恋風番外編 短編
日本少年サッカー界を支配する。サッカーを守るためにそんな建前をもって、ひとり孤立し生きている現状を時折寂しいと感じる時がある。自らが望み、挑んだ道であるというのに、俺の心が納得していないとでも言うのだろうか。
イシドシュウジはフィフスセクターの頂点に立つ聖帝であった。少年サッカーの全ては彼の手の中にあり、豪炎寺修也という名を捨てた彼の言葉一つで事は動く。しかし彼の行動に納得のいかないもの達が反乱分子となって彼の立場を脅かそうとしている、いや、サッカーを正常に戻そうとしているのだということも分かっていた。
だからこそいつか自分の努力が報われ、自分が排除される未来を悟っている。その時、俺はまたひとりのサッカープレイヤーに戻れるだろうか。
こういうときなのだろうな。帰る場所を求めるのは。彼にはもちろん家族がいる。味方もいる。だがそうではなく、帰る場所が欲しい。自分の求める家庭というものが、この世界で誰よりも愛すべき人が待っていてくれる場所を俺は欲しいと思う。
「豪炎寺くん……?」
夕暮れの道、夕焼けを見るために立ち寄ったその場所になぜ、このタイミングで思い浮かべたその声が聞こえるのだろうか。彼の瞳が動揺と驚きに開かれる。これだけ年月が経っても姿を見なくても、声を聴くだけで分かった。彼はゆっくりとその声の主のほうへと視線を向ける。表情は決して崩さず、じっとその人を見つめた。
彼女は少し見ない間にまた一段と美しくなった。長い艶やかな黒髪を纏め、凛とした大人っぽさを見せる。白い肌には薄化粧が施され彼女の美しさを際立出る見せ方を。スーツを身にまとった女性らしい体つき、すらりと伸びた足。柔らかくて優しい表情。
なにも変わらない、あの頃からずっと。この[#dn=2#][#dn=1#]という女は。そして豪炎寺が心の中に抱える気持ちも。
「私は豪炎寺ではないが」
彼は彼女の問いに正しくは答えなかった。答えずにその場を立ち去ろうとした。今この瞬間、[#dn=1#]が自分と共にいることが彼女の安全を脅かすことかもしれない。そう思っての行動だった。だが次の瞬間、彼は振り返ることになる。
「きゃっ!!」
[#dn=1#]の悲鳴、ドンっと響いた鈍い音と同時に彼の傍を女性もののバッグを手に走り抜ける男。コロンと転がったパンプス。何が起こったのか瞬時に悟った。ひったくりだ。それを理解すると同時に豪炎寺の身体は動いていた。
近くにいたサッカー少年の持っていたボールを借りるぞ、と一言声をかけ半ば奪い取るように手に取ると逃げる後ろ姿にボレーシュートを蹴りつける。そうすれば男は情けない声を上げて倒れ、ボールはテンテンと転がった。
彼が蹴り上げたボールを追いかけて少年が、そしてどこから現れたのか警官が彼の背中を追い越していく。それを見送って彼は振り返った。
革靴で走って彼女のもとへ戻る。そして今もしりもちをついたままの彼女に彼は手を差し伸べた。
「立てるか? [#dn=1#]」
久しぶりに呼んだその名に自身懐かしさを感じる。いつ以来だろう、彼女の名前を呼ぶのは。[#dn=1#]は少しびっくりしたような顔をしてふふ、と優しく微笑んだ。豪炎寺は思わずどきりとする。本当に、[#dn=1#]は変わらない。俺の気持ちも変わっていないようだ、微笑み一つがこんなに愛おしいなんて。
「やっぱり、豪炎寺くんだね」
[#dn=1#]は確信をもったようだ。あんなシュートを打てるのはこの世界にただひとりだけ。豪炎寺修也以外にありえないからだ。
「……ああ、そうだ」
降参だ、もう今更繕うことはできない。[#dn=1#]の柔らかな手が彼の手を握る。二つの意味で彼はどきりとした。一つは[#dn=1#]の手が自分の手に触れた喜び。
そしてもう一つは彼女の左手の薬指に輝くそれを見つけてしまったからだった。動揺を隠して彼女を引き上げた後、パンプスを拾う[#dn=1#]を見て自分が動揺から右手と左手を間違えていたのではないかということを確認する。
しかし間違いではなかった。彼女は左手の薬指に指輪を嵌めている。言いようのない激情が豪炎寺の中に流れていく。豪炎寺はそれを握りしめたこぶしに込めて俯いた。分かっていた、覚悟していたのにその気持ちを飲み下すことが出来なかった。
豪炎寺くん、と彼の名を呼び心配そうに[#dn=1#]が彼の顔を覗き込む。そうすると彼はなんでもないように笑って[#dn=1#]の頭をポンポンと撫でた。
「何でもない。……[#dn=1#]、これからディナーでもどうだ? 二人だけで」
❀
「乾杯」
海の見えるフレンチの予約を取らせ、迎えを寄越して[#dn=1#]と二人でレストランへ向かった。カチンと触れたグラスが音を鳴らす。こんな格好で、と[#dn=1#]は店に入るのを渋ったがここは個室だ。気にすることは無いだろう。
「ごめんなさい。ワイン、頂きたかったけどダメなの」
彼に外で飲むなって言われてて、と[#dn=1#]は眉根を提げて笑う。アイツがそういいたくなるのも無理はないだろう。[#dn=1#]の酒癖の悪さは彼も知るところだ。彼女が初めて酒を口にしたときは本当に大変だったから。
「構わない」
「ふふ、ありがとう。……豪炎寺くん、雰囲気変わったね」
[#dn=1#]が気を許した表情で笑う。[#dn=1#]の言う通り、豪炎寺修也としての面影を消すために彼はかなりイメージチェンジをした。髪型も服装もアクセサリーも今どきの、垢抜けてチャラチャラとした印象を持たせるものを選んだ。
「女の子が放っておかなそう」
「……そうでもない」
そうかしら、なんて言って彼女はグラスに注がれた水を飲む。その時キラリと[#dn=1#]の左手の薬指でダイヤモンドが煌めいた。見栄っ張りなものではなく、ごく自然に彼女によく似合う。そんな大きさのダイヤモンドに、特徴的な台座。
「……[#dn=1#]、お前は」
少し言い淀む。口に出して肯定されてしまったらもうあとには戻れないような気がした。いや、後に戻るも何も[#dn=1#]と自分との間には中学時代からのサッカー仲間、それ以上の関係はない。
俺は一度も[#dn=1#]への好意を表にしたことは無かった。初めて出会ったときから意識を奪われ、すぐにも[#dn=1#]に恋をしてしまったというのに。
転校してきた教室で俺を指さした円堂の絶叫に微笑むお前が美しかった。自分の愛する人のために痛みを感じ涙する姿を守りたいと思った。強くなろうと健気に努力をする姿が愛しいと思った。
お前は知らなかっただろうが、俺はずっとお前に焦がれてきたんだ。
「なぁに? 豪炎寺くん」
不思議そうな顔をして[#dn=1#]が首を傾げる。大人びているのに子供じみた仕草は矛盾しているような気がした。
「……いや、料理は口に合うか?」
そういってフォークで刺した何かを口に入れる。それは[#dn=1#]と一緒にいるのにまるで砂を噛んでいるような、そんな感覚がした。
❀
[#dn=1#]と過ごす時間は一瞬だった。食事の味はわからなかったが、[#dn=1#]と二人きりで居られる時間がただただ幸せだった。永遠にこの時間が続けばいいのにと思ったが、終わりはすぐにやってきて彼は[#dn=1#]を家まで送り届けた。
「今日はありがとう、ご馳走になって本当によかったの?」
心配そうに[#dn=1#]が聞く。会計の時も中々彼に支払いを委ねることを了承してはくれなかった。俺の顔を立ててくれ、その一言で[#dn=1#]は引いたが。[#dn=1#]は昔からそうやって囁けば聞いてくれる。それは俺への信頼の証か。
「ああ。……[#dn=1#]」
あらためて[#dn=1#]を見つめる。じっと己を見上げて目が合うと自然に微笑んでくれる彼女のことを、豪炎寺修也はやはり愛しているのだと実感した。彼は目を閉じる。いよいよ決意して別れ際に核心に触れた。
「ようやく風丸と結婚するんだな」
愛していたからこそ何もしない。それが十年前に俺の選んだ選択だった。
[#dn=1#]への恋を実感した時には、いや、出会った時には既に[#dn=1#]の傍には別の男がいた。それが風丸だった。[#dn=1#]は風丸との恋の中で喜び、悲しみ、傷つき、そして成長した。日を重ねる毎に美しくなる彼女を自分は見ているしかなかった。
強くも脆い彼女の幸せを自分が触れてしまうことで壊してしまうことが怖かった。臆病な俺は[#dn=1#]に想いを伝えることはできなかった。伝えまいと決めた、[#dn=1#]を支えつつも立場上頼れる兄のような存在でいよう。それが俺の出した答えだった。俺は常に[#dn=1#]の恋の第三者でありつづけた。
「……幸せになれよ」
伸ばした手でポンポンと[#dn=1#]の髪を撫でる。これだけが俺に許された[#dn=1#]に触れる唯一の手段。……ああ、[#dn=1#]。お前の幸せは俺の願いだ。
だから、俺の本当の気持ちには一生気づかないでくれ。