恋風番外編 短編


 鬼道有人が彼女を見初めたのは帝国学園に入学したばかりの頃だった。一年生ながらにサッカー部のキャプテンとして部をまとめ、入学テストでももちろん頂点の座に君臨し、帝国を統べる王になった彼よりも優るものは誰もいなかった。だが彼はそれを驕ったことは無く、見るべきものをより深く見てより多きを学び取れる素直な少年であった。

 慣れない学校生活を過ごしていく中で、ある日鬼道は練習の帰りにグラウンドの端に佇む少女の姿を見た。それが彼女であった。サッカー部に追いやられた狭いグラウンドで練習する陸上部。そこに彼女は在籍していた。

 タンクトップにハーフパンツの彼女はグラウンドのコースでクラウチングスタートの構えを取る。鬼道はどうしてかその姿に足を止めて見入った。遠くから聞こえるピストルの音に合わせて彼女は地面を蹴る。

 鬼道は目を見張った。息をのみ、数歩グラウンドの敷地ぎりぎりまで彼は彼女の走りを見ようと歩み寄った。初めて見た彼女の走りはハヤブサが飛ぶように速く、獲物を狙うチーターが駆ける姿のように美しい。いやそれ以上に。彼女は、アイツは美しかった。

 雪のように白く細くも鍛えられた筋肉が躍動する、頭の頂点からつま先までしなやかに動く。大きな瞳は真っ直ぐ前を見据え、誰よりも速く先を行く。そして何よりもその長い黒髪が艶やかに舞い踊る。例えるならばまさに風。一瞬で心を奪われて鬼道有人はその走りの虜になった。

 なんと、美しいのだろう。

 ドクン、と胸が高鳴って鬼道は右手で左胸を抑える。目の前に映る光景に少女の姿にうまく息ができなくなる。こんなに心を揺さぶられるものを見たのは初めてだった。己の深部で強く拍動する心臓の音がやまない。

 百メートルのコースを走り切って減速する彼女を見ていた。名は何と言っただろう。少女をじっと見つめながら鬼道は思う。同学年か、それとも上級生か。何故そんなことが気になるのだろうか。彼女はいったい何が好きなんだ。考えたことないことばかりが頭に浮かぶ。滾々と湧き出るような欲求が。

 サッカーで、フットボールフロンティアで三連覇し、妹を引き取る。もっとよく顔を見せてくれ。帝国の頂点に立ち続け、将来は鬼道財閥を牛耳る。二人で話がしてみたい。関係ないはずなんだ、アイツは。鬼道の表情が切なく顰められる。

 でも、もう一度あの走りを見たい。

「鬼道?」

 苦し気な鬼道の様子を不審に思ったのか、練習場からあとからやってきた彼と同学年の佐久間が鬼道に声を掛けた。鬼道は夢から覚めたように瞬きをして、ゴーグルの奥から佐久間のことを見る。佐久間はちら、と彼女が居るグラウンドの方へと目線を向けて納得したように肩を竦めた。

「もしかして[#dn=2#][#dn=1#]か?」
「[#dn=2#]、[#dn=1#]……?」

 佐久間が零した名前を鬼道はゆっくりと呼んで繰り返す。魅力的な音の調べに聞こえ、その響きが胸の鼓動を速めた。じんわりと胸の中で何かが溶け広がる。佐久間はあまり興味はなさそうに寺門のクラスメイトだと彼女のことを話した。勉強はからきしだが、運動能力はピカイチで特にその俊足に勝るものはもはや全国区にしかいないだろうと入学早々、優れた容姿も合わさって陰ながら噂になっていたようだ。

「地味で暗い奴だ。クラスでも浮いてるらしいしな。……鬼道?」

 鬼道は佐久間のことをもう見てはいなかった。再び彼女、[#dn=2#][#dn=1#]という少女のことを見やっている。ひとりぼっちで、まったく笑わない。あんなにも美しいのに。そんな彼女を見ていて胸がつきんと痛む気がした。黒髪を靡かせながら彼女は歩いている。彼女はちらとも鬼道のことを見なかった。

***

 どうしてこんな展開になったのかわからない。鬼道は黙り込んで廊下を歩きながら目的地へ急ぐ。ちらと後方を確認すれば恋い焦がれる少女が楚々と自分の後をついてきていて慌てて前を向いた。

 あの日初めて鬼道は[#dn=2#][#dn=1#]に出会い、そして彼女を知りたいと思うようになった。サッカー部の方が陸上部よりも基本的に練習が長く、彼女の走りを見られる機会はほとんどなかったがそれだけでなく彼は[#dn=2#][#dn=1#]に惹かれていった。

 一見、勉学は不得意で愛想も悪い未だに友達も作れない[#dn=1#]を生徒たちは変わり者だと揶揄したが、鬼道はその誰も触れることのできないヴェールに包まれた彼女を暴きたいと思った。彼女と話をして、見つめ合って触れ合えたら世界がどんなに変わるだろうと思っていた。そしてそれが思わぬ形で叶ったのだ。

 練習前にひとり自主練をしていてボールを廊下まで飛ばしてしまった。そのボールを[#dn=1#]が拾ってくれたのだった。そこはサッカー部以外通行禁止の廊下であったが、構わなかった。鬼道の心臓は平静を装っていたが緊張に大きく拍動していた。今自分は、あの少女と話をしているのだ。

「お前は確か……、[#dn=2#]だったな」

 初めて出会った日から胸の内で何度繰り返したか分からない名前を口にする。すると彼女は大きく目を見開いて口元に手を当てた。そんな驚く仕草すら可愛らしいように見えた。

「どうして……私の名前を」
「帝国一、足の速い女を俺が覚えていないわけがないだろう」

 笑みを浮かべてそう口にすれば、彼女は微笑んだ。鬼道は自分の全身が震えあがるような感覚を覚えた。かあっと顔が熱くなるのが分かる。まるで花が咲いたかのような[#dn=1#]の微笑みで、鬼道は今までどうやって自分が息をしていたのかが分からなくなる。[#dn=1#]が自分に頭を下げている間に呼吸を整えてあるべき鬼道有人の姿を取り繕う。

 彼女がサッカー部の練習を見たいと言った。その言葉と[#dn=1#]の笑顔で舞い上がってしまって鬼道は彼女をこの場所に連れてきてしまった。自分しか入ることの許されていない扉。ピッピッと暗証番号を入力して扉を開ける。

「この部屋は俺がチームの練習を見て、思考研究をするための部屋だ」

 六畳ほどの狭い空間にベンチが二つ。正面の壁はバルコニーのように開かれている。鬼道は[#dn=1#]を部屋へ招き入れ、こっちへ来いと[#dn=1#]を呼び正面の開かれた壁に手を掛ける。眼下にサッカーグラウンドが広がる。誰にも悟られずサッカー部の練習を見ることのできる学園内の唯一の場所。

「ここから練習をみるといい。お前にとって何か得るものがあればいいが」

 鬼道が素っ気無く[#dn=1#]を置いて部屋を出ようとする。憧れていた少女が近くにいて落ち着かなかった。そしてこれから練習を見ていくのだと思うとどんなふうにボールを蹴ればよいか分からなくなる。そんな複雑な気持ちの彼を[#dn=1#]は待ってくださいと言って引き留めた。

「どうして私なんかにこの場所を……?」

 [#dn=1#]はぎゅっと胸元でこぶしを握り、鬼道に問いかける。外にはパスコードが必要な扉だ。それに鬼道は俺がチームを研究するための部屋だと言った。即ち帝国学園における鬼道の私室とも呼べる場所と言っても過言ではないのだろうか。だから[#dn=1#]は疑問だったそんな場所に何故、鬼道は[#dn=1#]を招き入れたのだろう。一般生徒以下の存在の自分を。

「……」

 鬼道は少し黙り込む。そして息を堪えて吐き出すと、小さな声で[#dn=1#]に告げた。

「お前の走りが、美しいからだ。……あのスピードと美しさ、帝国の誇りになりえるものだ」
「……!」

 [#dn=1#]の表情が喜びに満たされたようなものになる。鬼道は照れくさくなって目を逸らした。顔が熱い、全身が心臓になったかのようにバクバクと大きく脈打っている。それでも何でもない様子を繕って鬼道は続ける。

「俺は練習に戻る。この部屋はいつでも好きなように使え、ただし他の連中にはバレないようにしろ。総帥に知られると事だ」

 何をしているのだろう。鬼道は思う。自分を統べる絶対君主にまで抗ってまで[#dn=1#]と過ごす時間を、これからを望んでいる己に。口頭でここへ入るための鍵を伝え、彼は微笑む。

「……お前がここに来るのを待っている」


   ❀ ❀ ❀

 
 鬼道と[#dn=1#]が秘密の場所で密会をするようになって一か月の時が過ぎた。始めは恐れ多く、[#dn=1#]は部屋に寄りつこうとしなかったが、彼女が訪れてくれないことに痺れを切らした鬼道が[#dn=1#]を部屋に呼びつけるようになった。

 そこで二人はお互いのことを話し、親睦を深めていく。密会を繰り返すたびに鬼道有人は益々[#dn=2#][#dn=1#]という少女により一層惹かれていくようになった。
 
 部活ではタイムをぐんぐん更新し、類稀なる才能を見せつける。それは[#dn=1#]が練習量を増やしたからだと知った。また走ることだけではない。勉学も定期テストで五十も順位を上げてきた。それは陰で休み時間を惜しんで[#dn=1#]が勉強しているからだと聞いた。

 何故[#dn=1#]が急にそこまでのことをするようになったのかは不明であったが、誰にも言わず黙々と自分が決めた目的に向かって邁進する[#dn=1#]の姿は鬼道の心をより甘く揺さぶった。何て健気な少女だろう、好感を抱かずにはいられないだろうに。何故彼女が疎まれるのか、鬼道には理解ができなかった。
 
 鬼道はベンチの隣に掛けている[#dn=1#]の横顔を見つめる。雪のように白い肌に桃色を差して漆黒の髪が揺れて時々それを覆う。ぱっちりとした二重の瞼から長いまつげが伸びている。鼻はスッと高く通っていて桜色の薄い唇を時々ちろりと赤い舌が舐める。見つめているだけで心が安らぐ。恐ろしいほどに[#dn=1#]は美しい。
 
「鬼道さん……、そんなに見つめられると緊張します」
 
 鬼道の熱い視線をゴーグル越しにも感じたのか、[#dn=1#]が恥じらって顔を背けた。サラリと流れた黒髪を耳に掛け唇をきゅっと結ぶ彼女の仕草がまた愛らしいが、鬼道は[#dn=1#]の言葉に慌てて視線をそらした。
 
「す、すまん。……その、何でもない。ただお前が……」
 
 美しいから。と褒めれば[#dn=1#]は何ていうだろう。控えめな彼女のことだからきっと鬼道の言葉を否定するに違いない。だが何もかもが美しいのだ。容姿も性格も走る姿も鬼道を魅せる何もかもが常人離れしているように鬼道には思えた。鬼道有人に比べれば彼女は遥かに人であるというのに。
 
「……」
 
 もどかしい気持ちになって鬼道は口を噤む。何故素直に彼女を褒められないのだろう。どうして一緒にいるだけでこんなに胸が高鳴るのだろう。鬼道は唯一褒めることのできる彼女の長所を何度目か分からない言葉で褒め称える。
 
「……お前の走る姿は美しい」
 
 [#dn=1#]が鬼道を見つめる。大きな瞳を潤ませて、喜びを噛み締めるような顔をして鬼道を瞳に映す。鬼道は微笑んだ、[#dn=1#]が自分を見つめていることが堪らなく幸福感を生んだ。
 
「……ありがとうございます、鬼道さん。嬉しいです、私」
「またタイムを伸ばしたそうだな。陸上部のキャプテンから話は聞いている。[#dn=2#]は全国を取れる選手だと言っていた」
 
 そんなこと、と[#dn=1#]は照れ、口元を抑えて微笑みつつも鬼道に褒められたことが嬉しいようで幸せそうに笑っていた。鬼道の表情も自然と緩む。[#dn=1#]の他の誰にも見せないこの表情を自分が独占できていることが素直に嬉しい。
 
「一つ聞いてもいいか」
「はい、もちろんです」
「お前の、その……髪は特別な手入れをしているのか?」
 
 [#dn=1#]が動くたびにサラリと踊る黒髪。艶やかで絹のような柔らかさ鬼道は緊張を持って、[#dn=1#]に手を伸ばす。そして[#dn=1#]の横髪を一房手に取ってさらさらと落とした。
 
「……っ」
「走るときに靡くお前の髪は、とても綺麗だ」
 
 [#dn=1#]が真っ赤になった顔を両手で覆う。明らかに照れている、そんな仕草を見て鬼道は柔らかく微笑む。本当に愛らしい、愛しい。この娘が、自分だけのものになればいいのに。

 それが許されないこの帝国学園で、鬼道はできる限りの力を持って[#dn=1#]を自分の傍に置くことを誓う。ずっと二人だけの時間が続けばいいのにと、そう思いながら一日を終える日々を繰り返した。
 
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