恋風番外編 短編


 
 運命は残酷にも遡ろうとしている。
 
 風丸一郎太が目を覚ました時、そこは白い世界だった。彼は何もないその世界でどうしてかは分からないが突っ立っていた。目の前には大きく荘厳な扉があって、固く閉ざされている印象があった。何もない世界、だが隣には彼女の姿があった。[#dn=2#][#dn=1#]、彼の恋人が目を伏せてその場に立っているまるで眠っているように。風丸は彼女の元へと歩み寄って彼女の肩を揺さぶった。
 
「[#dn=1#]」
 
 風丸が声を掛ければ彼女はそうっと目を開いた。一郎太くん、と彼の名を呼び、見覚えのない景色を見回す。不安げな表情で彼の腕に縋って小さな声で呟いた。
 
「どこなの、ここ……。なんで私たちこんなところに」
「分からない」
 
 明らかに異様で現実とはかけ離れたような世界に彼女は怯えすら見せている。風丸は彼女の不安を少しでも落ち着けようと平静を保って見せた。彼女を守るように風丸は[#dn=1#]の手を握る。本当にどこなのだろうここは。何もなく、ただただ白い。

 聞こえるのはそう、かちりと腕時計に耳を傾けたときに聞こえるような秒針が動く微かな音のみ。その音が時間が止まっているようなこの世界の中でも時が進んでいることを示しているような気がした。
 
 よく来た、運命を遡る愛し合う恋人たちよ。
 
 遠く響くような、それでもはっきりと聞こえる声に風丸と[#dn=1#]は身構えた。強く握った手をさらに強く握り合わせる。彼らふたりの前に白いぼんやりとした人影が現れた。[#dn=1#]がひしと風丸の左腕に縋る。風丸は表情をこわばらせて人影を睨んだ。人影は透明な声で語り続ける。
 
 お前たちはこの扉を開かねばならない。扉を開けば時は遡り、お前たちを運命のあの日へ誘うだろう。
 
 影は寄り添うふたりに静かにこれから起こる話を告げた。ふたりがこの世界から出るためには目の前のこの扉を潜らねばならない。だがこの扉を開けば時間が巻き戻るのだという。風丸たちが世宇子中学を倒し、フットボールフロンティアで優勝したあの日まで。
 
 そこで今まで彼らが歩んできた運命は途切れ、別の新しい未来が用意される。宇宙人が攻めてこなかったもう一つの未来へ。記憶も全て巻き戻る。何もかもがあの日に還り、無かったことになる。そこまで告げて影は空気に溶けて消えていった。困惑した表情の風丸と[#dn=1#]がこの空間に取り残される。ふたりはたった今告げられた衝撃の真実に動揺していた、だが心はそれが真実であると納得していた。しばらくの沈黙ののちに風丸が口を開く。
 
「無くなるのか……。エイリア学園のことも、FFIで優勝したことも」
 
 信じられなかった、だがそれが彼らに用意された未来だった。風丸は隣に立っている[#dn=1#]を見た。白い頬は少し青ざめ、影に告げられた言葉を飲み込み切れないでいるようだった。彼女が俯き、美しい黒髪がさらりと彼女の表情を隠す。風丸は気が付いた。彼女の肩が静かに震えていることに。
 
「嫌だよ……」
「[#dn=1#]」
 
 風丸が[#dn=1#]の肩を抱いて[#dn=1#]の顔を覗き込む。彼女は揺れる瞳で彼を見上げた。大きな黒い瞳からは大粒の涙が白い頬を伝い落ちている。薄桃色の唇が息を吐いて震えている。[#dn=1#]は静かに左手を胸元に添えた。ぎゅっと強く彼女は服を握りしめる。固い確かな存在が彼女の手に触れていた。
 
「無くなっちゃうなんて、やだ」
 
 強く強く胸元を握って服がくしゃくしゃになっても、彼女は自分の手の中にある固いそれを握りしめた。消えてなくなる、これも。そんなの耐えられるわけがない。
 
「[#dn=1#]、落ち着け」
「無理だよ。……一郎太くん、分かってる?」
 
 ぽろぽろと真珠のような涙をこぼしながら[#dn=1#]が風丸を見上げる。風丸は悼むような表情をして目を伏せた。痛切な[#dn=1#]の声が彼の耳に囁きかける。
 
「私たち、あの時は一緒じゃないんだよ」
 
 フットボールフロンティア決勝の日。風丸と[#dn=1#]は恋人ではなかった。あの時は風丸が[#dn=1#]を想い、別れを告げた後の出来事だ。ふたりの関係は無に還ってしまう。
 
 それだけではない。エイリア学園の事件があって彼らは再び関係を取り戻し、新しく共に歩み始めた。幾多の試練が彼らを引き裂こうとしたがふたりは強くそれを乗り越えた。乗り越え強く結ばれ、きっとこの出会いは運命だったのだとそう思うほどなのに。
 
 今まで紡いできた時の糸はぶつりと音を立てて切れた。この世界は巻き戻る。ふたりが共にまたこの道を歩める保証はどこにもない。
 
「もう一郎太くんと一緒にいられないかもしれない。……だったら私は新しい未来なんていらない」
 
 [#dn=1#]は首を振って断言する。さらりと彼女の黒髪が揺れて、彼女の涙に濡れた頬に張り付いた。風丸は黙ったまま、[#dn=1#]の頬に掛かった髪を整えてじっと[#dn=1#]を見つめた。静かに彼女の身体を抱き寄せて落ち着いた声で囁く。
 
「[#dn=1#]」
 
 白い世界で何も世界でふたりの呼吸だけが響く、全てで風丸は[#dn=1#]の名を呼んだ。その声には彼女を宥める頼もしさがあった。[#dn=1#]は涙を流しながら風丸の言葉に耳を傾ける。風丸は[#dn=1#]を抱いたまま、落ち着いた声で言う。
 
「俺は未来へ進む。お前と一緒に新しい世界を生きる」
「……」
「[#dn=1#]、俺を見てくれ」
 
 風丸が彼女を胸に抱く手を緩めて、彼女を呼んだ。[#dn=1#]はそっと風丸の胸から頭を擡げ、風丸を見つめる。穏やかな茶色の瞳が[#dn=1#]の黒い瞳を見つめていた。風丸は[#dn=1#]の両手を握り、優しく微笑んだ。
 
「俺たちは離れたりなんかしないさ。今までどんなことがあったって一緒にいただろ」
 
 そう、色んな事があった。出会った時から今日に至るまでふたりの間に何度だってすれ違いが生まれ悩んだ。だから風丸は確信している。自分たちは何があっても離れたりなどしないと。
 
「こんなことくらいで揺るがないよ、俺がお前を想う気持ちは」
「……でも」
 
 [#dn=1#]は自信なさげに風丸から視線を逸らす。[#dn=1#]には風丸のように断言できる自信がなかった。今までの全てがあって、今があるのだと[#dn=1#]はそう思っている。積み上げてきた今が無くなってしまう、それは彼女にとって限りない不安だった。違う未来を歩む自分たちは、違う自分たちでありはしないだろうか。
 
「その世界の私は、今の私じゃない。一郎太くんが好きになってくれる私じゃないかもしれない」
 
 涙に濡れた睫毛が伏せられる。それでも風丸は頼もしく微笑んで見せる。[#dn=1#]、と彼女の名を呼び、再び彼女を振り返らせた。強く手を握ったまま、[#dn=1#]が大好きな笑顔で彼女に微笑む。彼女は自分たちの関係を甘く見ている、たったほんの少しの運命が捻じれたくらいで変わってしまう関係なら俺たちは結ばれなかっただろう。
 
「俺はどんな[#dn=1#]だって好きになるよ。[#dn=1#]が[#dn=1#]であることに変わりはないんだ。それに、忘れたりなんかしない。絶対。たとえ忘れたって[#dn=1#]を見たら思い出すよ。忘れられるわけない、[#dn=1#]のこと」
「……」
「ちゃんと[#dn=1#]を迎えに行く。一緒にいる」
 
 さらりと風丸の髪が風もないのに靡いた。[#dn=1#]は目を細めて、溢れてくる涙を瞬きによって落とす。こんなに真っすぐだったか、私の愛する人は。いつになく頼もしくて、その言葉を信じてしまいたくなる。
 
「信じてもいいの……?ちゃんと私を見つけ出してくれるって」
「ああ、約束する。……[#dn=1#]」
 
 風丸の手が[#dn=1#]の頬を滑る。[#dn=1#]は風丸の意図を察してそっと目を伏せた。風丸の唇と[#dn=1#]の唇がまるで永遠のように長い時間重ねられる。ゆっくりと名残惜しく離れたその唇が、愛を囁く。
 
「新しい未来を、一緒に生きよう」
「……うん」
 
 涙を拭ってようやく彼女が微笑んだ。どちらともなくしっかりと指を絡ませ、手を握り合わせる。名残惜しくないわけではない。先へ進むのが怖くないわけではない。でもきっとふたりでいられるのならば、出会えるなら、この手さえ離さなければ。ずっと一緒にいられるはずだ。
 
「一郎太くん」
 
 風丸は右手で、[#dn=1#]は左手で荘厳な扉に手を触れてそれを押し開けば眩い光が白の世界に広がった。世界の奥から風が吹きつける。風丸は名を呼ばれて隣を見た。黒髪を靡かせて微笑む、美しい彼女が風丸を見つめていた。大きな黒い瞳は彼だけを映して、その姿を心に刻みつける。
 
「大好きだよ。私、絶対に忘れない」
 
 押し開けた扉から手を離し、彼女の右手が自らの胸元を握る。扉の奥に待つ未来がどんなものなのかは想像がつかなくて、今でも足は震える。でも自分を捕まえていてくれるこの手が温かくて頼もしいから立っていられる。今までのすべてのことを宝物のように胸に抱いて新しい未来を生きる。どんな困難が待ち受けていようと、世界がひっくり返ろうと。
 
 ふたりが本当にお互いの運命なら、必ず結ばれる。
 
「[#dn=1#]」
 
 [#dn=1#]の告白への返答の代わりに風丸は[#dn=1#]の手を握る力を離さないようにと少しだけ強めた。大丈夫、何も変わらない。最後にそう確信の意味を込めて彼女の名前を呼んだ。
 
 風丸が一歩、扉の奥へと足を進める。[#dn=1#]もそれに続いた。白い光が身体を包んで彼の姿が見えなくなり、足の先から徐々に自分の感覚が分からなくなる。最後には握っていた手の感覚も。
 
「愛してるよ、[#dn=1#]」
 
 途切れて曖昧になる意識の中で、それが最後に聞こえた言葉だった。
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