恋風番外編 短編
”水着はセクシーさが大事なんや”一週間前に己の友人、リカが電話口で言っていた言葉を[#dn=1#]は思い出した。少女は真っ直ぐに伸びた黒髪をヘアゴムで高く結い上げながら自らの姿を映す鏡に注目する。海辺の更衣室、彼女はそこで己の水着姿を再確認した。
夏のある日の、カラリと晴れた今日一日。抜けるような青空に浮かぶ大きな入道雲。夏になったら海に行こう。何となく取り付けた約束が確実な約束になったのは二週間前だ。ふたりで、他の誰も誘わないで一緒に。彼女の恋人の風丸が告げたそれは紛れもなくデートの約束だった。
そこで[#dn=1#]は今日という日に備えてできうる限りの準備をしてきた。元々運動をしているため改めて身体を引き締める必要はなかったが、スキンケアを徹底した。
そして何より水着だ。彼のために新しい水着を新調した。[#dn=1#]は鏡を見てパンツの食い込みを指で正しながら思案する。やはり少し大胆過ぎるだろうか、今までは見目よりも機能重視で水着を選んできた[#dn=1#]はこのような水着を着たことがなかった。
しかし[#dn=1#]の恋愛の師匠であるリカが[#dn=1#]にはどのような水着が似合うのかを一緒に考えてくれ、決めたものなのだ。彼女のアドバイスはいつも[#dn=1#]を助けてくれた。
大丈夫、ちゃんとリカちゃんに写真を送って確認してもらったのだから。
そう意気込んで[#dn=1#]は更衣室を出る。身支度に少し時間を要してしまったから彼はきっと待っているだろう。そんなことを思いながら[#dn=1#]は更衣室を出る。
外に出れば少し湿った潮風と強く光照らす太陽がギラギラと輝いていた。一瞬眩しさに目を伏せ、ゆっくりと目を開ける。広がる一面の青い美しい水面。彼の姿を探してきょろきょろとあたりを見渡せば、水着を身に纏った人、人、人。
多くの海水浴客で浜辺はごった返している。それでも[#dn=1#]の瞳に一人の少年が縫い止まった。海のような落ち着いた青髪の少年。浜辺の後方、待ち合わせをした海の家の日陰に水着の上に上着を羽織った彼の姿を見つけた。[#dn=1#]は思わず口元が緩んでしまう。
「一郎太くん!」
彼の名を呼んで砂浜へと駆け出す。灼熱の砂が[#dn=1#]の足に熱感を齎したが気にはならなかった。彼の傍へ、と早足で駆けるたびに艶やかな黒髪が揺れる。
彼は[#dn=1#]の声に気づいて[#dn=1#]の方へと視線を向けた。[#dn=1#]の声に一瞬綻んだ風丸の表情が、[#dn=1#]の姿を目視してきゅっと引き締まった。なんて……。建物の陰にいるはずなのに頬に熱が帯びるのを風丸は感じた。
「[#dn=1#]……」
そうやって彼女の名前を呼ぶのが精いっぱいだった。駆け寄ってきた彼女に目を向けて、静かに逸らす。手で口元を覆い、緩んでしまう表情を隠した。そうするほかどうしようもなかったのだ。彼女の水着姿を褒めようと予め彼女を褒める言葉を考えておいた、だが彼女の水着姿は彼の想像を遥かに凌駕するほど魅力的だった。
「その、えっと……」
彼女を褒めようとする言葉が詰まってしまい、直視するのも憚られる。女子中学生にあってはならない色気が彼女にはあった。彼女のチャームポイントの美しい黒髪がサラサラと揺れ、白雪のような肌に時折触れる。いつも通りのその事項だけでも美しいのにいつも以上に露出された肌は風丸にとってかなり刺激的であった。
深い青を基調としたクロスビキニ。トップスの胸を支える布がクロスになっており、[#dn=1#]のただでさえ豊かに実った果実を大胆に強調している。白地に青い花を散らしたパンツからはスラリと美しい足が伸びている。程よく鍛えられしなやかな筋肉の付いた彼女の脚は全国トップレベルのスピードを持つという事実を納得させるものだった。
「一郎太くん……、あの」
何も言えない風丸に[#dn=1#]が不安げな声で彼を呼んだ。気に入らなかっただろうか、[#dn=1#]は彼の反応をそんな風に捉えてしまう。右手を胸元へ上げ、風丸が初めてのデートの時にプレゼントしてくれたペンダントを握った。ぎゅっと彼女の胸が右腕に押され、谷間を強調させる。益々風丸は頬を赤らめた。
「似合わない、かな……?」
もっと身の丈にあった水着にしておくべきだっただろうか。[#dn=1#]はそっと目を伏せ、小さな声で風丸に問う。彼に褒めてもらいたくて選んだ水着、もしかして自分は着せられているように見えるのだろうか。自分に自信が持てない彼女はそんな不安に駆られてしまう。
そんな彼女の肩にふわっと何かが掛けられた。[#dn=1#]は目を開く。それは風丸の着ていた上着だった。風丸は[#dn=1#]の両肩に手を置き、耳元に唇を近づける。彼女の不安げな声を聞いて、風丸は自分の恥じらいを捨てた。静かに、自分の想いを彼女に伝える。
「……似合ってる」
「……っ」
[#dn=1#]が息を飲んで目を見開いた。彼の青い髪が頬に触れる。風丸は自分の上着を[#dn=1#]に羽織らせながら、なお言葉を続ける。
「綺麗だ、[#dn=1#]」
「……一郎太、くん」
きゅんと甘いときめきが[#dn=1#]の胸に響く。これ以上はない、最上級の誉め言葉だ。風丸は頬を真っ赤にしたまま、[#dn=1#]の黒い瞳を見つめる。[#dn=1#]も彼の瞳を見つめた。少し緊張したような、彼の面持ち。[#dn=1#]が照れたようにはにかめば、彼も表情を緩めた。
「上着、羽織っておいてくれ。今の[#dn=1#]を他の奴らに見せたくない」
そういって風丸は[#dn=1#]の肩から手を離し、少し距離を取った。風丸の言葉に[#dn=1#]は頷いて彼の渡してくれた上着に袖を通す。これで少しは肌の露出が抑えられるな、風丸は自分の中にある勿体ないという気持ちと独占欲の間で揺らぎながら気持ちを落ち着かせようと静かに息を吐く。
彼女が風丸のサイズにあわされた上着を着た彼女は別の意味で煽情的であったが、風丸はぐっと込み上げる衝動を抑えて[#dn=1#]の右手を取った。いつもの微笑みを見せて[#dn=1#]の手を引く。
「よし、行くか。せっかく海に来たんだから泳がないとな」
***
サンサンと輝く太陽が青く美しく海を照らし、宝石のように水面を輝かせている。広大な砂浜には波が寄せては引いてを繰り返して白い泡沫を作りだした。
風には潮の香が混じっていて、まさにここが海であるということを主張していた。風丸と[#dn=1#]は手を繋いで波打ち際に沿って歩きながら、海水に足を濡らす。波が揺れるのに合わせて足が冷たい海水に晒されて心地よかった。
「もう少し海に入ってみるか?」
「うん」
彼の問いかけに頷いて[#dn=1#]は彼の手を引いた。ゆっくり膝、腰、腹へと水が触れていく。そのひやりとした心地の良い感覚に[#dn=1#]が身を震わせれば、彼も同じ感覚を覚えているようで、どちらともなく視線を合わせて微笑んだ。
「気持ちいいね」
「ああ、そうだな」
海の中でゆっくりと大きくジャンプすればちゃぷん、と水が跳ねて自分の身体を濡らしていく。ポニーテールにした[#dn=1#]の髪が海に浸されて[#dn=1#]は歩を止めた。気づけば肩まで海水に沈んでいる。この先は泳がなければ進めないかもしれない。
「一郎太くん、この先はちょっと足がつかないかも」
[#dn=1#]はあまり身長が高い方ではない。風丸と並んでみると十センチ程度は身長差がある。最近は特に風丸の方の身長が伸びている。
現に今、風丸はまだ胸のあたりまでしか海水に浸っていないようであった。風丸は[#dn=1#]の言葉に頷いて[#dn=1#]の腕を自らの方に引き寄せる。
「怖くないか、[#dn=1#]」
「うん、それは全然。泳げるからまだ少し深いところに行っても平気」
[#dn=1#]は陸上での運動が得意であるが、泳ぎも苦手とはしなかった。一通りの泳ぎは幼少期にマスターしている。だからまだ深いところへ彼が進むというのであれば立ち泳ぎをしよう。
「そうか。ならもう少し深いところに行こう」
「うん、じゃあ……」
「[#dn=1#]」
なあに、と言葉を返す前に[#dn=1#]のつま先が水面をぱしゃりとはじいた。
「きゃっ」
水中で意図していないのに身体がふわっと浮き上がる。[#dn=1#]は突然のことに驚いて慌て、戸惑う。いつの間にか風丸の腕が自分の膝裏と背中に回されて抱き上げられている。所詮、お姫様抱っこだ。
「一郎太、くん……⁉」
「これなら泳がなくても大丈夫だな」
[#dn=1#]を抱き上げたことを何でもないことのように風丸は平然としている。[#dn=1#]は未だ困惑の中にいるというのに。
「そ、そうだけど、重いから……」
「水の中だから重いわけないだろ」
くす、と風丸が笑って[#dn=1#]の身体を抱き寄せる。確かに風丸の言う通り、水の中では浮力が働くため、体重は実際の十分の一になる。元々軽い彼女の身体を重たいと感じるわけがない。そんなことは[#dn=1#]にも勿論分かっているのだが、彼女は落ち着かなかった。
彼のたくましい腕に抱かれて、鍛え上げられた胸筋が腕に触れている。顔も物凄く近い。いつも以上に風丸と密着していて胸のドキドキが止まらないのだ。水の中だというのに、顔が火照るように熱くなっていく。
「や……、この体勢怖いから」
「なら、俺の首に手を回して」
風丸が[#dn=1#]の耳に囁きかける。
「……一郎太くん」
「いいから、な?」
そう言われてしまっては[#dn=1#]は彼の首に腕を回すほかない。ぎゅっと彼の首にしがみ付いて俯き、真っ赤な顔を必死に隠す。風丸は妙に余裕があるが、ドキドキしているのは自分だけなのだろうか。[#dn=1#]は唇を噛んでときめきのあまり零れてしまいそうな息を堪える。
彼とは付き合ってもう一年になるが、こんなに密着すればやはり緊張する。自分だけ、だろうか。風丸はもう、こうして触れ合う時のときめきはなくなってしまった?[#dn=1#]はそんなことを思って彼の胸に頭を預けた。ちゃぷちゃぷ、と水の遊ぶ音よりも強く。彼女の耳には彼の心臓の拍動が強く届いた。
「あ……」
ドキドキしてる……、のかな。[#dn=1#]はそっと顔を上げて風丸の顔を見る。表情は彼の横髪に隠れて見えなかったが、彼の耳は赤くなっているようだった。
「ね、一郎太くん……」
「なんだ、[#dn=1#]?」
「私、すっごくドキドキしてる……。一郎太くんは?」
ザアア、と波の大きな音が響く。[#dn=1#]を一層強く抱きしめた風丸は、[#dn=1#]のことを照れたような顔をして見て、笑いながら[#dn=1#]に告げた。
「俺もしてる。……でも凄く心地いい。[#dn=1#]は?」
茶色の瞳が優しく[#dn=1#]に問うた。[#dn=1#]は風丸の肩に頬を擦り寄せて視線を水平線の彼方に向けた。答えなんて、決まり切っている。
「うん……、私も」
緊張で口から心臓が飛び出そうなくらいだ。[#dn=1#]は息を吐いて風丸に微笑む。いつもはこんなことしないくせに、時々彼は凄く大胆なところがある。そういう彼も[#dn=1#]は大好きだと思う。
「海、綺麗だね」
海は好きだ、彼と同じ青色をしているから。[#dn=1#]は目を細めて呟く。その言葉に風丸はああ、と返答した。
❀ ❀ ❀
それからふたりで海の家に行ってかき氷を食べ、キーンとするような冷たい感覚を共有したり、浜辺に座ってのんびりゆったりした時間を過ごした。そして今、また海の中に入って水と戯れている。[#dn=1#]の肩ほどの水位の場所でちゃぷちゃぷと波の流れに身体を任せている。
「ねえ一郎太くん、勝負しようよ」
唐突に[#dn=1#]が風丸に勝負を持ち掛ける。風丸は首を傾げて勝負? と[#dn=1#]の言葉を繰り返した。[#dn=1#]は頷いて挑戦的な瞳で彼を見た。
「うん、勝負。どっちが長く水に潜っていられるか」
「潜水勝負ってわけだな。いいぜ、受けて立つよ」
「負けたら勝った方のいうことを一つ聞くってことで」
くすくす、と笑いながら[#dn=1#]が提案する。[#dn=1#]はよっぽどこの勝負に自信があるようだ。確かに彼女もスポーツをしていて肺活量には風丸には引けをとらないかもしれない。風丸は楽しそうな[#dn=1#]の様子に微笑んでああと頷いた。
「わかった。俺は構わないぜ」
「ふふ、じゃあ。せーの!」
ザブン、と[#dn=1#]の掛け声に合わせて大きく息を吸ってふたりは青の世界に潜り込む。目に海水が入らないように固く目を瞑った風丸は賑やかな喧騒から解放されて耳を侵食する泡の音を楽しむ。おそらく[#dn=1#]がどれだけ肺活量があるにしても、自身が負けることは無いだろうと踏んでいた。なんせ彼女は女で、自分は男。体力にも自信がある。
髪がふわふわと水に揺れている。おそらく三十秒ほど経っただろうか。まだまだ風丸は余裕だ。目をしっかり固く閉じてゆっくりと息を長く吐き出していく。ブクブクという泡の生まれる音、それが世界の全てだった。
そのときすっと風丸の両頬にすべやか何かが触れた。何だろう、と風丸が疑問を感じ、うっすら目を開けようとしたとき彼の唇に優しく何かが触れた。
「……!」
驚きに風丸の唇が薄く開いて息が漏れる。目を大きく見開けば、まず揺蕩う黒髪が目に映った。ぼやけた視界の中で愛しい彼女の顔が眼前にあることに気づく。長く、優しく泡に包まれた幻想的な世界の中で風丸と[#dn=1#]はキスを交わす。驚きのあまり息を吐き切ってしまった風丸は限界を迎えて水面から顔を出した。
「ぷはあっ」
げほげほ、と少しばかり水っぽい咳が出て風丸は喉を抑える。あまりに驚いたものだから少し海水を飲んでしまった。数秒後、遅れて[#dn=1#]が水の中から顔を出した。はあ、と彼女は息を整えながら心地よさそうに前髪を掻き上げ、してやったりという顔で風丸を見つめる。そしてにっこりと笑った。
「私の勝ち、ね。一郎太くん」
「……[#dn=1#]、今のは狡くないか?」
少し呆れたように風丸が[#dn=1#]を見つめて苦笑した。[#dn=1#]は口元を手で押さえて微笑みながら、自らの唇に指を触れ、悪戯っぽい声で返答する。
「キスしちゃいけなかった?」
……キスをしてはいけないわけがない。風丸は全く彼女には敵わないとそう思った。きっと[#dn=1#]は初めからこうするつもりで勝負を仕掛けたのだ。負けず嫌いな彼女が勝負を持ち掛けたのだから作戦を立てていることに気づかなかった自分の完全に負けだ。そんな風に解釈した風丸は両手を上げて目を伏せ、首を横に振る。
「はあ……。俺の負けだよ、[#dn=1#]」
ふふ、と色気を交えて笑いながら[#dn=1#]が言う。風丸の推測はおおむね当たってはいたが、[#dn=1#]が口づけた理由は他にもあった。
[#dn=1#]はちょっぴり憧れていたのだ。海の中でキスをする恋人というものに。過去に映画で見て、彼と、風丸とそんなロマンチックなことをしてみたいと思っていた。だから素潜り勝負を持ち掛けたのだった。そんな理由を彼が知る由もないが。
「それで、[#dn=1#]は俺に何かしてほしいことがあるのか?」
濡れた髪を掻きあげながら風丸が[#dn=1#]に問いかける。[#dn=1#]は頷いて風丸の手を握ってちゃぷんと水の中に沈めた。
「もう一回、今度は一郎太くんから……」
少し照れたようにはにかみながら[#dn=1#]が言う。風丸はそれだけで彼女が何を言いたいのかを察して絡めた手を強く握るとふたりでもう一度水の中に身を投じた。海は遍くふたりを優しく包み込み、ふたりだけの世界を生み出した。