FF編 八章
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きっぱりと言いたいことを言いきったマックスと半田は、昼休み半ばだというのに早々に引き上げていった。どうやら染岡たちとグラウンドでミニサッカーをする約束をしているらしい。
いってらっしゃいとそれを見送った花織は、彼らの背中が教室のドアの外に消えると、糸が切れたように笑みを解いて深く心の澱を吐くようにため息をついた。
昼休みの閑散とした教室、校庭の賑わいとは対照的に安穏とした空気の中で、突き付けられた現実を目の当たりにして未だに結論を出せない自分を嘆く。
陸上部とサッカー部、その間で板挟みになって選べないと悩む風丸の気持ちが痛いほど分かる。それは花織自身が自分の気持ちの結論を出しかねているからだ。
そして結論を出せるのは自分しかいないと分かっている。それなのに傷つけることに、答えを出すことに臆病になって、できることなら答えを先延ばしにしてしまいたいと願うことがある。正解の出ない悩み。そして逃れることのできない選択だ。
「月島さん、一年の子が月島さんに用があるって来たんだけど……」
物思いに耽り、窓辺に視線を落としていた花織にクラスメイトから声が掛かった。ふと、声のした方に目を向けると教室の入口の引き戸の傍から、見覚えのある少年がこちらに向かって歩いてきていた。教室にいるわずかな生徒たちの好奇の視線に怯みもせず、彼はずんずんと教室を進み、机の間を縫ってまっすぐに花織の元へと歩いてくる。
「宮坂くん……」
わざわざ花織を訪ねてきたのは神妙な面持ちをした宮坂だった。眉間に皺をよせ、唇をぎゅっと真一文字に結んでいる。彼は花織の机の前に辿り着くとぺこりと頭を下げた。
「突然お邪魔してすみません。でもどうしても月島さんにお願いがあって」
「お願い……?」
「風丸さんのことです」
宮坂の口からその最愛の彼の名前が出て、花織は困り顔で眉根を寄せた。宮坂がここへ来た時点で大方予測はついていたことではある。だが、いざ突き付けられると彼の熱量に胸が詰まった。
「月島さんからもお願いしてくれませんか。陸上部に戻ってほしいって」
「……」
言葉に迷いつつ、花織は宮坂の方を向き直る。熱意のこもった宮坂の視線に気圧されながらも、彼を無下に突き放して追い返すつもりはなかった。風丸が悩むように宮坂の中にも葛藤があるのだろう。そしてそれを昇華できないから、藁にでも縋るような思いで花織のところにやってきたのだ。花織は子犬のような眼差しを向ける宮坂を見上げつつ口を開く。
「どうして……私にそれを?」
「月島さんが陸上に戻ってほしいって言ってくれたら、きっと風丸さんは陸上に戻ってくれると思うんです」
あまりにも妄信的な言葉に花織は苦笑を零す。何故みんな、花織が頼めば彼が揺らぐと思うのだろう。これは風丸にとって大きな選択だ、もしかすると人生を変える選択になるかもしれない。
真面目な彼は恋人の一言で易々と考えを変えたりはしない。花織は首を横に振ってきっぱりと言い切る。
「そんなことないよ……。一郎太くんは私が頼んだからって意見を変えたりしない」
険しい宮坂の顔色を慎重に窺いながら花織は言葉を選ぶ。
「一郎太くんとあれから話してないの?」
「話ならしましたよっ! でも風丸さんはサッカーの試合を見に来いって言ってて……。サッカーサッカーって、風丸さんは最近そればっかりだ」
「……」
「でもちゃんと思い出してほしいんです。陸上のグラウンドが風丸さんの舞台なんだってこと……。風丸さんの活躍をみんな待ってるんだって」
思いの丈を吐き出す宮坂の言葉を花織は黙って聞いていた。彼の気持ちも分からないでもない。助っ人に行くだけ、という約束で期間限定で部を空け、そのままサッカーに夢中になってそれっきり帰ってこない。それが部のエースで、誰よりも憧れている先輩となれば失いたくないのも当然だ。
特に宮坂は風丸のことを心から慕ってついて回っていたような子だ。サッカーにかどわかされたのだと変に敵視してしまう気持ちも分かる。
「俺は陸上をやる風丸さんを諦めたくないです。月島さんもそうじゃないんですか? あんなに風丸さんが走る姿をすごいって褒めてたじゃないですか。風丸さんがいなくなるなんて陸上部にとってどんなに大きな損失か分かってるでしょう⁉」
「……そうだね」
言葉に熱が篭る宮坂を否定せずに花織は首を縦に振った。
確かに、そうかもしれない。陸上部の風丸一郎太は花織が彼に興味を持ったきっかけだ。陸上がなければ心を通い合わせることはなかったし、今という時間は存在しなかっただろう。仮に風丸が陸上を離れてしまったら、それはどんなに寂しいことか分からない。
だが、それでも……。花織は深い共感を示しながらも心は譲らない。
「それでも私は一郎太くんに”こうしてほしい”とは言いたくない。一郎太くんが自由に、楽しく走ること以外は望んでないの。その場所がサッカーのグラウンドでも陸上の競技場でも、彼が走りたい場所を走るべきだと思うから」
長い睫毛を瞬かせ、花織はあくまでも穏やかに答えを示す。けれど一切の反論を受け付けないという意志を瞳に宿していた。
「一郎太くんに選んでほしい。……私はそれを応援したい」
ただただ彼の走る姿を尊敬し、愛していると自負している。その場所がサッカーだろうと陸上だろうとただ応援するだけだ。その一点に関しては花織の答えは決まり切っている。花織は堂々たる優美な微笑を向け、宮坂にそう言い切った。
あれほど言葉数多く花織に説得を試みていた宮坂だが、一瞬声を失ったようだ。呆けた表情を向けたが、苦々しく唇を噛みしめる。学ランの裾を握り締め宮坂は感に堪えた声を上げた。
「……っ、でも!」
「おい一年、その辺にしておけ」
納得ができない宮坂が、さらに花織に詰め寄ろうとしたそのときだった。
低く落ち着きを払った声が二人の間に割り込んだ。突っ伏していた机から、いつの間にか状態を起こしていたその人は、鋭い眼光を上げ、威嚇するようにじっと宮坂を見つめている。
「月島に詰め寄るな。風丸が陸上に戻るか、サッカーを続けるかは風丸自身が決めることだ。外野がとやかく言う筋合いはない」
淡々と、けれど有無を言わせぬ覇気を纏ってそう言い切ったのは、花織の後ろの席で眠っていたはずの豪炎寺だった。
宮坂の視線が豪炎寺に向けられる。雷門中サッカー部のエースストライカー豪炎寺の姿を眼に捉え、彼の表情はますます険しいものとなった。
「サッカー部のエースストライカー豪炎寺さんですよね……。そりゃ、あなたにとっては月島さんが何も言わない方が都合がいいですよね。風丸さんがサッカー部を抜けたら困るんですから」
隠そうともしない、明らかに敵意のこもった眼差しが豪炎寺に向けられる。口調にも荒々しい苛立ちが滲んでいた。しかし豪炎寺は子供じみた宮坂の指摘を否定もせず、茶化しもせずに涼しげな表情を貫いている。
「ああ。アイツほどの実力者をみすみす失いたいわけじゃない。風丸のスピードはチーム一だ」
「……!」
思わず花織の方が、弾かれたように豪炎寺の方へと視線を向ける。豪炎寺はまっすぐすぎる眼差しで宮坂を見つめていた。
「俺はチームメイトとしてアイツの実力を認めている。風丸がサッカーを続けるかはアイツの判断に任せるが……、俺はこれからも同じチームでプレーしたいと思っている」
「……豪炎寺くん」
静謐でありながら、彼の瞳は燃え盛る炎のように熱い熱を帯びていた。普段は寡黙で、多くを語らない豪炎寺の熱い告白に花織は息を吐く。ジンとした胸を抑えて豪炎寺を見つめた。宮坂は苦々しく表情を歪めたが、それ以上はもう何も言わなかった。
タイミングを見計らったかのように、沈黙の間に昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る。その試合終了を告げるホイッスルの音には宮坂も動かざるを得なかった。まだ何か言いたげではあったものの、結局すべてを悔しそうに喉の奥に押し込んだようだった。彼は花織からも豪炎寺からも視線を逸らして小さく呟く。
「……もういいです。失礼します」
そういって、ぎこちなくも頭を下げて宮坂は去っていった。小さくなっていく彼の背中は一度たりともこちらを振り返らなかった。宮坂のために、彼が納得のいく見解を出せなかったことを少々悔やむ。だがそれ以上に花織の感情を占めているのはそんな微々たる後悔ではなかった。
残された花織は、ゆっくりと後ろの席の豪炎寺の方へと視線を向ける。胸の奥からこみ上げる思いが、どうしても堪えきれずに花織は表情を綻ばせる。
当の豪炎寺の方はすましかえって、いつも以上に何も言わずに視線を逸らした。
「ありがとう、豪炎寺くん」
「いや……、割り込んですまなかった」
「ううん。私がここで話し始めちゃったから……。ねえ、それよりね」
花織は少しだけ、背もたれから身を乗り出して豪炎寺の顔を覗き込む。柔らかくも喜びを隠しきれない、嬉しくて仕方がないとばかりに微笑を浮かべて花織は囁く。
「私、豪炎寺くんが一郎太くんのことをあんなふうに思っててくれて嬉しい」
豪炎寺の姿を、花織の夜の海のような眼差しが捉えて甘く絆す。彼女の瞳にはどこまでも純粋な風丸一郎太という男への愛情が裏打ちされていた。
「事実だからな」
ぶっきらぼうに短く吐き出し、豪炎寺は再び机に両腕を組んだ。あんまりにストレートで熱の籠った言葉だったから照れくさかったのかもしれない。耐え難いものから逃れるように豪炎寺は顔を伏せ、花織から表情を隠してしまった。
「……俺はもう寝る」
もう授業も始まるというのに。花織は肩を竦めてくすくすと鈴を転がしたように笑う。よっぽど恥ずかしかったのか。でも本気で眠る気なのかもしれない。時々、豪炎寺が授業中に居眠りをしている姿を見ることがある。予習をしてくるほど真面目なのに意外だと初めてみたときは思ったものだ。
「……もう」
花織はそっと豪炎寺の机に手を乗せる。親しみを込め、花織は豪炎寺の耳元に少しだけ顔を寄せる。彼の隠された横顔を花織は微笑ましく見つめる。
何時も頼りになる彼の風丸への熱い信頼が嬉しい。そして彼の冷静沈着でいつも背中を押してくれる頼もしさに信頼が募る。豪炎寺の傍に落ちそうになる髪を耳にかけ、はにかみながら花織はそっと彼に向って囁いた。
「寝ちゃダメだよ」
終わりかけた昼休みの、騒々しい空気の中に花織の声が溶ける。豪炎寺の肩が至近距離から放たれた花織の言葉でわずかに強張ったような気がしたが、それ以上彼は微動だにしなかった。
何も言わず起き上がることもせず、豪炎寺は授業開始までずっと顔を伏せたままだった。