FF編 第一章
帝国にいた頃の私が、今の私を見たら驚くかもしれないと思った。
入学してから三週間ほど経って、[#dn=1#]は順調に雷門での学校生活に馴染みつつあった。皆、良くしてくれる人達ばかりだった。帝国学園にいた頃は全くできなかった友達も男女問わず何人かできていた。
陸上部では相変わらずやや冷遇されている……、というより日に日に当たりが強くなっているところはある。初日のレースの影響はそれだけ色濃く、先輩部員たちはあからさまに[#dn=1#]を邪険にした。
だが孤独では無いだけ、今の生活はかつてよりは楽しく振る舞えている。少なくとも[#dn=1#]はそう思っている。
だが、[#dn=1#]自身が一番驚いているのはそこでは無い。
もっとも仲良くなった友人というのが、女子ではなく男子であったということ。そしてそれが他ならない彼であるということだ。
「お待たせ[#dn=2#]」
「風丸くん、お疲れさま」
以前、秋が言っていたことはどうやら的を射ていたらしい。風丸とは特に気が合うようだった。みるみるうちに[#dn=1#]は風丸と親密になっていった。双方の陸上にかける熱意、特にスプリンターとしての誇りが彼らを強く惹き付けていた。
部活後に待ち合わせて一緒に自主練習に勤しむのは最早日課になりつつあったし、今日なんかは部活は休みだからと風丸の提案で河川敷辺りで走ろうということになっているのだ。
そして今に至る。陸上グラウンド脇のベンチで風丸を待っていた[#dn=1#]は、やってきた風丸に気づいて微笑んだ。
「待たせて悪かったな、うちの担任話が長くてさ」
「ううん、全然待ってないから大丈夫だよ。じゃあ行こっか」
意気揚々と立ち上がり、[#dn=1#]は風丸の隣に立って歩き出す。
「ああ! あ、そういえば着替え……」
「実は制服の中にもう着てるの、だから大丈夫だよ」
「はは、準備万端だな」
すっかり打ち解けたのだと思う、少なくとも中学生に上がって知り合った同世代の人達の中では。こんなに気軽に誰かと言葉を交わせる日常が[#dn=1#]は嬉しくて、とても新鮮だった。
風丸とも知り合ったばかりだなんて……、むしろその事実の方が信じがたいくらいだ。[#dn=1#]にとってはもう切り離せない生活の一部にように感じられている。
「あれ、こっちじゃないの?」
正門とは反対の方へ曲がった風丸を見つめて[#dn=1#]が足を止めた。彼はこっち、と[#dn=1#]の袖口を軽く引く。
「[#dn=2#]、裏門から出ようぜ」
「……裏門?」
「ああ、裏門からの方が河川敷までは近いんだ」
言われるがまま、風丸に連れられて正門とは反対側に進んでいく。転入して少し時間が経ったとはいえ、[#dn=1#]はまだ広い雷門の敷地内を把握しているわけでは無い。
心霊現象の噂がある場所、不良の溜まり場だから近づいてはいけない場所など、何となく小耳にはさんでいるものもある。しかし、まだ授業に関係している教室と陸上部に関係ある場所くらいしか行ったことがなかった。
教員用の駐車場を抜け、裏門から校外へ出る。こちら側から外に出たことはなかったから、[#dn=1#]は見慣れない景色に視線をきょろきょろと周囲を見回す。
「初めてなんだな、こっちから帰るの」
「うん……、だから知らない場所みたいに見えちゃって」
はぐれないようにと風丸の隣に沿いながら、[#dn=1#]は彼の言葉に応えた。ただ出る場所が違っているだけなのにこうも違って見えるものかと思った。少し進んだところには稲妻総合病院と書かれた大きな病院がそびえているのには、今初めて気が付いたりした。
しばらくふたりで他愛のない話をしながら歩いた。今日の授業の何が難しかっただとか、あの教員のクセがどうだとか……。些細なことだったが、彼らの会話は弾んで声は途切れない。
「……あ」
しかし角を曲がったところで一瞬、[#dn=1#]の視線が風丸から逸れて会話が止まった。
何やら彼女は風丸の背後を見ているらしい。風丸は不思議に思って背を振り返る。彼の後ろには昔懐かしい雰囲気のある駄菓子屋があった。どうやら彼女が目に留めているのはこれのようだ。
「寄っていくか?」
興味津々な様子を[#dn=1#]の視線から察して風丸が微笑む。彼の提案に[#dn=1#]はぱっと顔を輝かせたが、すぐに残念そうに眉根を寄せて首を横に振った。
「ううん、大丈夫。だってお店で買い食いとかって……」
おそらくは校則で禁止されているだろう、と[#dn=1#]は思ったのだ。なんせ、帝国学園在学中は寄り道というものすら禁止されていた。
これから練習のためとはいえ、一度も家に帰らずに河川敷に向かうのも彼女としては正直グレーではないかと思っているくらいだった。
「別に怒られたりはしないさ。多分校則でも禁止されてないしな」
俺もたまに寄るんだ、と風丸が言って店の中に足を踏み入れた。
「えっ、風丸くん……!」
本当に問題じゃないのか……、正直不安は拭えたわけじゃないが……。だが少なくとも風丸が一緒なら大丈夫なはずだと[#dn=1#]は戸惑いながらも信じて彼の後に続く。
思ったよりも中は広かった。店の中には溢れんばかりのお菓子が並べられていて十円、二十円と手書きの値札が掲示されている。
それにお菓子だけではなくアイスや簡易的なおもちゃなども所狭しと置いてあるようだ。隅には文房具やノートの区画があるところを見るに、元々雷門の生徒が立ち寄ることが想定されているのかもしれないと思った。
「……わぁ」
いらっしゃいませ、と声を掛けてきた店主と思しき老婆に会釈をしながら、[#dn=1#]は感嘆の息を漏らして興味津々に周囲を見た。風丸はそんな[#dn=1#]の横顔を見つめ柔らかく表情を緩める。
「初めてか? 駄菓子屋来るの」
「うん、あんまり馴染みがなくて……。どういうところかは知ってたけど、前に住んでたところは近くになかったから」
だからとにかく新鮮に感じていた。一つ一つのお菓子の値段にも驚きだが、店の雰囲気も風情があっていい。
「そっか、俺は円堂とたまに来るんだ。……円堂ってほら、[#dn=2#]に俺を紹介したヤツだけど」
「秋ちゃんと同じサッカー部の……、仲いいんだっけ」
「ああ、アイツとは小さいころからの付き合いなんだ。熱くてまっすぐなヤツでさ、こういうとこ来て子供みたいにはしゃぐんだよな」
風丸が円堂について語る姿を[#dn=1#]は微笑ましく感じ、同時に羨ましくも思った。
彼の口ぶりからは円堂に対する親しみと信頼が伝わってくる。友人としての繋がりが深く存在しているのだろう。円堂の方もきっと同じように思っていることだと思う。だから頼りになる存在として、風丸を[#dn=1#]に紹介してくれたのかもしれない。
そういうところが羨ましいのだ。[#dn=1#]にはそんな深い繋がりを得られた人間はいない。……あったとしてもすでに切れてしまっている。
「そういえばサッカー部に助っ人に行くこともあるの? 秋ちゃんから聞いたんだけど」
「たまにな。サッカー部って部員足りないんだ。だけど円堂は一生懸命だからさ、力になってやりたいんだよ。パス練習とかそういうのだったら俺も手伝ってやれるから」
「……」
ぎゅうと胸が締め付けられる感覚が[#dn=1#]の中に走った。風丸は何気ないことだと言わんばかりだが、簡単にできることではないはずだ。
転入してきてから風丸と一緒にいるから分かる。彼は誰よりもひたむきに陸上と向き合っている人だ。努力の上に彼の実力は成り立っている。他の競技にかまけている時間を惜しいと思う気持ちもあるのではない。
それにサッカーは脚を使うのだ、万が一怪我なんかしようものなら走れなくなる。その危惧がない訳では無いはずだ。
それなのに己の時間を割き、怪我のリスクを抱えてまで友のために。……自分にはない考えだった。だからこそ[#dn=1#]は胸を打たれた。
――――どこまでこの人は優しいの。
あまりにも未知で温かな人だと思った。
「あ、これ。この間円堂たちと食べたんだよな。この間は円堂が当たりを引いて……」
ふふっと思い出し笑いをしながら、風丸がお菓子を一つ手に取る。楽しそうに友のことを話す風丸の姿から、[#dn=1#]は目が離せなかった。彼の穏やかな茶色の瞳は深く慈愛に満ちている。[#dn=1#]にはそう感じられた。
❀ ❀ ❀
「買ってみるか、俺たちも」
話の終わりに、思いついたように風丸が呟いた。
「えっ?」
「食ったことないならせっかくだしさ」
風丸はそう言いながら並べられているお菓子の中からチューインガムを手に取った。パッケージには”超すっぱい!”との記述がある。
[#dn=1#]は駄菓子屋初体験なのだろう。このまま見て帰るだけっていうのも味気ないと風丸は思った。
さっき入店した時の[#dn=1#]は目を輝かせて店の中を見ていた……。普段落ち着いている彼女があんな顔をするのは新鮮だと思った。もっと色んな顔を見てみたい……。そう思うがまま風丸は続けた。
「な?」
「……うん、それじゃあ」
半ば言われるがまま頷いた[#dn=1#]を見て、風丸はそのチューインガムと他いくつかのお菓子を適当に取る。そして店主の老婆に声をかけ支払いを済ませた。ふたりで店の軒先に出て、先に話題に上がったチューインガムを彼は取り出す。
「これさ、3つ入っててそのうちの一個がめちゃくちゃすっぱいってやつなんだ」
「うん……」
「先に選べよ[#dn=2#]、一緒に食べてみようぜ」
そう言いながら風丸はケースに三つ並んだチューインガムを[#dn=1#]へ差し出す。彼女は躊躇いながらも恐る恐る手を伸ばした。見た目は全て同じ、淡い黄色のガムだ。
[#dn=1#]は少し宙で手を迷わせたあと、右のガムを手に取った。[#dn=1#]が選び終えると続いて風丸が真ん中のガムを手に取る。
「よし、じゃあ運試しだな」
先に自分が食べて見せるべきだろう、そう判断して風丸は先にひょいと口の中にガムを放った。数回咀嚼してみると、甘いレモンの味が口に広がっていく。……どうやら、当たりではないようだ。
「セーフみたいだ」
そういって風丸は[#dn=1#]に笑って見せた。[#dn=1#]はガムを手のひらに乗せたまま、風丸の顔を凝視してばかりいる。
なんだか始終、彼女は不慣れな様子だった。買い食いに対しても躊躇いがあったし、やはりこういうことに慣れていないのかもしれないと風丸は思った。だったら、尚更リードしてやらないと。
「ほら、[#dn=2#]も」
「う……、うん」
風丸が促すと[#dn=1#]は彼と同じようにガムを口の中に放り込んだ。一度、二度……、彼女が口を動かす。
「んーっ!」
弾けたみたいに彼女の黒髪が跳ねた。[#dn=1#]は大きく目を見開いたかと思うと、慌てて口を抑えてきゅっと固く目を瞑る。どうやら、当たったらしい。
「ははっ、当たったみたいだな。大丈夫か?」
酸味に翻弄されている[#dn=1#]を見て、風丸はくすっと笑ってしまう。彼女を気遣ってそっと小さな背中を撫でた。
おかしい、というよりも微笑ましいと思った。普段は大人しくて言葉少なく、そして走っている時は誰も寄せつけず凛としている[#dn=1#]がそんな顔をしているのが。
徐々に口の中の酸味が落ち着いてくるとようやく[#dn=1#]は息がつけたようだった。
「びっくりしたぁ……、思ったよりずっと酸っぱかったから」
「だろ? 初めてだとびっくりするよな」
美味しいけど……、と[#dn=1#]がガムを転がしながら口を尖らせた。ちらりと風丸を見上げて視線を落とす。両手で覆ったその頬はうっすらと桃色が差している。
「私、絶対ヘンな顔になってた……」
「そんなことないって。むしろ……」
可愛いくらいだった。そう言いかけて風丸は咄嗟に口を噤む。気をつかっている訳でもなく心からそう思った。だが、だからこそ口から言葉が出なくなってしまった。
「……えっと」
意識すればするほど心臓の音が激しく主張し始める。出会った時から顔立ちは整っているとは思っていた。それにクセのない黒髪は前から綺麗だとは思っていた……、けれど。
改めて[#dn=1#]の顔を見つめる。ぱっちりとした目に長い睫毛、黒髪を引き立てる雪のように白い肌。贔屓目に見なくたって彼女は可愛いと言われる部類だ。
だが、彼女を引き立てるのは表情に現れる感情の豊かさなのかもしれない。
初めはあまり愛想が良いとは言えないと思っていた。人見知りなのか、どことなく壁を感じるとも。だが、一緒に過ごしているうちに風丸は気づいたことがあった。最初の印象に反して[#dn=1#]は思ったより感情が顔に出る。
そしてそのどれもが風丸には印象深く魅力的に見えていた。楚々とした振る舞いも、走る時の凛とした姿も。さっきの慌てぶりや照れた表情も。何より時折見せてくれる心からの笑顔は、他の誰にも感じたことの無い感情を風丸の中に吹き込ませる。
可愛い、そう思ってしまったせいか、やたらと目の前の彼女が特別に見えた。
「風丸くん?」
小首を傾げて[#dn=1#]は風丸の顔を覗き見た。その姿すら無性に心を揺さぶるものがある。じっとこちらを見つめる眼差しに風丸は気恥ずかしさが途端に込み上げるのを感じた。顔に集まった熱に耐えかねて、さりげなく彼女から顔を逸らす。
「いや……な、なんでもない。そろそろ行こうぜ」
理由の分からない胸の高鳴りを隠そうと、彼はきゅっとカバンの紐を握りしめた。