない。事実上、帝国を統べる王になった彼よりも優るものは誰もいなかった。
しかし彼はそれを驕ったことは無い。鬼道有人は聡明で、見るべきものをより深く見てより多きを学び取れる素直な少年であった。
与えられるすべての期待に応え、鬼道は彼が彼であるためにあるべき姿を完璧に形作る。彼の生活は使命と責任、そして誇りによって成り立っていた。
だからこそ、彼にとって月島花織との出会いは鮮烈だった。まるで桜の花びらを空へと舞い上げる春疾風のごとく、彼女は鬼道の心を一瞬で搔き乱した。
ある日のこと、慣れない学校生活を過ごす中で鬼道は彼女の姿を目に留めた。
それはサッカー部の練習を終え、廊下を歩いていた時だった。揺れる黒髪が視界の端に映って、鬼道は何気なく活気の失せたグラウンドに視線をやった。
黒髪の持ち主は華奢な少女だった。タンクトップにハーフパンツのトレーニングウェア姿からおそらくは陸上部の生徒だということを推察する。
彼女は険しい面持ちで視線を落として佇んでいた。陰鬱で暗い雰囲気があったがそれはあの重々しい黒髪のせいか。
ぼんやりと意図もなく寄せた鬼道の視界の中、流れるような動作で彼女はグラウンドのコースでクラウチングスタートの構えを取る。
部活の光景だなんてありふれているはずなのに、鬼道はどうしてかその姿に足を止めて見入ってしまった。遠くから聞こえる電子タイマーの音に合わせ、彼女は強く地面を蹴る。
「……っ」
走り出した少女の姿に鬼道は目を見張った。息をのみ、勝手に足が動き出す。グラウンドの敷地ぎりぎりまで彼は彼女の走りを見ようと歩み寄った。
初めて見た彼女の走りは鮮烈だった。それはハヤブサが飛ぶように速く、獲物を狙うチーターが駆ける姿のように洗練されている。いやそれ以上に。彼女は美しかった。
雪のように白い細くも鍛えられた筋肉が躍動する。頭の頂点からつま先までしなやかに動く。大きな瞳は真っ直ぐに前を見据え、何者よりも速く先を行く。その顔に先ほどの険しさはどこにもなかった。
走る喜び、清々しさ。それを映した表情が鬼道の目に留まる。今の彼女は先ほどの少女とはまるで違う人物に見えた。陰鬱だなんて……、愚かしい形容をしたものだ。彼女ほど純美で燦然としたものを見たことがないのに。
目もあやな長い黒髪が彼女を彩って舞い踊る。例えるならばまさに風。どこまでも自由で何者にも掴めない。グラウンドを駆ける彼女は正しくそんなふうに見えた。
刹那の間に心を奪われ、もはや鬼道有人はその走りの虜だった。
――――なんて、美しい……。
陽の光も差さない閉鎖的な帝国学園のグラウンドで、走る彼女だけが唯一の輝きを放っているように鬼道には見えた。ゴーグルの中に映った視界、そこには彼女の姿があり、他のものは何も彼の意識に潜り込まない。
ドクン、と大きく高鳴った胸を抑える。目の前に映る光景に少女の姿にうまく息ができなくなる。無意識に彼女の走りに引き寄せられ足が地面を擦った。こんなに心を揺さぶられるものを見たのは初めてだった。己の深部で強く拍動する心臓の音がやまない。
あっという間に百メートルのコースを走り切って減速する彼女から目が離せなかった。
名は何と言っただろう。少女をじっと見つめながら鬼道は思う。ようやく呼吸の仕方を思い出したが、走った後のように浅く速い呼吸を彼は繰り返す。
同学年か、それとも上級生か。なぜ……、そんなことが気になる? 彼女はいったい……。考えたことないことばかりが頭に浮かぶ。滾々と湧き出るような欲求が。
サッカーで、フットボールフロンティアで三連覇し、妹を引き取る。もっとよく顔を見せてくれ。帝国の頂点に立ち続け、将来は鬼道財閥を牛耳る。二人で話がしてみたい。関係ないはずなんだ、あの女は。鬼道の表情が切なく顰められる。……だがどうしても彼女を知りたい。
甘い痛みが胸を支配していた。この後も予定が詰まっている、早くこの場を立ち去らなければならない。それなのに彼女から目を離したくない。もっと彼女を見ていたい。指先が感覚を失って震えている。そして、なにより……。
――――もう一度あの走りを見たい。
「鬼道?」
その場に立ち尽くして微動だにしない鬼道の様子を不審に思ったのか、あとからやってきた彼と同学年の佐久間が鬼道に声を掛けた。
鬼道は夢から覚めたようにまばたきをして、ようやく彼女から視線を逸らして佐久間を見る。佐久間は鬼道のおかしな様子に怪訝な顔をしていたが、鬼道が見つめていた先を見るなりああ、と肩を竦めた。
「もしかして月島花織か?」
「月島、花織……?」
佐久間が零した名前を鬼道はゆっくりと呼んで繰り返す。名前の響きは魅力的な調べに聞こえ、鬼道の胸の鼓動を速めた。じんわりと胸の中で何かが溶け広がる。佐久間は実に興味なさそうに寺門のクラスメイトだと彼女のことを話した。
曰く彼女は有象無象の中の一人。勉強はからきしで、人との交流も希薄だという。しかしながら特筆すべきは運動能力。多方面に優れ、特にその俊足に勝るものはもはや全国区にしかいないレベルだと。入学早々、控えめながら清楚な容姿も合わさって陰ながら噂になっていたようだ。
「地味で暗い奴だ。クラスでも浮いてるらしいしな。……鬼道?」
鬼道はもう佐久間のことを見てはいなかった。再び彼女、月島花織という少女のもとへひたすらに視線を注ぐ。何度も何度も胸の中で彼女の名前を転がして噛みしめた。
彼女は誰とも言葉を交わさず、俯きながらタオルで汗を拭っていた。白い肌をタオルが覆い、彼女の顔が見えなくなる。それが理由もなく寂寥を感じさせる。
ひとりぼっちでまったく笑わない。あんなにも美しいのにその輝きを誰も見ていない。そんな彼女を見ていて胸がつきんと痛む。
艶やかな黒髪を靡かせて彼女は歩いている。彼女はちらとも鬼道のことを見なかった。
❀ ❀ ❀
どうしてこんな展開になったのか自分でも分からない。
鬼道は口を噤み、足早に廊下を進んで目的地へ急ぐ。ちらと後方を確認すれば、美しい黒髪の少女が楚々と自分の後に従っている。自分がそうしろと言ったくせに、彼女がいる事実が夢のようで鬼道は慌てて前を向いた。
あの日初めて鬼道は月島花織に出会い、そして彼女を知りたいと思うようになった。
サッカー部の方が陸上部よりも練習が長いため、彼女の走りを見られる機会はほとんどなかった。しかしあの日の衝撃と記憶は鬼道の心を惹きつけるには十分すぎた。彼は、次第に月島花織に惹かれていった。
一見、勉学は不得意で愛想も悪い。未だに友達も作れない花織を生徒たちは変わり者だと揶揄した。
しかし走っているときに見せた彼女の輝きは真のものだ。その姿こそが本来の彼女だと強く信じ、鬼道はその誰も触れることのできない、ヴェールに包まれた彼女に触れたいと思った。
瞼の奥に焼き付いて離れない自由な躍動。その持ち主である彼女と話をして、見つめ合って触れ合えたら。世界がどんなに鮮やかに見えることだろう。彼女を知ってから幾度となく鬼道は夢想した。
そしてそれが思わぬ形で叶ったのだ。
本当に偶然だった。練習前にひとり、自主練をしていてボールを廊下まで飛ばしてしまった。ボールを追いかけたその先に……、思いにもよらなかった彼女の姿があったのだ。
その姿を見たとき、鬼道は暗く閉塞感のある廊下の壁に光が差した錯覚を見た。転々と地を滑るボールの音が反響する中、彼女の靴音がやんでその場に足を止める。
彼女は緩く転がったボールをトラップし、不思議そうな顔をしてそのボールに手を伸ばす。はらりと彼女の肩から漆黒の髪が一房落ちた。ボールに触れようとする彼女の、細くしなやかな指の動きを辿ってその横顔を覗き見た。
興味深く、彼女はサッカーボールを見つめている。鬼道はその視線が向けられるものを密かに羨む気持ちを抱きながら彼女の動向を見守った。スカートの裾を抑えながら腰をかがめ、たおやかな動きで花織は静々とボールを拾い上げる。
彼女が立っていたのはサッカー部以外通行禁止の廊下だった。つまりは花織が本来いてはならない場所だということだが……、鬼道はそんなことはどうでもいいと思った。彼女をこの目に映すだけで異様に緊張が膨らんでいく。
大きく拍動する心臓を抑えながら、彼は至って冷静を装い花織に言葉を掛けた。
「……こんなところで何をしている」
彼女の瞳が初めて鬼道を捉える。彼女の眼差しが向けられた瞬間、それだけで熱く激情が体の中に流れ込んでくるのを感じた。
長い睫毛に縁どられた、大きな瞳はその艶やかな髪と同じ色をしていた。まるで夜の海のように深い色を宿し、じっと鬼道を見つめ返す。静謐さの中に少しだけ警戒と緊張を孕んでいるように見えた。
「鬼道、さん」
桜色の唇が微かに動いて彼の名を呼んだ。
ずっと聞きたいと願っていた彼女の声は、想像よりもはるかに清涼でどことなく甘い響きをしていた。心が何かに打ち震えるのを感じ、鬼道は汗ばむ手を握りこむ。どんな言葉を続けようかとシミュレーションしていた思考が一気に吹き飛ぶ。
彼女が俺を知っていてくれた。そんな些細な事実が驚くほど鬼道の心を舞い上がらせた。しかしそれを表出するまいと息を呑み、一呼吸おいて彼は口を開く。
「ここは……、サッカー部の者以外は通れないはずだが」
黒曜石に似た瞳の色を眺めながら、試合の流れを読むよりも慎重に鬼道は言葉を選ぶ。
彼女が俺の名を知っているのなら、おそらくは俺の立場も知っているのだろう。鬼道はそう推察していた。帝国学園サッカー部をまとめ、指導者としての立場に立つ自分を。
想像していなかった展開に自分がどう立ち回るべきかを鬼道は必死に考える。できることなら彼女を威圧したくはない。ここで彼女に出会えたチャンスを逃すわけにはいかなかった。
俺は理由を知りたいだけだ、その気持ちが伝わるようできる限り柔らかい声色で彼女に問いかけた。
ほんのわずかに間をおいて……、空気が揺らぐのを感じた。鬼道をまっすぐに見つめた彼女の瞳が細められ、たおやかに鬼道に微笑みかける。高潔な輝きに満ちた純真な眼が鬼道だけを見ていた。
「申し訳ありません。……少し、サッカー部の練習を見てみたかったものですから。練習の参考にしたくて」
微かに身震いさえしながら、鬼道は彼女の言葉を聞いていた。陸上の練習の延長線とはいえ彼女がサッカーに興味を持っている。
今の発言は本当に彼女の口から零れたものか、俺にとって都合のいい幻聴ではないだろうな……。一瞬そんなことを考え、彼女が唇にのせた言葉が誤りでないことを知る。知って、鬼道の心はより強い衝動に掻き立てられた。
――――これは。
知りもしなかった激情の波が荒れ狂う。完璧に浮かべた微笑はあの日見たものとは違い、鬼道に対する警戒を纏っているように思ったがそれでも魅力的に見えた。凛と鬼道の眼を見つめ返す彼女の姿は咲き誇る一輪の花のようだった。
控えめながらどこをとっても麗しい。これまで目にした誰よりも。そして今自分は、その花のような少女と話をしている。
胸の中に渦巻くこの気持ちをなんと呼べばいいのか。嬉しいのに胸苦しさがある。大勢の前に立つことも当然の彼が、たったひとりの少女を前に酷く緊張させられていた。カラカラに乾いた喉が続きを求めて言葉を絞り出す。
「お前の名は……、月島花織だったな」
初めて出会った日から、胸の内で何度繰り返したか分からない名前を鬼道はようやく声にする。彼女は、……花織は鬼道に自分の名を呼ばれて少し驚いたようだった。拾い上げたボールを持つ手が、鬼道の声を聞き微かに揺れたのが見えた。
「どうして、私の名前を……」
驚きに目を見開いたそんな表情すら……こんなにも心を揺るがす。鬼道は爆発しそうな気持ちを必死にこらえて、厳格さを取り繕って呟いた。
「帝国一足の速い女のことを俺が覚えていないわけがないだろう」
このくらいなら不自然じゃないか。学年主席として、帝国学園の生徒の中でも上に立つものとして。帝国を統べるなら当然のことだと、だから彼女を知っているのだと言わんばかりの言葉を鬼道は選ぶ。
以前から見ていた、話をしてみたかった。そんな個人的な感情を俺が抱いている事実を公にするのは得策とは言えない。特に誰が聞いているかも分からないこの場では。鬼道はそう考えた。
「……っ」
些細な言葉を、選んだつもりだった。しかし鬼道の意図に反して彼女は、鬼道の言葉に大きく表情を変える。先ほどまで感じていたわずかな警戒がすべて取り払われ……、彼女の素顔が鬼道に初めて向けられた。
大きな漆黒の瞳が鬼道を見つめて星のように瞬く。小さく震えた桜色の唇が自然に弧を描いた。これまで薄かった花織の本心が鮮やかに表出されている。鬼道の言葉一つで、彼女は限りない喜びを映して見せた。
柔らかな微笑みは鬼道の想像を凌駕していた。全身が震えあがる感覚がして、鬼道はその微笑にすべてが飲み込まれてしまいそうになる。目が離せなかった、頬が熱に燃えて。鬼道は今まで自分がどうやって呼吸をしていたのか分からなくなる。
彼女が今、初めて本当の意味で自分を見てくれた気がした。
シュートを決めた後のように心臓が早鐘を打っている。胸の痛みを堪えながら鬼道は花織の瞳に見惚れていた。
帝国学園の冷たく無機質な廊下の陰で花織の存在だけが鮮やかな色を放つ。冷徹な電光の明かりのもとでも彼女だけは世界の中で温度を持っていた。
手を伸ばして、触れたら……。衝動的な感情を鬼道は必死に抑え込む。
「……あ、ありがとう、ございます」
彼女が優美に礼をして鬼道に言う。たおやかなその髪が流れるように彼女の肩から落ちた。その髪を整えてやりたい気持ちに駆られながらも、鬼道は彼女の視線が逸れてやっと落ち着きを取り返す。彼女が深々と頭を下げている間に、呼吸を整えあるべき鬼道有人の姿を取り繕う。
……まだ彼女との時間を得たい。しかし……。
そろそろ練習開始が迫っている。他の者たちもそろそろこの廊下を通りかかる頃合いだ。花織を早くここから遠ざけねば彼女が規則違反で罰されてしまう。
名残は尽きない、この時間を手放したくない。それでも己の理性がこの時間に終止符を打たなければと言い聞かせていた。
「……月島」
サッカーボールを受け取るために花織の方へと手を伸ばす。花織がおずおずと鬼道の元へ歩み寄った。間近で見ると彼女の愛らしさがなおのこと際立った。
走っているときの存在感を思うと意外だったが、こうして見ると彼女はとても小柄で華奢だった。サッカーボールを差し出したその手はしなやかで細い。
漂う仄かな甘い香りは彼女のものか、そう思うとどんな風に呼吸をしていればいいのかまたも分からなくなる。
花織の瞳が平静を取り繕う鬼道を見つめる。闇一色でありながら、精彩な感情に色づけられるその眼を未練がましく覗く。彼女との接近は最後になるかもしれない。……じくじくと勝手な感情で痛む胸を誤魔化しながらボールを受け取ろうとした時だった。
「……」
花織の瞳に一抹の寂しげな色が滲む。鬼道を見つめていたその目は伏せられ、きゅっと彼女の唇が固く結ばれたのをつぶさに感じ取る。
……錯覚かもしれない。だが、もしかすると彼女もこの時を名残惜しいと感じてくれているのかもしれない。推察が至ると鬼道の心に激情が押し寄せた。
彼女が願ってくれるなら……。もしも彼女も俺と同じ気持ちなのだとしたら。
これは千載一遇のチャンスだ、逃すわけにはいかないと強く駆り立てられる。立場も責任もこの感情に比べれば、酷くちっぽけなものだった。衝動に身を任せ、鬼道は緊張に汗ばむ手で花織の持つボールに触れる。
「お前さえよければ……、少し練習を見ていくといい」
渇いた喉に張り付いた言葉が勢いのまま押し出される。すべてが始まった瞬間だった。
❀ ❀ ❀
こんなつもりではなかった。
練習を終えて帰宅した鬼道は、自室に戻るなり深くため息をついた。いつになく乱雑に鞄を置きながら今日の出来事を思い返す。帝国学園に入学してから、鬼道にとって最も波乱のあった一日だった。彼女と話をすることになるだなんて思いもしなかった。
練習を見ていくといい、と鬼道が期待を込めて掛けた言葉を彼女は受け入れてくれた。いや、断る理由は無かったのかもしれない。彼女は自身の練習のためにサッカーを見たいと言っていたのだから。
それを利用して彼女と一緒にいる時間を引き延ばそうとした。ほんの少しだけ、そう言い訳をした。実際、そのつもりだった。
だが心からの花織の笑顔と嬉しそうな声に、鬼道は舞い上がる心を抑えることができなかったのだ。境界を越えてはいけないと分かっていながら彼女に秘密を明け渡してしまった。
自身の行いを顧みると呆れてものが言えなくなる。鬼道は額に手を当てて頭を振った。冷静になればなるほど今日の自分の行動は浅慮だった。
彼は自室を振り返る。ほの暗い間接照明の明かりにゆらゆら揺れ、部屋の光景が鬼道の瞳に映る。整然と整えられた広々とした部屋。中学生の身には余る家具や豪奢な調度品が飾られ、必要な知識を得るための本が本棚には詰め込まれている。
これが彼に与えられた期待だ。誂えられたものに相応しい成果を残すことが鬼道有人の役目。鬼道財閥の跡取りとして、帝国学園サッカー部のキャプテンとして。……そして妹を引き取るために兄として。鬼道が歩く道に月島花織の存在は必要なものではない。
分かっていながら近づいてしまった。あまつさえ自分の領域に招き入れ、秘密を明け渡してしまった。制御も利かず感情に乗せられるまま。……今日の己の行いは誤った判断だとは理解している。そのくせ、後悔はこれっぽっちも無かった。
「……月島」
名前を口にするだけであの時の息苦しさを思い出す。甘美な響きが身体全体に浸透して思考が彼女の色に染まった。頼りない部屋の明かりに影が一際濃さを増す。
鬼道は胸の辺りを撫でさすりながら彼女の笑顔を思い浮かべる。絹のような艶やかな黒髪を揺らしてこちらを見つめ、柔らかく表情を緩める月島花織の姿……。
彼女が見せたのは、想像など比較にならない魅惑的な笑顔だった。もっとその笑顔を見せてほしい。笑顔だけじゃなく他の表情も見てみたい。欲が鬼道の中で増幅する。
いつしか彼女のことを考えるたびに胸が焼け付くような熱を持つ。苦しいのにその痛みが心地よいとすら思えるから不思議だ。月島花織のことはまだ何も知らない。だからこそもっと彼女を知りたいと心が叫ぶ。
――――アイツは、俺に会いに来るだろうか。
まるで夜の星を閉じ込めたような、俺を見つめるあの眼が記憶に焼き付いている。今日のやり取りの中で、少なくとも嫌われていないようだと感じた。俺の発言に好意的な返事をし、俺の言葉一つ一つに涙さえ浮かべたように見えた。……いじらしくも。
それは鬼道の希望を反映した錯覚なのかもしれない。けれども、期待してやまないのだ。彼女に向けた願いと熱が密かに彼の心に燃え上がる。
――――俺は何をしているんだ。自分を統べる絶対君主、父や総帥の言葉に抗ってなぜ彼女と過ごす時間を願う? 兄としての使命を理解していながら、どうして他の何かに関心を抱く。
まだ春の冷たさを纏う窓に触れた。その温度に指先は冷えながらも彼の心は静かに熾火のように燃え滾る。
息を吐き、彼は夜の闇の中には散りばめられた星と麗しい月の光を眺めた。いつになく美しい月夜に彼女の面影を見て鬼道の胸の鼓動は速さを増していく。
いつでも来いと告げた、部屋を開くための番号も教えた。期待する要素はあるはずだ。だからまた顔を見せに来てほしい。俺と彼女だけが知るあの部屋に……。
彼女への好奇心を、欲を抑えきれない己の心に戸惑いながら。鬼道は瞼の裏に彼女の姿を幾度となく思い描き、繊細な望みを胸に押し抱く。
それは、あまりにもささやかで本能的な願いを。
1/6ページ