恋風番外編 短編
アルコールは簡単に僕の気を大きくしていた。
いつもは、こんな風に歯止めが利かなくなったりしないんだけどな……。むしろいくら飲んでも平気なくらいで。そんな僕がいつになく酔ってしまっているのは、手の届く場所に君がいるせいかもしれない。
「ねぇ、[#dn=1#]さん」
ずっと前から好きだった人が僕の隣にいる。中学生の頃より綺麗になった君が。あの頃から君のことは素敵だと思っていたけどね、だけど大人になってからはますますそう思うよ。
黒檀みたいに艶やかな黒髪、そして同じ色の瞳。まっすぐで優しい眼差しが今は僕を見つめてくれている。お酒のせいで少し潤んだ目は魅惑的で、雪みたいに白い頬に差した赤もひどく僕を煽る。
表情だっていつもは凛としているのに今日はちょっとぽやっとしてて……。どこまでも可愛くて、そして無防備だ。
そんな君を見ていると何だか堪らない気持ちが込み上げる。そのせい、かな……。蓋をして宝物みたいに大事にしまっていた気持ちが、緩んだ口から零れ落ちた。
「風丸くんじゃなくて僕じゃダメかな」
さっきまで僕らなんて気にも留めてなかったみんなが僕の声に振り返った。けれど僕は周りなんか気にする気もなく君を見つめる。
今しかきっと、もうチャンスは無いから。そっと指輪のない君の左手に触れる。君の大切な人がこの場にいない今だけしか。
❀
今日は円堂キャプテンが主催した同窓会だった。雷門中とイナズマキャラバンのメンバー、あとはイナズマジャパンのみんなを集めての飲み会。
大人になってそれぞれの進路を進んで、顔を合わせる機会は少なくなったから僕はみんなと会える日がすごく楽しみだった。僕にとって、彼らと過ごした日々はかけがえのないものだったから。
苦しい日々がなかったわけじゃない。むしろ、エイリア学園を倒すために全国を巡る旅の最中は僕はずっと苦しくて仕方がなかった。
彼らと出会った頃の僕は完璧じゃなきゃダメだって思ってて、僕の心にいるアツヤともたくさんケンカをした。ひとりぼっちで圧し潰されそうな日々だった。
だけど染岡くんや豪炎寺くんが、キャプテンを始めとするみんなが。僕にひとりじゃないって教えてくれた。
あの日々があったから、僕は今ここにいる。……なにより。
あの日々の中で[#dn=1#]さんの存在は特別だった。恋をしてしまったったからっていうのもあるけど、それ以上に彼女は僕にとって拠り所になってくれた。
[#dn=1#]さんは僕の悩みを知ってから、ぐちゃぐちゃになっている僕の傍にずっといようとしてくれた。僕をひとりにしないようにって……、優しさと温かさを与え続けてくれた。
僕の手を握っていてくれて、僕の名前を呼んでくれて……、君を好きにならないなんて無理な話だったよ。
……僕はね、今でも君が与えてくれた温かさを忘れられないんだ。君が僕を支えてくれるようになった理由を知ってもそれは変わらない。
高校に入って、社会にも出て沢山の女の子たちと出会った。だけど未だに、君以上の人に僕は出会えない。
僕の弱さも全部まとめて受け入れて、僕の心に寄り添ってくれたのは君だけだ。僕には君しかいない。
だからね、どうか君に振り返ってほしいって……、今でも思ってしまうんだ。その一つだけは、君は一度だって叶えてくれなかったのに。
まだ願う余地があるのかな。久しぶりに今日、君の姿を見たとき、僕はちょっとだけホッとしたんだ。
まだ君の左手の薬指に指輪は嵌めてなかったから。最後に会った時と君は何も変わっていなかったから。
だけどほんの少しだけ残念な気もした。
さりげなくだけど、君は今も携帯を確認してばかりだから。君を待たせる彼がいることも変わっていないんだってすぐに分かった。……うん、遅れてくるって言ってたもんね風丸くん。
ちらちらと携帯の時計を確認する君を見てるとぐるぐるとお酒が僕の中を回っていった。
……風丸くんっていつも[#dn=1#]さんを待たせてるよね。キャラバンのときだってそうだったし、今になってもそうなんでしょ。ずっと[#dn=1#]さんを待たせ続けてる。
いつのときだっけ、風丸くんが僕を羨ましいって言ってたのは。きっと随分昔の話だね。
だけど僕は、ずっと風丸くんを羨ましいと思ってたよ。どんな醜態を晒してもありのままの姿を大好きな人に愛してもらえる君が。ひたむきに、一途に[#dn=1#]さんに待ってもらえることも、なにもかも。
――――僕なら、[#dn=1#]さんを待たせたりしないのに。
そっと隣に座っている[#dn=1#]さんの肩を抱き寄せる。ん? と小首を傾げながらも[#dn=1#]さんは僕の手を払ったりしなかった。
蕩けた顔で僕の顔を不思議そうに見つめている。……昔っからそうだよね、[#dn=1#]さんアルコール弱いから。
いつもだったら、こんな事したらやんわり退けられちゃうんだろうけど。酔いがすっかり回ってる君ならそうしないって知ってるよ。あの頃もそうだったもんね。
「んー、しろうくん?」
甘い声が僕を呼んでる、どこまでも無防備に。
ねえ[#dn=1#]さん、男って狼だよ。周りにみんながいなかったら……、ううん君と風丸くんとの関係を知らない人しかこの場にいないんだったら。僕、君に何をするか分からないかも。
そんな顔、僕に見せてるって知ったら風丸くん怒るだろうなぁ。
十分、狡いことしてるって分かってる。だけど僕だって手段を選んでられない。だって出会ったときから僕が君の心を手に入れる方法なんてどこにもなかったんだから。
「風丸くんなんてやめて僕にしない?」
もう一度だけはっきりという。僕も随分酔いが回ってるみたいだ、素面だったらとてもこんなこと言えない。
だって君がどんなに風丸くんを好きだかなんて僕は知ってる。風丸くんのそばに居る君が一番幸せそうな顔してるって分かってるよ。
だから君と風丸くんとの仲を応援したいって、中学生の時から思ってる。結婚式に流すビデオの約束だってしてるし……、君たちの幸せは心から願ってる。この気持ちは嘘じゃないよ。
「僕、君に優しくしてもらったぶんを何倍にでもして返すよ」
……だけど諦めたくもない。矛盾してるかな、僕はずっと心がひとつってわけじゃないから。
「吹雪、あまり[#dn=1#]に絡むな」
僕の正面で飲んでいた豪炎寺くんが僕を咎めるように睨んだ。そんなふうに凄まれたって悪いけどやめるわけにはいかないかな。豪炎寺くんにそんなこと言われる理由もないからね。
僕は聞こえないふりをして[#dn=1#]さんを後ろから抱き寄せる。柔らかい黒髪が鼻先に触れると、甘い彼女の香りがして頭がだんだんくらくらしてきた。
「きっと幸せにするから」
この言葉は僕の本心だった。君に恋をしてからずっとこの気持ちが変わったことはないんだ。君の傍にいたい、君以上の人はいない。
願うだけなら勝手だよねと思いながら、僕は君から望んだ答えが返ってくることを期待している。
「吹雪! お前飲みすぎだって!」
染岡くんが肩を掴んだせいで頭がぐわんぐわん響く。分かってる、もう随分飲んだ。このくらい振り切らなきゃ言えない言葉だったから。だけど染岡くんにも今は構ってられない。
「士郎くん」
甘い笑顔を浮かべた君がまた僕を呼ぶ。振り返った[#dn=1#]さんの顔に僕は覚えがあった。黒髪がふわりと風に舞い上がる。
忘れもしない、それに何もかも変わってなかったんだ。君が今から僕に告げる言葉を僕は。
「あ……」
もう十年も前に聞いている。
❀ ❀ ❀
「風丸くんなんてやめて僕にしない?」
座敷のふすまを開けようとして指先が固まる。奥から聞こえた想定外の言葉に俺は状況を飲み込めずに立ち尽くした。
がやがやと騒がしかったふすまの奥が一瞬静まり返った、そんな気さえした。
俺はぎこちなくここへ同時に到着した不動と壁山、佐久間。……そして鬼道の顔を振り返る。どいつもこいつもみんな、何も言えずに硬直していた。
同窓会だから早く上がるつもりだったのに、練習が伸びて帰宅ラッシュとかち合って結局こんな時間だ。
すっかり遅くなった、開始の時間からはもう一時間は過ぎてるんじゃないか。そんなことを思いながら店に到着したのがついさっき。
遅れてるのが俺だけじゃないかと心配したが、俺と同時に壁山がここへ着いた。そして店先で話し込んでた元帝国三人組と合流してたった今、店の中に入ったところだった。
「僕、君に優しくしてもらったぶんを何倍にでもして返すよ」
……え、何が起こってるんだ、この奥で。
今すぐふすまを開けて確かめればいいのに、俺はどうしても動くことができなかった。この声……、吹雪だよな。呂律が少し怪しいが。
出来上がってて[#dn=1#]に絡んでるのか、だったら早く止めないと。ていうか[#dn=1#]はなんで何も言わないんだ。……まさか[#dn=1#]、潰れてるんじゃないだろうな。
[#dn=1#]はほとんど酒が飲めない。それが分かったのは大人になってふたりで飲んだときだった。
ちょっとビールを飲んだくらいでもう手がつけられないくらいその……、甘えたになるというか……。[#dn=1#]だってそれを分かってるからあまり飲んでないと思ってたんだが、この状況は……。
「おいおい、開幕早々修羅場かよ? いいねぇ盛り上げるじゃん風丸くん」
「うるさい、不動」
愉快とばかりに笑う不動を睨みつける。壁山はアワアワと口に手を当て、佐久間は面倒そうにため息をついていた。そして鬼道は。
「……風丸」
「ああ」
これ以上自由にさせるなと言わんばかりに俺の肩を掴んだ。表情は読めないが鬼道が[#dn=1#]を未だにどう思っているかなんて当然知ってる。……それに吹雪だって。
とにかくこの状況を長続きさせていいことはない。早く事態を収拾しないと。
「しろうくん」
[#dn=1#]の声が奥から聞こえた。完全に潰れていたわけじゃないらしいが、いつもよりも緩んだ甘えるような声だ。これ以上もたもたしているわけにもいかない。俺は意を決してふすまを開け放つ。
スパンッ! と鋭い音が響き渡った。あまりにも勢いよく戸を開けた衝撃で、すぐそばに座っていた[#dn=1#]の黒髪がふわり揺れた。
俺が立てた音のせいで静まり返っていた会場の中に、酔いの冷めない[#dn=1#]の声が響く。
「私には一郎太くんしかいないの」
「……っ」
皆の視線が一斉に俺に集まる。いたたまれなくなってさっと視線を逸らした。
…………俺にはもう、この事態を収める方法は分からない。酒も飲んでないのに頬が熱くなるのを感じながらそう思った。
[#dn=1#]の嘘偽りの無い気持ちはいつだって嬉しいが、この空気をどうしたらいいのか……。とはいえ、[#dn=1#]の視線の先にいる吹雪を見る勇気も、振り返って鬼道の顔を見る覚悟も俺には無い。
視線のやり場がなくて、俺はとろんとした[#dn=1#]の顔を見つめる。[#dn=1#]はぼうっとしてるせいか、俺がここにいることにまだ気づいてないようだった。
「……うん、知ってる。ねぇ、[#dn=1#]さん」
やけに落ち着いた声色で吹雪が呟いた。そして吹雪は勢いよく俺を指さし、ふんわりとした笑みで[#dn=1#]に語りかける。
「そこにいるよ、君の王子さま」
「えっ……」
ようやく[#dn=1#]は吹雪の言葉で俺がここにいることに気づいたようだった。俺を見るなりぱっと顔を輝かせて、フラフラなのに立ち上がる。お、おい……!
「[#dn=1#]……!」
「いちろーたくん会いたかった!」
よろめいた[#dn=1#]を抱きとめ、何とか倒れないように足を踏ん張る。ギュッと痛いくらい強く抱きついてくる[#dn=1#]からは強めのアルコールの匂いがした。……まったく、いったい誰だこんなに飲ませたの。
「あーあ、もっと風丸くんが焦る顔が見たかったのになぁ」
愚痴をこぼすみたいに言葉を吐きながら、吹雪は染岡の方に倒れ込んだ。
「せっかくドッキリみたいにしたかったのに。”俺の[#dn=1#]に触るなっ”て飛び込んできたらドラマみたいだったと思うなぁ。ねぇ、染岡くん」
「ったく……、冗談はほどほどしとけよ」
「なぁんだ。吹雪さん、俺たちが来たことに気付いてたんスね」
染岡がしょうがないやつとばかりに吹雪を支え、壁山は俺の後ろで心臓を抑えながらほっと息を吐いた。
……俺自身もむしろそうであって欲しいと思う。
吹雪が俺を茶化したことでみんな冗談だったのかよ、って空気に飲まれていく。助かったって言うのが本音だが、吹雪が内心どう思っているかなんて……。
「ねぇ、一郎太くん……、こっち向いて?」
「[#dn=1#]、どうした? んっ!」
いつもよりもとろんとした[#dn=1#]の声に応えようと[#dn=1#]を見ると、唇が柔らかい感覚で塞がれた。驚きのあまり体が硬直して動かなくなる。慣れた感覚だが……、いやでも。
「キャー!! [#dn=1#]、風丸にチューしとるんやけど!」
リカの色めき立った叫びに、皆がわあっと声を上げた。顔が燃えるように熱を持つ。ほ、ホントに誰だよこんなに[#dn=1#]に飲ませたの……!
「こ、こら、[#dn=1#]!」
意味が無いと分かっていても形だけでも[#dn=1#]を窘める。
家ならまだしもみんなの前はさすがにマズイから……! 唇が離れた瞬間に[#dn=1#]の頭を胸に抱き寄せて追撃を防ぐ。こいつらの前だけはお願いだから勘弁してくれ。
「んー……」
緩んだ[#dn=1#]が俺を見つめてとろけるような笑顔をうかべる。その眼差しが俺に何を求めてるのかは考えるまでもない。……あぁ、ダメだな。ここまで来たら本当は寝かせるべきなんだが……。せめて少し外に行くか。
「……全く」
「見せつけるねぇ、十年前からまるで成長してないんじゃねえの」
「早く結婚しろよ、お前ら」
少なくとも俺はこの空気の中で飲み始められるほど豪胆じゃない。俺の後ろにいたヤツらは俺を追い越し、口々に俺に言葉を投げかけながら座敷へと上がっていく。余計なお世話だ。
「悪いが少し出てくる、[#dn=1#]の酔いを醒さないと」
とにかくこのまま、俺たちの醜態を晒すわけにもいかない。それに[#dn=1#]にはもう俺のいないとこで飲まないように言っておかないと……。
「いいけどちゃんと帰ってこいよー」
「そうだね。せっかくの同窓会なんだから、ふたりでしけこむのは無しだよ」
……ったく。どれだけ好き勝手いえば気が済むんだ? 酔っ払いたちの賑やかしにわかったわかったと適当に流しながら、俺は[#dn=1#]の靴を探す。抱えっぱなしって訳にもいかないからな。
そう思って足元に視線を落とすと、はいと[#dn=1#]のパンプスが俺の前に差し出された。
「風丸くん、ほらお姫さまの靴」
「ああ、すまない。吹雪」
雰囲気こそ変わったが、出会った頃と変わらない笑顔を浮かべる吹雪の手から[#dn=1#]の靴を受け取る。
靴を受け取った瞬間、光の錯覚か……? 吹雪の目が少しだけ色を陰らせたように見えた。いや……、きっと錯覚じゃない。
視線があって、初めて吹雪の真意が俺に伝わる。吹雪の目は静かに俺に訴えかけてきた。
さっきのアレは……、場をわかすための冗談なんかじゃない。そして俺をからかうためのドッキリでもない。
「早く履かせてあげてね。それは君の役目だよ」
吹雪は今でも変わらない想いを[#dn=1#]に持っている。きっと俺にも、だから。
「幸せにしてね。[#dn=1#]さんの事」
だから、お前は十年前の言葉を繰り返すんだな。俺たちのために。
伝わった思いごと、腕に抱えた[#dn=1#]を強く抱きしめる。……心配いらない、俺の気持ちも変わらないから。
「ああ」
これが吹雪の求めている答えかは分からない。それでも俺は吹雪の思いに応えたくて深く頷いた。