FF編 八章
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数時間後、サッカー部の練習を終えた風丸と花織はふたり、馴染みの河川敷サッカーグラウンドへ足を運んだ。出会ったばかりの頃から今まで、速さを競い合うことからボールを蹴り合うことへ形を変えてもふたりして練習に明け暮れるのは変わらない。
世間一般的な学生カップルのようにもっとおしゃれで楽しい場所に遊びにいくだとか、買い食いしながら放課後デートを満喫するだとか……。そういうものは未だに選択肢に乏しく、彼らにとっての恋人らしい時間のすべては、この部活後の泥まみれの練習に集約されていた。
ただ今日は普段とは様相が異なる。
いつもなら日が暮れるまで、お互いに疲れ果てるまでボールを蹴り合う風丸と花織が、今日はサッカーボールを抱えたまま、隣り合わせにベンチに腰かけて微動だにしない。グラウンドには他の利用者の姿もなく、思う存分に駆けまわれる絶好のチャンスだというのにふたりの眼差しにグラウンドは映っていなかった。
「……一郎太くん」
「どうしたんだ?」
ハーフパンツの裾をいじっていた花織がおそるおそる彼の名を呼んだ。だが、その返事が適切ではないことを彼自身もよく分かっていた。
どうかしているのは自分の方だ。今日、練習前に陸上部に顔を出してからずっと心の中がぐちゃぐちゃに乱れている。とはいえ、原因はあまりにも明々白々としていた。宮坂の「陸上部にいつ戻ってくるのか」という言葉だ。
「……ずっと気にしてるんだね。宮坂くんに言われたこと」
「…………」
核心を突く花織の言葉に風丸は力なく微笑んだ。青髪のポニーテールが彼の心を表すように揺れ、長い前髪が彼の表情に影を落とす。この件に関して風丸は隠し事が壊滅的に下手だった。
陸上部から戻ったあとの風丸のコンディションは最悪の一言に尽きた。グラウンドを離れるまでは百発百中だった炎の風見鶏が、陸上部から戻ってきてからは一発も決まらなくなってしまったのだ。それもすべてゴールの枠を完全に外していた。彼の集中力の欠如は誰の目にも明らかだった。
「そうだな。…………ずっと考えてるんだ。サッカーのこと、陸上のこと。どっちも俺にとっては大切なものだから」
絞り出すように告げた風丸の指先が迷いを纏って震えた。
――――はじめは、助っ人のつもりだった。
円堂の滅茶苦茶な特訓と前向きな熱さに惹かれた。帝国学園という遥か格上のチームとの対戦を前にも全力を尽くそうとする姿に助けになりたいと思った。円堂がそれだけ夢中になれるサッカーというスポーツに興味があった。
……花織が好きな男が気になるという不純な動機もあったかもしれない。サッカー部に入り帝国と対峙すれば、花織のことを「サッカーの方が大事だ」と傷つけた男の顔をこの目で確かめられるとも思った。
期間限定、帝国学園との練習試合限りの助っ人のはずだった。それが、フットボールフロンティアの出場を掛けた尾刈斗中学との試合も人数が足りないからと、その先も当たり前のようにサッカー部に居続けていた。気が付けばサッカーは彼の心の深くに潜りこんでいた。
今となっては自慢のスピードをどうやったらサッカーに生かせるかを考えてばかりだ。どうすればもっと速く相手を抜ける? 足を生かすためのトラップの方法は? あれだけ誇りだった陸上のタイムのことが霞むほどにのめり込む。いつしかサッカーが生活の、何より花織との交際の中心にあった。
「花織、花織だったら……と、いうか。花織はどうするんだ、陸上に戻るか?」
縋るような眼差しが花織に向けられる。彼女の答えは風丸にとって指針のひとつ。サッカー部に来た一因にも彼女の存在があった。花織も自分と同じように答えを出しかねて悩んでいるかもしれない。花織が自分の道に迷うなら、共に悩みたいと思った。彼女のために知恵を出して考えたい。ふたりで手を取りあえば、この泥沼から抜け出す答えが出るはずだと確信があったのかもしれない。
「私は…………」
掠れた声に導かれて花織は静かに口を開く。伏した眼差しが彼に向けられると風丸は戦慄し揺らぐ。花織の瞳の色から彼は己の淡い期待が脆く砕け散ったことを悟った。
「私は、陸上には戻らない」
凛々しいまでに花織の答えは決然としていた。その瞳に宿る、一片の迷いもない凛麗な光に気圧されて臆して風丸は逃げるように目を逸らした。ジャージのズボンを汗ばんだ手のひらで、藁にもすがるような惨めさで握り締めていた。胸が痞えるような息苦しさ。花織の判断を聞いた瞬間、脳裏をよぎった憶測を喉の奥に必死で押し込める。
「……っ」
――――それは、鬼道のためか?
風丸は今、突然突き付けられた陸上とサッカー、二つの道に迷い板挟みになっている。しかし花織との関係にまつわる悩みはより以前から、解消もできずに彼の中に深く根を張るものだ。
花織の幸せのために、彼女を自分から解放して鬼道と結ばれるように計らってやりたい。鬼道の想いを知り、花織が強く鬼道を慕う気持ちを理解しているからこそ、身を引くべきじゃないか。花織の気持ちを想うたびにずっとそう考えている。だが、どうしても決断ができない。風丸の中の、彼が傲慢と忌み嫌う独占欲が納得をしなかった。
自分だって、鬼道に負けないくらい心から花織を大切に思っている。目に入れても痛くない、何を捧げたっていいと思えるくらいに心から花織を好きだと自信を持って言える。今の生活から花織を失ってしまう生活は、サッカーをやめる生活よりも想像できない。ボールを追いかける理由、走る理由の中にもはや花織の存在を切り離せない。
目の前にいる、他とは代えられないたった一人の大切な女の子。風丸は花織と出会って、こんなに醜い自分がいることを初めて知ったと思った。嫉妬深く傲慢で、底が見えないほど貪欲な自分がいる。
分を弁えているつもりでも、鬼道の行動に我慢するのはやっとだ。花織は俺の恋人だと何度声を荒げたくなったか分からない。他のチームメイトの男たちと、花織が一緒にいるなんてもってのほかだ。目にするたびに胸が焼け付くように痛んだ。友情だと言い聞かせながらも、花織の視線が自分から逸れることを恐れてしまう。花織は俺の恋人だと釘を刺してやりたくもなる。
サッカープレイヤーとして、自分は逆立ちしても鬼道にかなわないかもしれない。頭脳、センス、経験値……。すべてが鬼道に劣っている自覚がある。だが、陸上のタータンの上なら話は別だ。陸上という舞台の上では風丸は鬼道よりも圧倒的に優位に立てる。花織の隣を走れるのは自分だけだという絶対的な自負があった。
鬼道が花織の何を知っていようが、陸上の世界なら鬼道は観客席から指をくわえてみているしかない。選手として鬼道が介入できない世界、それが陸上のはずだった。
その陸上ではなく、花織はサッカーを選ぶ。
「女子陸上部に今更戻る気はないの。……だって戻れないでしょ?」
過去の惨事を苦々しく笑いながら花織が肩を竦める。それだけ聞けば嫌がらせや孤立から現実的な建前を置いた、納得せざるを得ない結論のようにも思えた。だが、彼女の続けた言葉が風丸の心を握りつぶす。
「それにね、私……。もう前みたいに速さに執着する必要はないかなって、そう思うんだ」
「え?」
花織の言葉を呆然と風丸が復唱した。風丸が花織の気持ちを正確にとらえているかは定かではない。しかし、花織の決断は風丸の心をさらに陰に押しやる。
「必要、ない……?」
速さに執着する必要はない。突き付けられた現実が風丸の心を蝕んでいる。共に過ごしたのは速さを求めてぶつかり合う日々だった。お互いの成長を喜び合ってきた。花織がそれを必要ないと言い切ってしまったら……。彼の瞳に映るのは失意だった。
じゃあ、花織と俺の日々はなんだったんだ。
「うん。それに……、これ以上のタイム更新は……。どうだろう、挑めたらいいなとは思ってるけど」
言葉を濁しながら、花織がそっと誤魔化すように制服のリボンをなぞって膝に手を下ろした。身体のラインを確かめるような指の動きを追いかけて、その後に風丸は花織の顔を見る。寂しげに微笑む花織の真意は読めない。陸上を諦めるつもりなのか、諦めてその先はどうする? 言葉を尽くして聞きたいのにこれ以上踏み込むのも足が竦む。
「そうなのか……?」
「そう。……でも私は走ることが好き、ボールを蹴ることも好き。だから今まで通り練習は続けていくよ」
切りそろえられた、けれども少し伸びた彼女の黒髪が肩から落ちる。持ち上げられた花織の手がそっと、膝にボールを抱えていた風丸の手の上に寄せられた。少しだけ冷えた花織の指先が彼の表面を包んでいく。
「一郎太くんの選択は、私なんかとは違ってすぐには出せない難しいものかもしれない……」
全国トップを狙える陸上部の期待の星。雷門サッカー部ディフェンスの要で、そしてキャプテン円堂を支えるチームの相談役。風丸の立場は他に行き場のない花織とは根本的に異なる。双方のチームの仲間たちが彼の帰還と滞在を願う。期待されていることは嬉しくも、すべてを納得させる結論はでないかもしれない。
どちらも大切な仲間だ。どっちを選んだと答えを出してしまうことは、一方を裏切ってしまうんじゃないか……。風丸は感情を噛み殺しながら眉間に皺を寄せた。選ぼうとするたびに過る思いだ。大切だからこそ傷つけたくないと思って結論を出すことを避けたくなる。
風丸は気づいているのだろうか……。彼がこうして「二つの部活」を選びきれない理由と彼女が「二人の男」の間で今も板挟みになり苦しんでいる理由に等しいことに。大切で、残酷なほど優しい愛情が真綿で首を締めるように彼らを追い詰めている。
「私は、一郎太くん自身の心に従うのが一番だと思うよ。分からないなら時間を掛けて悩んで……。吐き出したい気持ちがあるならいつでも話を聞くよ。それに何を選んでも私は一郎太くんの傍にいるから」
「花織……」
「……私、これからも一郎太くんと一緒に走りたい。一郎太くんがどんな選択をしたって」
どこまでも慈愛に満ちた花織の言葉。それを言い切った彼女の美しい表情がわずかに強張ったが、その微かな緊張は風丸の目に留まる前に消失していた。
「……ああ」
声の震えのせいで言葉をとどめる。気を緩めると情けない涙が零れてしまいそうだった。彼の瞳の中にはどこまでも献身的で、愛おしく彼の心を苛む花織の姿が映りこむ。
いつまで花織にこんなことをさせる……? あまりの不甲斐なさに自問自答ながらも風丸は衝動を抑え込めなかった。左手をベンチの木目にのせて体重を預ける。そしてそっと花織の頬に右手を沿えた。ころりと彼の膝からサッカーボールが転がり落ちる。
「ありがとう……。俺のために」
「ううん。……大切な人のことだもの、当たり前のことだよ」
「……」
大切な人、というあまりにも純粋な響きに耐え兼ねて言葉に唇を噛む。感情を堪え、言葉を見つけられないままに彼が顔を寄せるしかなかった。彼の想いに応えるように花織はそっと瞼を閉じて見せる。
「……」
急速に帳が下りる夕闇の中で音もなく唇が重なり合う。互いの存在を確かめるように際限なく、痛みを思いを重ね、分かち合うように切実に。人の目も憚らず、世界にふたりきりとばかりに互いを貪る。
――――全部、上手くいけばいいのにな。
そんな都合のいい願いが叶わないことは痛いほど身に染みている。ようやく風丸が顔を上げると、花織が堪えていた息をはっと大袈裟に吐き出した。夕焼けの名残を宿して、頬を赤らめた花織が潤んだ瞳を風丸に向けている。無性に愛おしくて手放せない、誰にも渡したくない。花織は自分だけのものだ。
「好きだ。……花織」
離れがたいとばかりに唇がどちらともなく寄せ合った。花織の膝からもサッカーボールが転げ落ちる。伸びた二人の影の中、二つのサッカーボールがぶつかって跳ねかえった。