FF編 八章
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赤茶色のタータンを踏みしめるのはいったいどれくらいだろう。陸上を始めてからこんなに期間が開いたことはなかった。
土のグラウンドとは似ても似つかない感触。きちんとスパイクを履いてきたのなら、スパイクのピンを噛む独特の反発まで楽しめたかもしれない。だが、今日は普通のトレーニングシューズに甘んじるのも仕方ないか。そう思いながらも、花織の鼓動は期待に速まっている。
どきどきと高鳴る胸を撫でおろし、花織は百メートル先のゴールを一瞥した。軽いストレッチを済ませて割り当てられたコースに入る。サッカー部の練習でもうごきやすいよう、普段からハーフパンツスタイルのジャージを着用していてよかった。そんなことを考えながら花織はスターディングブロックに視線を落とした。
――――走れるかな。
このところ、サッカーの練習一色だった。もちろん、基礎体力づくりのための長距離ランニングやダッシュは欠かさず行っている。けれども単純にコンマ一秒を削るために走った記憶がなかった。最後にタイムを計測したのはいつだったか……。それに影山の仕掛けた誘拐未遂事件から花織は一人で夜に出歩くことを控え気味だった。絶対的な運動量自体やや下降気味なのも懸念点だ。花織は胸にそっと手を這わせる。それに……懸念点はそれだけじゃない。
「花織」
隣のコースに腰を落としかけていた風丸が、険しい面持ちで佇んでいる花織の肩を叩いた。花織はハッとして心配を掛けないように首を振る。……余計なことを考えるのは良そう。折角の機会だ、楽しまなければ損になる。花織はパン、と太ももを両手で叩いて緊張を無理やり解こうとする。
「大丈夫。ボーっとしてただけ」
並んでスタートラインに立ち、柔軟に腰を落として構えを取る。高まる集中と反比例して周囲の雑音が無になっていく。張り詰めた空気の感覚が懐かしく浮き上がる気持ちを煽った。
ちらりと隣の風丸を花織が盗み見ると、きゅっと胸が締め付けられるような感覚が走った。懐かしい、忘れかけていた。スタート前のこの、彼の真剣な表情を見るのが好きだったことを。
「よーい――」
開川の声が響き、一瞬のタメを置いてピストルの破裂音が鳴り響いた。音を予測して地面を蹴りぬく。褪せない感覚だ、自分の身体は走ることをこれっぽちも忘れていない。低く保った前傾姿勢から徐々に上体を起こし、風を味方にして全力で地面を蹴る。感覚に衰えはない、だが違和感が身体を蝕んでいた。
「……っ」
胸元を波打つ重量感と痛みがほんのわずかに、だが確実にフォームを崩す。コンマ一秒を詰める直線スプリントにとっては致命的な歪みだ。隣を走る風丸との距離が現実にはごくわずかに、視界の上では数メートルも遠く見える。
痛みに構わずゴールを抜けた後、花織は膝に手を置いて息を吐き出す。冷や水に足を浸したような焦燥。花織にとって抗えない身体の壁を、今の走りで彼女は明確に突き付けられていた。
乱れた髪を無造作に掻き上げながら花織はやるせなく視線を落とす。今のスプリントのタイムは計ってないだろうが、結果を見ずとも自己ベストには遠く及ばないに違いない。
「さすが、風丸さんに月島さんです……! 速い……!」
焦燥に掻き乱されていた花織の近くでは宮坂と風丸が話をしていた。三着でゴールした宮坂は膝に手を付き、息を荒げて風丸を見上げる。花織に対し、風丸は他を圧倒的に突き放す、文字通りの独走を披露していた。
「お前たちもだらしないぞ。ここしばらくサッカーに行ってた風丸や女子の月島に、現役で走ってるお前たちが負けてどうするよ」
「そうはいいますけどね、風丸。前より早くなってるッすよ」
岩手の指摘は正論だった。風丸のスピードは陸上部にいたときから飛躍的に向上している。イナビカリ修練場での特訓、花織との自主練習というハードワークを欠かさずこなしている風丸だ。元より全国レベルだった走りに磨きがかかるのは至極当然ともいえた。それがせめても花織にとって救いであり、誇らしいことだった。
自分の結果は芳しくなくてもいい。風丸の走りが認められて、彼が隣で自信を持って走っていてくれるのなら……。彼の恋人としてそれに勝る喜びはないと確信している。
「ああ、見ていた俺たちもわかった。サッカー部に鍛えられたか」
「かもしれないですね。サッカー部の練習も結構ヘビーですから」
先のレースの感想が口々に飛び交う。そのほとんどが風丸の走りに向けられた賞賛だった。
「フォームも全然崩れてないんですね。僕、安心しました」
「なんでお前が安心するんだよ」
自分のことのように宮坂がほっと息を吐いたのを見て、総細が突っ込みを入れた。
「だって僕、風丸さんが走り方を忘れたんじゃないかって心配だったんですよ」
「大体簡単に崩れるようなフォームじゃ、一流とは言えないさ」
うんうんと花織は彼らの言葉に頷きながら耳を傾ける。鼻高々でいたが、その花織の表情は風丸に気が付いて眉根を寄せた。
あんなにも素晴らしい走りを披露したはずなのに、風丸は上の空のようだ。どこか険しい表情で虚空を見つめている。
「一郎太くん……」
「な、風丸」
彼の心に触れようと花織が手を伸ばしかけるが、それよりも開川の方が早かった。彼は風丸の肩を叩き、爽やかな笑顔で風丸の走りを讃えている。
「全国トップレベルの連中をこのスピードとフォームで打ち破ってきたんだからな。サッカーでもこの調子で相手を翻弄してるんだろ?」
「いや……、俺なんかまだまだですよ」
そこまで言って風丸が居た堪れないとばかりに開川から視線を逸らした。花織も彼の視線の先を追う。グラウンドを囲うように植えてある木の陰に見覚えのある特徴的なシルエットが見えた。――――栗松だ。
きっと、中々戻ってこない風丸に痺れを切らして様子を伺いにきたのかもしれない。誘われるがままレースまでしたものだから、予定以上に時間を使いすぎた。
そろそろ戻ろう、と花織が視線で合図を送ると、風丸も花織の意図を察して頷いた。
「全国でも頑張れよ」
「そうだな、応援してるぜ」
陸上部の面々はまだ伝えたりないと口々に風丸に激励の言葉を掛け続けている。しかし、そこに不服そうに口を挟んだのが宮坂だった。
「え、でもそろそろ、こっちに戻ってきてくれても」
「その話はまた今度、サッカーの練習に戻らなきゃ。……行こう、花織」
半ば強引に風丸は宮坂の言葉を遮った。彼の手は花織を引き、まるで逃げ出すように足早に陸上部員たちの輪を抜け出す。頑張れよ、という声が背中越しに聞こえても風丸は一切振り向かない。花織は風丸に手を引かれながら、彼の絶え間なく揺れるポニーテールを見つめた。
風丸は紛れもなく動揺している。自分が陸上部だったことを忘れるくらいにサッカーに打ち込んでいたのに、今この全国大会を目前にしたタイミングでいつ戻ってくるのかと現実を突きつけられたことで。
「……一郎太くん」
「……っ、あ、ああ。どうした、花織」
おずおずと名前を呼んだ花織の声に風丸が遅れて返答する。どうやら、また深く考え込んでいたらしい。きっと答えの出ない苦しみに苛まれている……。そう思うと花織はたまらずに彼の腕を掴んで、ぎゅっと身を寄せた。自分にすべてを打ち明けてくれるかは分からない。けれどできることなら風丸の力になりたいと……。そう思って花織は風丸に耳打ちをする。
「後で……、今日の放課後にお話ししよう?」