恋風番外編 短編
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あ、これは……。スマートフォンに滑らせていた親指が宙で止まった。慣性のまま流れていた思い出たちが始まりに辿り着く。画面の一番下方、最下層に保存され続けている記憶。タップすると同時に画面いっぱいに映し出されたそれは、最新の液晶には不釣り合いなほど粗い粒子で構成されていた。記憶ほどに曖昧なサッカー部の部室が背景を彩る。
写っているのは、顔を真っ赤にして今にも泣きだしそうな顔をしているかつての自分。そして、その腕の中で少し緊張した微笑を浮かべているのは。まだ少し幼い面立ちの彼の恋人だった花織の姿。
いつぶりに見返しただろう。久しぶりに見てみるとがさがさして、どこかピントがずれている気がする。それでも大切な、風丸一郎太の人生において意味をもつ一枚。彼女と初めて一緒に撮影したかけがえのない写真だった。
ふたりがけのソファに体を沈めて懐かしさに口元を緩ませる。風丸は、そっと写真の中の中学生時代の花織の姿を指で撫でつけた。細めた目元には計り知れない慈愛が滲んでいる。
あの頃から変わらない想いを今もこの胸に抱いている。ずっと、花織のことを心から愛していた。……けれど。
――――これを撮ったときは、今みたいな未来が来るなんて思えなかった。
写真の中の情けない顔をした自分は、いつか来る未来の話を聞かされても信じないはずだ。いや、あるいは……。縋る思いで信じようとするのかもしれない。
未だに胸の中にこびりついてる感情がじくりと膿んだように疼く。写真を見つめる茶色の瞳の中で光が滲んだ。画面の中、花織の腰を支える自分の手が彼女のスカートをぐしゃぐしゃに握っている。青い自分の余裕の無さに気が付いて風丸は苦笑した。
……この時はずっと、花織と別れなきゃって、そればかりを考えてた。
一世一代の覚悟だったはずだった。そのくせ別れたあとになっても消せなくて、寝る前には未練がましく写真を眺めてた……。自分が花織を置いてチームを離れたときだって、この写真があるだけで花織は俺のものだと思わせてくれた。……その行き着いた先が、アレだったわけだが。
胸苦しさに痞えて風丸はスマートフォンから視線を外す。壁に飾った思い出の象徴、イナズマジャパンのユニフォームから視線を泳がせ、最近やたらと厚さを増した雑誌のラックに。テーブルの上のパンフレットや封筒だとか、ありふれたものが空間を構築している。その今の中で、彼は静かに思いを馳せた。
まるで夢の中にいるみたいに身体が浮つく。見返さなくても大丈夫になったのは……、いつからだったんだろうな。あの時は、こんなことばかり考える自分を女々しくて情けないと何度も叩いた。こんな気持ち、消してしまいたい。消さなきゃと気持ちを閉め出そうとした。
でも、今は少し違う。きっと、その気持ちもひとつ残らず大切だった。すべてが今に通じる道だったと信じられる。
「何を見てるの?」
思い出に潜っていた風丸を柔らかな声が掬い上げる。ひとりで睨めっこ? と続けた彼女は色違いのマグカップをローテーブルに並べて風丸に笑いかけた。悠然な振る舞いで長く伸ばした黒髪をそっと耳にかける。あのころから変わらない仕草。
幼い日の風丸と共に画面の中にいた女の子。だがその頃にまして愛しい彼女の姿に風丸は小さく首を振った。当然のように風丸の隣に腰を下ろした花織は彼のスマートフォンを覗き込む。そして目を瞬かせて声を上げた。
「え、懐かしい……! 一郎太くんもまだ持っててくれたんだ」
郷愁と喜びを隠すことなく、花織は食い入るように画面を見た。その姿が、風丸の中であの日の部室の記憶と重なる。
写真を撮り終わったあとだ。花織がこんなふうにじっと写真を眺めて、嬉しそうに笑っていた。花織は今の彼と画面の中の彼をこうやって見比べて……。風丸が今の彼女を眺めていると、花織は伏し目で画面の中の風丸を愛おしげに見つめる。
「この時の一郎太くん、すごく顔真っ赤で可愛い……。大好きなの、この写真」
「いや、可愛くはないだろ……」
今にも泣きそうな情けない顔した男が、と言いたげに風丸がすかさず零す。だが、花織は首を横に振りつつ、画面の中の少年に触れた。
「そんなことないよ」
穏やかに、しかしながら断固として。言い切った声には嘘偽りのない愛情が滲んでいた。刹那、衝動のトリガーが押し込まれる。風丸は無意識のうちにスマートフォンに触れていた花織の手を掴んでいた。
「あのさ、花織」
小さなその手をまるで縋るように握りこむと、言葉が堰を切ったように零れだした。
「俺……、この時、泣きそうだったんだ」
茶色の瞳にあの日の感情が溢れ出す。暖色の光を湛え、風丸の瞳は写真の中の少年と同期していた。
「手を放さなきゃってずっと考えてたから」
抑えられない感情が、唇から勝手に零れていく。
「お前にはもっとふさわしい幸せがあるはずだって」
止まらない、抑えられない。声は勝手に震えていた。
「この写真が……、お前と撮る最初で最後の写真になるんじゃないかって」
瞬きの度に感情が頬を滑っていく。伝い落ちた熱はざらりとした質感を残した、鮮やかな画面に映った若い自分を濡らす。かつての自分が隠した気持ちを代弁し始めると風丸の言葉は止まらなくなった。目を逸らさず、あの時は言えなかった心を曝け出す。隠す気はなかった、そんな必要はないと分かっていた。
「俺、お前と一緒にいたかったんだ。離れたく、なかった……」
滲んだ声が絞り出すのはずっと押し殺していた痛み。昇華していたはずの幼いころの苦しみだ。蓋をして隠していた気持ちがとめどなく込み上げて風丸は静寂の中で鼻を啜る。
もうとっくの昔に、花織は俺を選んでくれた。それを分かっているのに今更なんでこんなことをいうのか、自分でもよく分からない。ただ、ふたりで一緒にいたこの十年間は自分の想いを裏切らない。その確信が風丸をどうしようもなく素直にしていた。
「……」
風丸の想いを前に、花織は複雑な表情を浮かべて息を零す。笑っているのか、呆れているのか、それとも泣き出しそうなのか……とても判別できない表情だった。そして彼女のその感情を、風丸が咀嚼する間は与えられない。
「……!」
五感に焼き付いた安らぎが風丸の心を優しく受け止める。風丸は強く、彼女の腕に抱き寄せられていた。
「離さない」
腕に込められた力を裏付けるように、耳元に囁く花織の声は重い。
「離してなんかあげない」
噛み締めながら囁く花織の声には重ねてきた年月が織り込まれていた。一度風丸の耳に唇の熱を残し、花織はそっと腕を緩める。そして左手を持ち上げて風丸の顔を覗き込んだ。花織の温かな手の温もりの中、硬い感覚が風丸の頬を這う。彼女の薬指には風丸の贈った愛が誇らしげに輝く。
「私には一郎太くんしかいない」
あの頃から風丸が求め続けた言葉を、花織は躊躇うことなく繰り返した。この十年間、幾度となく。風丸は宣誓の言葉を享受しながら彼女を見つめ返す。
――――ああ。あの頃の俺に教えてやりたい。
「知ってるよね……?」
ちゃんとお前の気持ちは報われてるって。
囁きかけた花織の闇色の瞳には、風丸の姿以外は何も映りこんでいない。その眼差しこそが、花織がすべての選択で自分を選んでくれたという証明だった。花織の想いに沿いたくて、風丸も同じように彼女の頬に手を沿えた。そして惹かれるまま顔を近づけて、彼女の額に自分の額を押し付ける。
「ああ……、知ってる」
吐き出した呼吸が混ざり合う。手の中に在る温もり、匂い、鼓動も何もかも。ここにあるすべてが愛おしくて仕方がない。隠しようのない涙がまた一筋、風丸の頬を伝う。
「花織の隣を走れるのは俺以外にいないからな」
あの頃の自分には絶対に言えなかった。だが、今なら自信を持って言える言葉を風丸は力強く口にする。
時計の秒針が正確に時を刻んでいた。いついかなる時も平等に未来に進む時の中、彼女と一緒にいられる”今”を永遠だと信じる。
「花織」
「……うん」
額を合わせたまま、風丸が花織の頬を撫でる。
「写真撮るか」
今度は風丸からの提案だった。この瞬間の胸の熱さを形にして残したい。花織が隣にいてくれる世界ごと全部。その想いが風丸の口から囁かれる。
「あの時と同じ感じでさ」
「……ん」
どちらともなく額を離したのもつかの間、ふたりはお互いに距離を詰める。スマートフォンを掲げた風丸はそっと花織の腰に手を回した。彼女は風丸の首筋に顔を寄せて画面を見上げている。スマートフォン越しに視線を合わせた花織は風丸を見つめて囁く。
「同じで……、いいの?」
耳朶を這う声が甘さを含む。シャツが少し引っ張られる感覚が風丸の呼吸に手をかける。赤らめた頬を風丸の胸板に摺り寄せながら、甘えるようで奥に色を秘めた眼差しが彼を煽る。
「誓いのキスとか……、しない?」
「……な」
不意打ちに風丸の手がぶれる。ごくっと大袈裟なくらい喉が鳴ってしまって、誤魔化すように風丸は咳ばらいをした。ちら、と風丸がスマートフォンから視線を落とすと、画面越しとは比較にならない破壊力の蕩ける眼差しが扇情的に風丸を見ていた。ズルいくらい可愛い、あの日も今日も。
彼の青と、花織の黒が絡まり合う。破壊的で獰猛な衝動を、息を吐きながら風丸は堪えようと試みる。彼女の腰を掻き抱いて、風丸は花織の髪に鼻先を摺り寄せた。風丸と同じトリートメントの香りが背筋を撫でる。
「それは本番にとっとく。……だろ?」
「……お預け?」
「お預け。……ほら花織、カメラ見ろよ」
慣れた角度でスマートフォンを掲げる。レンズに視線を向けると、ぴたりと身体を寄せた自分たちの姿が鮮明に画面に描写されていた。ボタンをタップするだけで同時にシャッター音が数回鳴る。あんなに必死だったあの日とは比較にならないほどスムーズに、当たり前に彼らはフレームに収まっていた。
「撮れた?」
最新の一枚を確認しようと手を伸ばす、無防備な花織の手を捕まえる。風丸の視界には、レンズが逸れても花織しか映っていなかった。彼女の瞳が純真な光に揺れ、無邪気な笑顔を見せた途端、風丸の理性は焼ききれた。
さっきから散々煽っておいて……、こんな顔をするお前が悪い。瞳の色が重なり合うと時には既に臨界点を超えていた。
「ん……」
神経を犯す激情に身を委ね、唇を重ねながらソファに二人で倒れ込む。触れ合う温度を念入りに確かめると風丸は花織に身体を押し付けるのを止められない。舌先で上唇をくすぐってやると、花織は小動物のように風丸の腕の中で震えた。濡れた吐息が彼の手の中で停滞する。
「花織……」
熱烈な愛情を惜しみなく捧げながら、風丸も湿った声で彼女の名前を乞う。ソファの上で髪を乱した花織は息を切らしたまま薄く唇を開いた。粗い呼吸を整えながら、首を傾げるようにして風丸を見上げる。その眼差しには風丸と同じ温度が隠しきれずに滲んでいる。
「お預けって言ったのに……」
「気が変わったんだ」
朱色に熟れた花織の頬を指先で撫でながら、彼は花織の雨上がりのような瞳を覗き込んだ。声を聞かずとも動きで読めてしまうほどに唇を寄せて、風丸は熱く言葉を吐く。
「我慢とかしないからな」
珍しく余裕なく零れた彼の言葉に花織が笑いとも取れない息を零す。今やふたりは頭のてっぺんからつま先まで絡み合うようにソファに沈んでいた。離れない、離れたくない。交わし合った心を合わせるように互いを切望した。
頬に触れる風丸の手に指を這わせ、花織はその指先を絡めるようにして握り締める。彼女の左手の薬指で艶めかしくダイヤモンドが煌めいた。
「……じゃあ私も気が変わった」
「え?」
熱が風丸の肌を撫でる。花織は風丸の手首を唇に寄せて、燃える温度の唇を押し付ける。渇望を彼の肌に刻むように。より強く、風丸の欲を知り尽くした顔をして彼女は深くふたりだけの世界に風丸を誘う。
「もっとしてくれなきゃ、やだ……」
「……は」
渾身の一撃。瞬間、風丸の瞳孔が開き、熱を上げて舐るように花織を見下ろす。ギラギラとした欲が眼を満たす。こんなことを言ったらどうなるかなんて、知り尽くしているくせに。手の中から消えたスマートフォンがごとん、と大げさな音を立てた。
「花織……っ」
名前を口にしたのが先か、唇が噛みつくように触れたのが先か。お互いをすべて塗りつぶすように唇が触れた。風丸は花織の腰を鷲掴みにして引き寄せながら、先ほどよりも深く、溺れるように。肺の中の空気さえ奪い合うような口づけを繰り返す。
「はっ、花織……っ」
「んぅ……、ん」
名前を呼びたくて唇を離し、離れているのがもどかしすぎてまた吸い付く。蹂躙を受け入れる彼女の口内を、余すことなく舌先で追い詰める。逃げ場を塞いで上顎を、歯列の裏を熱く舐って湿った水音を交わす。
離れた瞬間の切なさを埋めたくて、離れるたびに濃厚に絡まり合う。縋るように首にまわった花織の手が、呼吸のままならなさから余裕なく風丸を乱す。その仕草が際限なく風丸を加速させていく。
「いちろうたくん……っん」
腰に花織の蕩けた声が響く。それさえ飲み込むように花織の髪を掻き上げ、逃がさないと抑えながら強引に口を塞いだ。……分かってるからな。お前が、こうやってされるのが好きだってこと。
「お預け」なんて、到底無理な話だった。花織のことになると俺が俺を制御できなくなるのは、あの日から……。いや、出会った日から、何一つ変わっていない。
「……っは、愛してる」
息も絶え絶えに、心のままに言葉を紡ぐ。かつて終わりに怯えながら、泣くのを堪えていたシャッター音を鳴らしたあの日とは違う。お前の隣にいることをワガママだと、必死に飲み込む必要はないんだ。
「花織」
あの頃に報いるために、風丸は心のままに彼女を乞うた。手の中のすべてを抱きしめて、唇が離れた隙に誓いを捧げる。
「ずっと……一緒にいような」
言葉の代わりに彼女の方からまた唇が重なる。あの時殺したワガママは、時を経て約束に変わっていた。
重なる吐息の向こうで、ローテーブルに投げられたスマートフォンの画面が静かに光を放つ。切り取られた今は、かつてのノイズだらけの過去を、時間の重さの分だけ凌駕していた。
温かな光に包まれ、同じ幸せを共有する笑顔。花織の指に燦然と輝く約束の証、奥に映りこんだ揃いのマグカップまですべてが等しく鮮明に写る。全てに光満ちて、この先の幸福を示すように。
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