二月十四日、バレンタインデー。聖バレンタインデーは世界各地でカップルの愛の誓いの日とされる。日本では女性から男性にチョコレートを渡し、愛を告げるのが一般的だ。きっと今日を迎えたカップルは一日良き日を過ごしていることだろう。
　
　だが、[#dn=2#][#dn=1#]は違った。いつもなら強い光を宿す黒の瞳に、憂いを浮かべて彼女は瞳を閉じる。部活が終わって静まり返った部室に一人残り、ぼんやりと待ち人を待つ。そして膝元に置いた青い包装紙でラッピングされた贈り物、すなわちチョコレートを見つめていた。

　今日一番で渡すはずだったそれは、放課後になった今も[#dn=1#]の手の中に佇んでいる。無論それは、彼女の恋人である風丸へのものだ。
　
　渡したい、でも渡せなくて。[#dn=1#]は何度も開きかけた口を閉ざした。朝から先輩後輩同学年問わず、彼は色んな女の子に呼び出されてたくさんチョコを受け取っていた。一体あれで何ヶ月分？　あんなに受けとっているなら、私のチョコなんて要らないかもしれない。……そんな考えが頭をよぎった。

　考え出すといよいよ渡せなくなってしまって、チョコレートなんて持ってきていないふりをして今までの時間を過ごしてきた。もちろんマネージャーとしての義理チョコは練習の時に配った。でも一番渡したいはずの、本命のチョコレートだけが今でも渡せずにいる。
　
　そういえば、今日は一郎太くんとそもそもあんまり話してない……。

　[#dn=1#]はチョコレートの箱をギュッと握って俯く。今日の彼は呼び出されてばっかりでろくに話もできるような状態じゃなかった。
　
　もういいや、チョコレートなんて。一応、義理チョコは渡せたんだから。黒い瞳に諦めが映り込む。ため息と共に、[#dn=1#]が箱に掛けられたリボンを解こうとしたそのときだった。
　
「ひとりでどうした、[#dn=1#]」
「……っ、鬼道さん」
　
　誰も居なかったはずの部室に声が聞こえて振り返る。声のした場所には、穏やかに笑みを浮かべた鬼道が立っていた。[#dn=1#]は驚きに僅かに目を見開く。彼が自分の方へ歩いてくるのを見つつ、[#dn=1#]は視線を逸らして顔を伏せた。
　
「な、なんでもありません。そろそろ帰ろうかと……」
「風丸はどうした？」
　
　ギュッと[#dn=1#]が唇を噛む。今、風丸はテニス部の女の子に呼び出されていていない。それを待っているから[#dn=1#]はここにいたのだ。行かないでとは言いきれず、待っているねとぎこちなく笑うことしかできなかった。
　
「……」
　
　口を噤む[#dn=1#]の隣に鬼道は腰を下ろす。俯いた[#dn=1#]を見つめ、彼はそっとチョコレートの箱を抱えた[#dn=1#]の手に触れる。
　
「それは風丸へのチョコだろう……、渡せていないのか」
「ち、違いますよ！　……これはその、鬼道さんと一緒に食べようと思って」
「ふ、俺が来るなんて予想もしていなかったのにか？」
　
　咄嗟についた[#dn=1#]の苦しい言い訳をいとも簡単に見透かす。
　
「お前の気持ちも分かる。朝からあの調子ではな……」
　
　同情的に鬼道は[#dn=1#]に微笑んだ。ゴーグルの奥から、鬼道の眼差しは[#dn=1#]の真意をつく。だから[#dn=1#]は鬼道に隠し事が出来ないのだ。鬼道の言葉から察するに、[#dn=1#]がなぜ渡せないのかもお見通しのようだった。[#dn=1#]は何も言えなくなってしまって黙り込む。
　
「[#dn=1#]」
　
　鬼道の[#dn=1#]を呼ぶ声がする。ちらと彼を見上げると目を閉じて口を開けろ、と鬼道が[#dn=1#]に言った。
　
「……」
　
　[#dn=1#]は何故とも問わず、鬼道に言われるがままに目を閉じて口を開ける。ごそごそと紙を開くような音、そして鬼道の呼吸が一瞬リズムを崩す。それを感知した瞬間、ぽんと、[#dn=1#]の口の中に何かが放り込まれた。瞬きの間に味が広がる。
　
「んっ。ひとぅはん……」
　
　鬼道さん、と彼の名をもごもごしながら呼ぶ。ほんのりとろける甘い味。チョコレートだ。[#dn=1#]が大きく目を見開くと、鬼道は優しく笑んで[#dn=1#]のことを見つめていた。
　
「美味いか？」
「……んん。はい、とても美味しかったです」
「それはよかった。俺の手作りだからな」
　
　満足気な鬼道の言葉にえっ、と[#dn=1#]の表情が固まる。手作り？　鬼道さんの？　頭の中で疑問符がワァッと湧き出てくる。分かるのは自分の頬が熱くなることだけ。
　
「逆チョコというのか。渡したかった。[#dn=1#]、お前にな。今日一日どうやって渡せばいいのか考えていた」
「鬼道さん……」
「[#dn=1#]」
　
　出会った時から変わらぬ想いが声に、指先に。何よりゴーグル越しにも隠しきれない瞳に滲む｡鬼道が[#dn=1#]の肩を抱き寄せた。寄せられた唇が微かに震え、そっと[#dn=1#]の耳に囁きかける。
　
「風丸の恋人はお前だ。そのお前が、なぜこんな所で尻込みしているんだ？　遠慮なんかするな」
「……」
「……渡してこい。誰が隣に立つにふさわしいか風丸自信に判らせろ」
「……でも」
　
　あんなに沢山のチョコレートを貰っていたのだ。風丸にとって自分の贈り物が押しつけにならないか。風丸は間違いなく[#dn=1#]のチョコレートを喜ぶだろう。そうだとしてもあの圧倒的な物量に埋もれるのも嫌なのだ。
　
　[#dn=1#]の瞳にかすかな不安と複雑な感情がよぎる。しかし、鬼道はそれもすべて分かっているかのように不敵に微笑んだ。
　
「もしも風丸がお前の期待に応えられないなら……。その時は俺のところに来い。お前の力作を一緒に食べよう。二人で」
「鬼道さん……」
　
　励ましの言葉と共に鬼道は痛みを堪えて微笑む。
　
「もっとも、俺の出る幕はないと思うがな」
　
　＊＊＊
　
　鬼道に勇気づけられて[#dn=1#]は風丸を探して部室を飛び出した。テニスコートの隅に、間違えるはずもない青髪の彼の姿をとらえる。数人の女の子に囲まれてチョコレートを両手に抱えて。やっぱり自分の割りいる余地なんてないんじゃないか。そんな臆病さが顔をのぞかせる。ーーーーけれど。
　
　[#dn=1#]は口の中に残る甘い感覚を思い出す。
　
　鬼道さんが背中を押してくれたから、それに一郎太くんは私の彼なのだから。どうして私が他の女の子に遠慮して彼への気持ちを押し込めないといけないの。
　
　意を決して[#dn=1#]はずんずんと風丸の元へと進む。包装を解いた箱の中からチョコレートを取り出して口に含んだ。
　
「あっ、[#dn=1#]!!」
　
　女の子たちに囲まれ、困り顔だった風丸が[#dn=1#]を見つけて安堵を浮かべた。[#dn=1#]は一言も発さずに、女の子たちの間を避け、[#dn=1#]のほうへと踏み出そうとする風丸のそばへ寄る。そして、有無を言わさず彼の首に抱きつきキスをした。風丸の瞳が驚愕に大きく見開く。
　
　きゃあ！　と黄色い悲鳴が上がる中で、[#dn=1#]は口に含んだチョコレートを風丸の口に押しやった。ドサドサっと風丸の手の中にあったチョコレートが零れて落ちていく。
　
　ーーーー傲慢だってわかってる。こんな場所で、自分の気持ちを押し付けてるだけだって。余裕なさすぎだよね。それでも、一郎太くんの一番は私じゃないと嫌なの。
　
　チョコレートの味が薄れるころに、彼の手が[#dn=1#]の背中に添えられた。甘い余韻が残る中、離れたお互いの唇が震える。[#dn=1#]はそっと、風丸の頬に指を滑らせる。一瞬前髪を押し上げたいと思ったが、他の誰にも彼の左目を見せたくないと自身が制する。
　
「……チョコレート、一郎太くんのために作ったの。だから」
　
　よそ見なんてしないで欲しい。見つめ返す彼の目が、ほかの誰も見えないように顔を近づけ[#dn=1#]は囁いた。
　
「そろそろ帰ろ？　一郎太くん」