恋風番外編 短編
運動日和の秋空の下、涼しい風がグラウンドを抜ける。沸き立つ歓声が会場全体の熱を押し上げて、クールダウンしたばかりの彼の身体に再び熱を灯す。
汗が引き始めた身体を冷やさないようにと体操着の上にジャージを羽織りながら、風丸一郎太は応援席からグラウンドを眺めていた。
石灰で引かれたトラックに沿って立ち並ぶテントには人、人、人……。皆、次の競技の始まりを今か今かと待ちわびている。今日は雷門中学の体育祭、彼のスピードの独壇場だ。
ざり、と靴裏を地面に擦りながら風丸はさっきの走りを思い返す。今日は調子がすこぶる良い。男子百メートルでの彼の走りはぶっちぎりで、風を纏った圧倒的なスピードで他の選手を置き去りにした。
陸上部時代にすでに全国レベルだった彼だ。サッカーで世界を相手にしてきた足となれば、地元中学で彼に勝る人間なんていないに等しい。自身の長所を余すことなく発揮できる環境を楽しみながら、風丸は走りの余韻に身を浸す。
生徒たちのざわついた声を聞きながら、今は小休止といったところだ。昼の部がスタートしたばかりだが体育祭の熱気は衰えを知らない。風丸は涼しい秋風が髪を揺らすのを感じながら目を伏せる。
彼の出場競技は残すところ男女選抜リレーと騎馬戦くらいのものだ。そのため、出番までは観戦に勤しむつもりだった。
「やっほー風丸、さすがの活躍っぷりだね」
だが、静かにとはいかない。
穏やかな競技前の沈黙を破ったのはマックスと半田だった。風丸とはクラスが違うから本来彼らの席はここではないはずだが……、どうやらテントからこちらへ遊びに来たらしい。彼らは遠慮なんか知らずにテントに踏み込み、風丸の近くの空席に腰を下ろす。
「まったく、一人でどれだけ得点稼ぐんだか」
「体育祭って足速い奴有利だよな」
皮肉交じりだが、彼らは口々に風丸の活躍を称える。素直じゃない褒め言葉に風丸は微笑み、肩を竦めた。
「俺ばっかりってわけじゃないだろ。他の奴らだって点を稼いでるし」
実際、色んな人間が活躍できるのが体育祭の場だ。円堂は午前の棒引きで圧倒的なパワーを見せたし、壁山なんて色んな競技で引く手あまただ。
……とはいえ、やはり単純に走競技は華々しく目を引くのも事実。他の奴ら、と言っておきながら、彼の脳裏には美しい黒髪の少女が思い浮かぶ。思わず風丸が表情を緩ませるとそれを見たマックスがやれやれと首を振った。
「ハイハイ、[#dn=1#]でしょ。キミの大事なカノジョの」
「さすがっていうか……、すごく目立ってたよな」
風丸の思考を読むまでもないとマックスがその名を上げ、半田はその人物の活躍を思い返した様子で頷いた。
彼らの言うように、風丸の恋人[#dn=2#][#dn=1#]のこの体育祭での活躍は目を見張るものがあった。彼女も風丸と同じ、元陸上部で圧倒的なスピードを持っている。今日の走競技での彼女の戦績は風丸と同じく負けなしどころか、彼女のオンステージもいいところだ。
それもそのはず、風丸の場合は世界で共に戦ったサッカー部の人間がライバルとして立ちはだかることもある。だが、女子で彼女のスピードに追い付ける生徒はこの学校にいないに等しい。
スプリンターとしての第一線を退いたとはいえ、並々ならぬ自主練習を重ねて走力を保とうとする彼女と同等のスピードを出そうというのなら。
それこそ全国区からトップレベルの選手を引っ張ってこなくてはいけない。しかし目を引くのは速さだけでは無い。
「……それに、綺麗だった。やっぱり」
含みのある半田の言葉にちら、と風丸は視線を寄せる。半田が俯き気味に逸らした視線が気にならない訳では無いが……、何を言うつもりもない。
半田の発言が指し示すものこそが、彼女の走りが目を引く最たる理由だ。
[#dn=1#]の走る姿の美しさは随一だった。それはもう、手が付けられないほどに。出会った時、一瞬で目を奪われた研ぎ澄まされたフォーム。風丸自身が[#dn=1#]に興味を惹かれたきっかけでもある。
ポニーテールにした艷めく濡羽色の髪をなびかせ、優美にそしてしなやかに。何よりも楽しそうにグラウンドを駆け抜ける姿は他の誰をも寄せ付けない。彼女の走りは隣を走ってきた風丸が誰よりも理解している。そして、そんな彼女の姿をずっと風丸は心から誇らしく感じていた。
「……ていうか、[#dn=1#]凄いね」
マックスがいつになく素直にさらっと彼女を褒めたたえた。人が集まり始めているグラウンドへの入場門の方をぼんやりと眺めながらマックスが呟く。
「ああ、そうだろ」
[#dn=1#]の実力が賞賛されること自体には風丸は悪い気はしない。[#dn=1#]の努力の結晶、彼女の走りが認められているのは喜ばしいことだ。風丸は目を細めながら頷く。
次は応援合戦だと、放送部の部員が繰り返す。マイクを通したガサついたアナウンスに負けないよう、声を張って風丸はマックスの言葉を力強く肯定しようとした。
「凄いんだよ、[#dn=1#]は」
しかし風丸の言葉を聞くなり、マックスはあからさまに懐疑的な顔をした。
風丸はマックスの浮かべた表情に違和感を抱く。だが彼が何を言いたいのかは釈然としない。風丸はマックスの言葉に首を傾げた。
いよいよ応援合戦が始まるらしく、ドンドンと場内に太鼓の音が響き始めた。その音を聞いて風丸はまた彼女のことを思い返す。……ああそういえば。[#dn=1#]が出るはずだよな、応援合戦。昨日の帰りに頑張るから見ててって言ってて……。
「……ねぇ風丸、ボクの言いたいことちゃんと伝わってる?」
太鼓の音が段々と腹に響いて重みを増していく。マックスの声が激しさを増す太鼓の音に掻き消されてよく聞こえない。
「え?」
顔をしかめながら風丸はなんだ、と彼に問い返した。マックスは風丸のほうに身を乗り出して、ビシッとグラウンドの方を指さす。そして珍しく声を張り上げた。
「だからぁ、よく許したねって話なんだけど」
なんのことだ、とそう言いながらも風丸はマックスの指先に視線を向ける。彼の指を辿ると応援合戦の幕開けと共に入場してきた生徒の列が目に入る。
そこでようやく、風丸はマックスが何を言いたかったのか、その意味を理解した。
グラウンドの中に走り出た応援団の有志の中で一際目を引く。その艶めく黒髪の持ち主が誰なのかは一目瞭然だった。
ドン、と太鼓の音に共鳴して心臓の音が激しく打たれる。
見間違えるはずもない。それは[#dn=1#]の姿だった。白ベースのチアリーディングウェアを身にまとった彼女がグラウンドに立っている。風丸は彼女の姿を捉え、目に見えて狼狽えた。
「……っ」
――――ちょっと待て、聞いてないぞ。
風丸がまず初めに思ったことはそれだった。
確かに応援合戦に出場するという話は前々から聞いていたし、放課後の居残り練習が終わるのをそれこそ練習を見ながら待っていたことだってある。だが、全部体操着姿でやっていたはずだ。本番でこんな衣装を着るなんて一言も[#dn=1#]は言っていなかった。
「……」
手の中がじっとりと汗をかく。似合っていないわけじゃない。むしろ衣装が似合いすぎているのが問題だった。
すらりと伸びた白い手足は惜しげもなく晒されている。[#dn=1#]が跳ねまわるたびにスカートが捲れ上がるどころか、丈の短いウェアから白い腹がちらりと覗く。胸は……、どうやら抑えてあるらしかったが……。
それを差し引いてもまばゆい笑顔を振りまき、快活に踊る[#dn=1#]は人の心を鷲掴みにするには十分すぎた。
「……[#dn=2#]、可愛くね……?」
「やべぇな、足とかスラッとしてて……」
膝の上で握った拳を、風丸は行き場のない思いと共に握りしめる。どこからともなく聞こえた男子生徒の声に忌々しさが沸き上がってくるのを抑えられない。
可愛いさ、誰よりも衣装が似合ってる。それに演技には努力の成果がしっかり出ていた。
何より笑顔の放つきらめきが眩しすぎる。[#dn=1#]が今楽しんでるんだということが、ここから見ていてもありありと伝わってくる。
手先、足先まで洗練された彼女の動きは、彼女の練習の賜物だ。[#dn=1#]の演技は人に見てもらう価値がある。そこまで分かっているはずなのに……。
さっきのように彼女の走りを褒められた時には感じなかった不快感がこみ上げてくる。[#dn=1#]のすらりとした足がしなやかに舞う、黒髪の靡きが艶やかに[#dn=1#]を飾る。両手に持った桃色のポンポンがわざとらしい健全さをアピールしていた。胸の中でぞわぞわとした感覚が風丸を煽る。
……綺麗なのは分かってる。だがこんな姿を他の奴らにも見せるなんて。
「……風丸、知らなかったのか」
「仕方がないねえ、風丸も」
ホイッスルと太鼓の音が相乗効果を生んで風丸の中のドロドロとした感情が膨れ上がっていく。深く眉間に皺を刻んだ風丸の顔に呆れかえった様子で半田とマックスが呟いた。しかし風丸の視線は、ただただ目の前で艶やかに舞い踊る恋人に注がれて逸らされることはなかった。
***
競技が終わってすぐ、風丸はグラウンドから退場してきた[#dn=1#]の姿を捕まえた。[#dn=1#]は冬花と何やら談笑していた様子だったが、風丸の姿を見るなり表情を綻ばせた。
「あっ、一郎太くん! 見ててくれた?」
屈託なく[#dn=1#]は弾ける笑顔を風丸に向けたが、彼はそれに答えることができなかった。
「あっ、あの人……!」
「さっき凄かったよな」
明らかに[#dn=1#]に向けられたと分かる声に黒々とした感情が増幅する。この人混みの中でも彼女の姿に目を向ける奴がいる……。そう思うと風丸の心は波立つ、[#dn=1#]に向けられた視線は彼から徐々に余裕を奪った。
「一郎太くん……、どうしたの?」
何も言わずに黙り込む風丸のただならぬ様子みてか、心配そうに[#dn=1#]が風丸の顔を覗きこむ。そっと風丸の腕に触れた手は、風丸が何か腹にためていることを察しているようだった。やはり彼女に隠し事はできない。
「……[#dn=1#]」
来てくれ、と風丸は短くそう言って[#dn=1#]の腕を掴んで引く。とにかく人の目のない場所に行きたい。そして半ば強引に人混みを分け、風丸は[#dn=1#]を連れて歩き出す。彼女の手を一方的に掴んだままだった。
校舎の中に入ると一気に喧騒が和らいだ。パタパタと揃わないふたりの足音だけが廊下に響く。とにかく奥へ奥へ、風丸はその一心で[#dn=1#]の手を離さずに階段を駆け上がった。
グラウンドから離れ、風丸が[#dn=1#]を連れ込んだのは教室だった。今日は体育祭で生徒は揃って外に出ている。よっぽどの事がなければ誰も教室へは誰も上がってこない。少なくとも[#dn=1#]を人目から遠ざけられる。そんな浅はかな考えが彼を衝動的にここへと向かわせた。
[#dn=1#]を教室へ押し込み、ぴしゃりと扉を閉める。扉に掛けられた彼の手は微かに震えていた。静まり返った空気の中にはふたりの呼吸だけが微かに響いている。
…………こんな感情に、前にもなったことがある。
アレはキャラバンでの旅のときだったか。いや、それともFFIの本戦の最中だったか……。正直思い当たることが多すぎて適切な例を挙げることができない。風丸はゆっくりと振り返って[#dn=1#]の姿を見つめた。
先ほどグラウンドで見た時と同じ格好、だが少し違って見えるのは陽の光のもとにいないということだろうか。[#dn=1#]の首筋に浮かんだ汗が、蛍光灯のシラケた灯りのせいでなまめかしく光沢を放つ。惜しげもなく晒された手足も、さっき見たときほど健全には見えなかった。
「一郎太くん……?」
「聞いてないぞ、そんな格好するなんて」
掠れた、嫉妬深い男の声がした。不貞腐れたような声だと自分でも風丸はそう思った。不服さをこれでもかと滲ませてしまった声と共に、彼は眉間に皺を寄せる。
だけど我慢ならない。お前がそんな格好をして他の奴らの前に立っていたことが。
「えぇ……?」
厳しい風丸の声に[#dn=1#]は少し困惑した様子だった。しかし彼の言葉の意図を汲み取ってか、くすくすと表情を和らげて笑い始める。肩を揺らすたびに[#dn=1#]の黒髪が揺れて、汗に濡れた白い肌に張り付いた。
恐ろしく扇情的な光景に、ぞくっとした感覚と共に深いところから何かが混みあげようとする。しかしそれを彼女は気にも留めていない。
彼女は風丸の苦悩をあまり深くは理解していないように見えた。女子には分からないことなのか。[#dn=1#]は清廉に微笑んで風丸を見つめる。
「陸上競技用のウェアの方がお腹も足も出てるのに」
「……っ、そういう問題じゃない!」
少し強い言葉で風丸が[#dn=1#]の言葉を押し留めた。風丸は[#dn=1#]のもとに歩み寄り、[#dn=1#]の肩に触れる。しっとりとした肌が指に吸い付く。白い足ももう少し踏み出せば触れてしまいそうだ。
触れたい、衝動が風丸の瞳に欲を映す。
このまま少し身体を寄せて、机に[#dn=1#]を組み伏したら……。[#dn=1#]は事の重大さを理解してくれるだろうか。[#dn=1#]に今すぐこの気持ちの重みを分からせたくなる。その姿がどんなに、男の劣情を煽っているかを。
「……違う」
走った訳でもないのに促迫になる呼吸と、勝手に膨れ上がり始める興奮を抑え込みたくて言葉を吐く。
澄み切った、無垢な[#dn=1#]の瞳を見つめてそっと彼女の額に張りついた髪を払い除けた。長い睫毛が瞬きとともに風丸を誘うように揺れて、彼は[#dn=1#]から視線を逸らして俯いた。
違う、と言ったのは何に対してか。風丸は自分でもよく分からなかった。初めは、陸上のウェアとチアリーディングのユニフォームを一緒にするなよ、と言いたかったつもりだったのかもしれない。
だが、よくよく考えてみると……、何も違わないと思った。陸上のウェアだって今の自分には耐えられないかもしれないと思った。
陸上競技用のウェアは空気抵抗を減らすために極限まで布面積が減らされている。腹は晒されていることが多いし、足の露出ももっときわどい。それでも一緒に陸上部で走っていたころは、一度だって気に留めたことがなかった。
[#dn=1#]が風丸と共にサッカー部へ来て、陸上のグラウンドを走らなくなってからもう一年も経つ。出会ったころとは関係性が随分変わった。時の流れは何も感じないままというわけにもいかなくさせた。
陸上競技用のウェアはそんな破廉恥な感情を抱かせるものじゃない。少しでも早く走るための試行錯誤の結果だと分かっていながら……。
それでも今、[#dn=1#]があの頃のようにウェアを着てタータンの上を歩くかと思うと……、風丸は複雑な気持ちにさせられた。今の自分は、素直に[#dn=1#]をグラウンドに送り出せないだろうと彼は確信した。
――――俺は。
俺は最低な奴なのかもしれない。こんな……、いやらしいことを考えるなんて。チアリーディングのウェアだって、他の奴らは俺みたいにこんな恥ずかしいことを想像しないのかもしれない。俺が、おかしいのか。
[#dn=1#]の走る姿が好きで、誇らしくて……、そう思っているのに。
自分の思考がどうしても下劣な妄想に結び付いてしまう。[#dn=1#]に触れて、暴いて……俺のものだと刻みたい。そんな欲望を、仮に思い浮かべるだけでも他の奴らが[#dn=1#]に向けると思うと許せない。いつから、こんな風になってしまったんだろう。
「……[#dn=1#]」
想像に耐えられなくなって風丸は[#dn=1#]を抱き寄せて腕の中に閉じ込めた。ゆっくりと彼女の身体を確かめ、呼吸を繰り返す。少しだけ汗の匂いがしたが気にはならなかった。それよりもいつも[#dn=1#]が身にまとっている甘い香りのほうが強く感じられた。普段と同じ彼女の匂いが風丸の心をなだめる。
「やだ、私汗かいてるのに……」
腕の中で[#dn=1#]が慌てた声を上げたが、風丸は腕は緩めなかった。それどころか[#dn=1#]を抱き寄せる手を一層強めながら、[#dn=1#]の首筋に顔を埋める。
「[#dn=1#]」
何も見てはいけないと思った。これ以上[#dn=1#]を見ていると、自分の中に抑え込んでいた箍が外れてしまうと直感していた。
ずっと前から抑え込んでいる気持ちだ、本当に[#dn=1#]がこの手の中にほしいっていう気持ち。いつも奥の方で疼き続けて、勢いに任せて飛び出そうになることがある。
だけど、そんな衝動に[#dn=1#]が本当に好きだっていう気持ちを歪められたくないと思った。
「……[#dn=1#]」
切実な声で[#dn=1#]を呼ぶ。彼女はもう、彼の腕から逃れようとはしていなかった。
「うん」
穏やかで優しい声で問いかけながら、[#dn=1#]が風丸の背中に手を回す。熱を持った手が触れたところがじんわりとした温かさを滲ませる。[#dn=1#]の体温を感じながら、風丸は消え入りそうな声で気持ちを吐き出す。
「俺、走ってるところだけじゃなくて、[#dn=1#]が跳んだり跳ねたりしてさ……。楽しそうにしてるところを見るのが好きだよ」
嘘じゃないんだ、ああやって[#dn=1#]が明るく笑ってるのを見ると嬉しい。[#dn=1#]が楽しそうにしている姿が好きだ。
だけどそれだけで片づけられない心が気が付けば俺の中で唸っている。さっきの、応援団での姿だって[#dn=1#]を好きになったばかりの頃の俺だったら。素直に可愛いって、良かったぞって言えたんだろうな。
だけど今は……、そんな純粋な目で見てやれない。
「[#dn=1#]のそういうところが誇らしくて……、そのくせ見られたくないって思うんだ。……どうかしてるよな」
もっと自分が上手く気持ちを制御できたら、こんな気持ちにならなくて済むのか。風丸は苦々しい思いで息を吐く。
余裕を持たなきゃだめだっていうことは分かっている。嫉妬がどういう結果を生むのかも。過去の経験から痛いほど知っている。しかしどうしてもないものにはしていられない。
この気持ちは抑えても、伝えても。[#dn=1#]が好きで仕方ないからこそどこからともなく生まれてくる。
「……一郎太くん」
[#dn=1#]の声がした。さっきよりも深く、甘さを含んだ声だった。[#dn=1#]の手がそっと背中を撫でているのを風丸は感じる。[#dn=1#]が触れたところから、温かさがゆっくりと全身に広がっていく。
「私は、そういう一郎太くんの気持ちが嬉しいよ」
どこまでも風丸の心を受け入れる声だった。風丸は目を伏せ、[#dn=1#]の存在を深く呼吸と共に感じる。……清涼で、どことなく甘い。彼は[#dn=1#]を抱き寄せたまま静かに目を伏せた。
[#dn=1#]の囁くこの言葉は心からのものだ。決して俺に気を遣っているわけじゃないことを俺は知っている。
「……ああ」
好きになった理由を数えるときりがない。だけど肌に感じる[#dn=1#]の温もりも、匂いも。触れてくる優しさも全部好きだ。それだけは衝動とは関係なく愛しいものだと思っている。こうして体温を感じるだけでも幸せを感じられる。
「次の競技は二年生による綱引きですー………」
午後の柔らかな日差しがふたりの影を伸ばす。遠く、グラウンドの方からアナウンスの声が聞こえた。綱引きの選手を招集する声。プログラムのことを考えると、そろそろグラウンド戻らなくては風丸も[#dn=1#]も出場競技に差し支える。[#dn=1#]に至ってはチアリーディングウェアから体操着に着替える時間も必要だった。
「戻らないとな……」
名残惜しいとばかりにゆっくりと風丸が[#dn=1#]の身体を解放する。そして彼女の姿を再び目にして、風丸はまた少し眉根を寄せる。
「……」
この格好のまま……、やはり彼女を表に出したくない。しかもさっきはチアリーディングウェアを着ている他の生徒がいたからまだ[#dn=1#]への視線の集中は避けられていた。
だが、今グラウンドへ出たら[#dn=1#]が目立ってしまうのは避けられないだろう。やっとの事で押さえ込んだ気持ちがぶり返しそうになる。
「一郎太くん」
あからさまに嫌そうな顔をしてしまった風丸を見て[#dn=1#]が微笑む。
「上着貸してくれる?」
「上着……、ああ」
[#dn=1#]に求められるまま、風丸は自分が体操服の上に羽織っていたジャージを脱いで[#dn=1#]に手渡す。[#dn=1#]はそれを羽織り、ジャージの前をきっちりと閉めた。小柄な彼女の身体に風丸のジャージは少し大きくて、チアリーディングウェアのスカートが数センチしか見えなくなってしまっている。
「……!?」
風丸は[#dn=1#]の行動に動揺を隠せなかった。確かにチアリーディングウェアは目立たなくなったが、これはこれで……。ある意味さっきよりクラクラする姿だ。
なにより胸元には「風丸」と彼の名前が刺繍してある。いくら[#dn=1#]との関係が公のものだとはいえ……。ぎゅうと締め付けられる胸の痛みと共に風丸が顔を赤らめる。
揺さぶられっぱなしの風丸へ向け、[#dn=1#]は悪戯っぽく口元を緩めた。
「気づいてないかもしれないけど……。私だって一郎太くんと同じ気持ちなんだよ」
「……え?」
いったいそれはどういう意味だ?
そう問いかけようとする風丸の腕を引っ張り[#dn=1#]が笑う。それ以上風丸に言葉を追いかけさせないように、行こ、と強く手を握って彼女は黒髪を揺らす。
「選抜リレー楽しみだね。絶対に一番で一郎太くんにバトン渡すから」
誰よりも速く、出会った頃から変わらない熱意が瞳にきらめく。それを見ていると不思議と黒く覆っていた気持ちが澄んで晴れ渡っていく。
変わらないんだ、[#dn=1#]のこういうところが好きだっていうこと。
「……ああ、待ってる」
だから、[#dn=1#]の想いには走りで応えたい。[#dn=1#]の隣を走れるのは俺だけだから。
「お前から受け取ったバトンで俺が一番にゴールする。……約束するよ」
触れ合わせた指をどちらともなく絡めて指先から握り合わせる。視線を交わし、ふたりは足並みを揃えてグラウンドに向かって踏み出した。