恋風番外編 短編
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一緒に写真を撮りたい。突然、真剣な顔をした彼女がそう呟いた。
サッカー部の練習が終わったあとのことだった。部活動をしていた生徒たちの声も今はすでに遠い。人気のなくなったサッカー部の部室の中、沈黙した空気に揺れる花織の声が響いた。
窓から落ちた日差しの残光が影を溶かしていた。闇と曖昧になりつつある影から視線を外し、椅子に掛け、汚れた練習着を畳んでいた風丸は不思議そうな表情を浮かべる。
「どうしたんだ、急に改まって」
写真を撮りたい、という花織の言葉は今までの会話からあまりにも脈略がなかった。さっきまで話してたのは今日の練習の話と、給食についてたムースが美味しかったとかそういうもので。写真にまつわる事は一切なかったはずだった。風丸が意図を探るようにして花織の顔を覗き込むと、彼女はそっと目を伏せる。
「特別な理由はないの。……ただ」
「ただ?」
日差しの名残が闇色の瞳に水面のように揺れた。きらめきはそのまま彼女の瞳の中に溶けて消えた。
花織は何か重大な決意を秘めている。彼女の顔を見つめ、風丸が感じたのはそれだった。躊躇い、言葉を詰まらせながら。濡れた桜色の唇が小さく息を吐く。そして、まるで内緒話のように密やかな声が言葉を続けた。
「……一郎太くんと一緒に撮った写真が欲しくて」
囁き声と共に花織の手に力が籠る。その華奢な手の中では、縋るように携帯電話を握り締めていた。薄桃色に色づいた頬を恥じらい隠しつつ、花織は視線を落とす。
「……あ、えと……。写真、か」
風丸は一瞬呆然として、彼女の可愛らしいお願いをぽつりと反芻させた。言われてみれば……、花織と一緒に写真を撮ったことは一度もない。
サッカー部関連の事柄で、学校の行事の中で。どこかしらで偶然、同じ枠の中に写ったことがあるかもしれない。帝国との練習試合のあとには新聞部の取材もあった。ただその時でさえ、ふたりで並んで撮影はしなかった。加えて、それは決してふたりの思い出のために取られたものではない。
ふたりで写真を撮るなんて、風丸は思いつきもしなかった。円堂たちと一緒にいて写真撮ろうぜ、なんて話になるのは遠足だとか運動会の時とかそういう特別なイベントの時に限る。何気ない、ありふれた日常の写真を撮る。中学生男子の、サッカーに青春を捧げている風丸にはどうもピンと来ない話だった。だが……。
……花織と一緒に撮った写真、か。
ただの写真じゃない。花織と一緒に撮る、その特別な写真の存在を考えるだけで風丸の心は密かに高揚する。だが膨れ上がる期待感に心をくすぐると同時に、暗い感情が針のように胸を刺した。
――――本当は未練を残すようなことをするべきじゃない。ダメだって分かってる。俺はいつか花織を諦める。花織の為に手を離す時がくるんだ。そうなったときに、写真なんて残ってたら俺は気持ちの整理がつけられる気がしない……。
「……嫌?」
黙り込んでいた風丸におずおずと遠慮がちに花織が問いかける。不安げな花織の表情には風丸が嫌がっているかもしれない、という恐れがあった。それを瞳に映した時には、風丸はすでに首を横に振って立ち上がっていた。
「まさか。そんなわけないだろ」
曲げられない感情が、ほんの少しだけ湧いた躊躇いを簡単に喉の奥に押し込んだ。
いつか自分が苦しむかもしれない。薄々理解していながら風丸は迷わなかった。お前の願いを断るわけがない。この先の俺の気持ちのことなんて、花織の気持ちを傷つけてまで断る理由にはとてもならない。ポンと、風丸は花織の背中を軽快に叩いて微笑みかける。
「撮ろうぜ。……えっと、誰か撮ってくれるやつ探すか?」
ふたりで写真の写るのなら誰か撮影してくれる人間を探さなくてはならないか。そう考えた風丸はちら、と外の方を見る。群青と橙色が混ざり合った空、窓の外は日がすでに落ちかけていた。
外の喧騒も聞こえない。サッカー部の人間はほとんどのものが帰っただろう。それでも他の部活の人間であれば、まだその辺に残っている奴がいるかもしれない。そうじゃなくても陸上部の奴らとか知ってる人間がいれば……。風丸がそう思って部室の外に視線を向けようとすると花織が待って、と風丸の手を握った。
「私の携帯、インカメついてるからこれで」
「? ああ……、分かった」
一瞬、風丸は花織の返答に戸惑った。花織の意図が分からなかったが口を挟まずに花織の姿を見守る。
パチン、と音を立てて部室の電気が灯ると室内が夕闇を払った。ふたり肩を寄せ合って花織が手元で操作する携帯を覗き込む。カメラの設定をいじると、ふたりの靴を映していた携帯の画面が切り替わって、パッと花織の顔が浮かび上がった。そこまで答えが出てようやく、風丸は花織がテレビ電話などで使用するカメラで写真を撮りたいと言っていることを理解した。
……テレビ電話で使うカメラだな。ああ、そういえば、たまに女子が集まって携帯を覗き込んでる時があったな。写真撮ってるらしいってのは知ってたが……。ぼんやりとそんなことを考えていると花織は携帯を高く掲げて画面を覗き込む。
「一郎太くん、入って」
言われるがまま、風丸は少しだけ背を屈めて携帯の画面を見上げるようにした。それにしても画面が狭い。自分の携帯で何かを撮影したり、カメラのレンズを覗き込むのとはわけが違う。何も考えずに並んで入ってみると、彼は顔半分しか映りこんでいなかった。
「結構寄らなきゃダメだな……」
ちゃんと画面に収まらないと話にならない。そう思って風丸は花織の腰に手を回して、彼女の身体をさりげなく抱き寄せる。身体をぴったりとくっつけてみるとようやく何とか顔だけは収まりそうだ。だが、それでも油断するとどちらかが見切れてしまう。そのせいで花織は中々上手くシャッターを切れないようだ。
「……ん」
次第に彼女の腕がプルプルと震え出したせいで、余計に上手く画面に収まれない。もう一分と言わず腕を上げたままだからだろう。花織が腕が疲れてきたらしいのは明らかだった。
「腕、下ろしちゃダメなのか?」
「この方が可愛く撮れるって聞いたから……」
「へぇ……?」
解説に対し、イマイチ理解を示したと言い難い返事を風丸はこぼす。だがその間も花織は必死に細い腕でカメラを掲げていた。彼女の頑固さは風丸も知っている。こうしたいと決めたら彼女はそれを譲らない。だが、花織が位置取りに苦戦すればするほどカメラの焦点は定まらない。風丸は、最高の一枚を取ることに必死になっている花織を見つめた。眉間に皺を寄せて、おおよそ今から写真を撮るにふさわしいとは言えない顔をしている花織。……その姿さえ、好きで仕方ないと思った。
「手、疲れたんじゃないか?」
言葉よりも先に思わず手が伸びてしまって、風丸は花織の手の上から携帯を握りしめる。彼女の手に、自分の手を覆い被せて支えると互いの手の大きさの違いが際立って見えた。どきっと心臓が大きく音を立てる。自分の手の中に花織の手はすっぽりと握りこめてしまう。
――――いつも、繋いでるはずなのにな。
小柄な花織の手が小さいことなんて、とっくの昔に、付き合いだした頃から知ってるはずだった。今更、当たり前のこと……。それなのにこうして、まじまじと目の前に突きつけられると腹の辺りがじわりと疼く。
細い腰を寄せた手を滑らせて彼女の腹部から抱きなおす。腕の中にこうして閉じ込めてしまえるくらい、花織はこんなに小さくて柔らかい……。改めてそんなことを考える妙な冷静さが風丸を支配している。不思議な感覚だった。普段から、花織を抱きしめる時は感情が渦巻いて余裕などない。常に落ち着きとは程遠いところにあった。
「ありがとう一郎太くん。ね、もっと顔寄せて……?」
「あ、ああ……」
全てが触れ合ってしまいそうな距離で花織の声が鼓膜を揺らした。身体をピッタリと添わせて、小さな枠に収まるために顔も寄せる。ふたりの距離は画面の中に誤魔化しもなく映し出されていた。隠し事ができないほど密着している。そう思うと風丸は次第に冷静さを欠き始めていた。
無意識のうちに呼吸までもが同期する。風丸はじっとカメラを凝視して唾を何度も飲み込んだ。数センチ顔を動かすだけで、花織の髪に顔を埋めてしまいそうになる。彼女が身じろぎして、揺らした空気が鼻先を掠めると仄かに甘い香りがした。
「……」
締め上げられる喉が声を漏らしそうになる。今や風丸は抑えられない動悸に見舞われていた。全身が心臓になったみたいに拍動して、まだ疲れてもいないのに手が震え始める。走っている時の何倍も身体が熱くて仕方がない。焦りに似た感情が表情を崩そうと風丸を突きまわしていた。
花織にこうしてくっつくのも、抱き寄せるのも初めてなんかじゃない。それなのに心臓が落ち着かないなんて。……だが。
「……」
音のない部室。いつもは騒がしくて仲間たちの笑い声が響くのに、今あるのはお互いの呼吸だけだ。その静まり返った空間の中で密着した花織の背中越しに、握りこんだ小さな手の甲に。はっきりとした彼女の鼓動を感じる。触れ合う温みが風丸の瞳を揺らす。カメラから逸れた視線が赤く色づいた花織の頬に落ちた。
ピッチを駆ける時の、鋭く高鳴る心臓の音……。花織も俺と同じ。混ざり合って分からなくなるくらい彼女の心臓も高鳴っていることに風丸は気が付いた。同じ気持ちが揃ってここにある。その事実が熱風のように風丸の心を焼きつける。堪らない気持ちが胸の奥から溢れ出した。
「一郎太くん、カメラ見て?」
――――お前のことが好きだよ。
「……ああ」
いつも花織のことになると俺は俺を制御できない。やっとの思いでカメラのレンズを見上げる。画面の中に写った花織は、今この瞬間は俺だけを見ていた。
「すまない」
目頭が、顔が熱い。花織、花織。何度も名前を呼んで、もっと強く抱きしめたい。そんな衝動が暴れ出さないように息を堪える。何も口から余計なものが零れださないように。
このまま、ずっと一緒にいさせてほしい。そんなワガママが口を突いて出ないようにしっかりと花織の手を携帯ごと握り締めて支える。鼻を啜る音はシャッター音に掻き消された。
❀
「ありがとう、時間かかっちゃってごめんね」
あまり慣れてないの、と笑う花織の手元には、健闘の果てに撮った写真が映し出されている。風丸は形容しがたい気分で花織の携帯の画面をちらりと見た。
お世辞にも画質がいいとはいえない、風丸と花織だけが映った写真。ちょっと緊張したふうにはにかむ花織と、顔を真っ赤にして上手く笑えてない風丸の姿が画面の中には写っていた。
「ふふ、一郎太くん緊張してたの? 顔、真っ赤」
写真をじっと見つめて花織がくすくすと笑う。時間を掛けて数枚写真は撮影した。その中で風丸が一番ましな顔しているのがこれだったのだ。
もうこれ以上はどうにもならない、諦観から風丸は花織の指摘通りの酷い有様に笑うしかなかった。花織が可愛く写っているならそれでいいか……。あんなに頑張ったのにこんな顔しか作れなかったのは情けないと思いながら、風丸は何度もそう自分に言い聞かせる。
「……いい写真。私、待ち受けにするね」
「え、あ……、ああ……」
しかし納得のできていない風丸とは違い、花織はその写真に大満足なようだった。撮り終わってからずっと写真と風丸を交互に見ては幸せそうに笑う。そんな彼女に嫌とは言えない。
「……」
気恥ずかしくなって風丸は頬を掻く。待ち受け画面にしていたら、そう遠くないうちにきっとチームの仲間たちにもその事実が知れ渡る。からかわれたり、呆れられるかもしれない……。そう思いながらも風丸はやめてほしいという気分には一切ならなかった。花織が、自分との何かを記念に残そうとしてくれた、その事実だけがただ嬉しくて仕方がないと思った。
「あの、さ……写真、俺にも送ってくれ」
待ち受けに設定したあと、まだ携帯の画面を指でなぞっていた花織に囁く。
「うん、もちろん。あ、一郎太くんも待ち受けにしてくれる?」
「……そう、だな。俺も待ち受けにする」
風丸がそういうと花織は驚きつつも嬉しそうに瞳をきらめかせた。
取り出した風丸の携帯と花織の携帯、お互いにそれぞれを近づける”受信中”と表示された画面が切り替わると、彼女の携帯で撮った写真がそのまま風丸の携帯にも映し出された。それを見て風丸は少しだけ眉根を寄せる。
やっぱりだらしない顔してるな、俺は……。照れくさくて仕方がない、だがそれ以上に携帯を操作する風丸の胸には。”今”の幸せな気持ちが胸に満ちていた。
「……花織」
鍵マークの浮かび上がった写真を、消すことのできない気持ちごと折りたたんでポケットにしまう。未だに携帯の画面を嬉しそうに眺めている花織を見ていると、彼の中にはまた勝手な気持ちがこみ上げてきた。
今は残せても未来は違う。痛いほど理解している事実と共に、伸ばした腕で彼女の身体を強く強く抱きしめる。さっきと同じ距離と体温の中で、風丸はレンズに顔が映らないように花織の肩に顔を埋めた。
――――また、一緒に……。
「……やっぱり何でもない」
畳んで隠したはずの祈りが、静寂の中に零れ落ちた。