FF編 第七章
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同時刻、ところ変わって静寂の観覧室。かつて鬼道と花織が共に過ごした場所に彼らの姿はあった。フィールドが一望できる二人だけの秘密の場所。時と言葉を積み重ねた密室だ。状況だけはあの頃を取り戻した部屋の中、二人の距離は遠い。
「試合前にお前にどうしても伝えたいことがあった」
鬼道は花織に背を向け、窓枠に指を滑らせながら水を打つ静寂に鬼道が声を響かせる。花織はその声に黙って耳を手向ける。鬼道のマントの裾がひらひらと彼の身じろぎと共に揺れているのを見ていた。顔を上げることに対するわずかな拒否感が花織の視線をそこに縫い留めている。
「花織……。お前はあの日、俺が言ったことを気にしているか? ……お前が転校する前日の」
「……気にしないと、思いましたか?」
”身の程くらいちゃんと弁えておけ。……悪いが俺は、お前なんかに興味はない”、”俺はお前なんかより、サッカーの方が大事なんだ”。
今でも鮮明に覚えている、凍り付く彼のゴーグル越しの眼差しと声色まで一切を。
月島花織の価値を否定し、踏みにじる言葉。花織にとってそれは、今でも夢に見ると泣いてしまうほど苦しい記憶だった。あの言葉に縛られなかった日はなく、思い出すだけで感情が波打った。あの日の拒絶と否定は、数か月経った今でも花織の心を蝕み続けている。
「忘れてくれ」
「え……?」
「花織」
自分を呼ぶ声に花織は顔を上げざるを得なかった。ゴーグル越しの眼差しが花織を貫く。サッカーをしている時とも、普段言葉を交わす時とも違う瞳に覚えはある。この観覧室で、幾度となく自分を見つめていた熱が花織に向けられていた。
「あの時のことは……、どうか忘れてくれ。あれは決して俺の本心なんかじゃない」
「どういう、ことですか……」
心臓がうるさく音を立てているのを花織は背筋を伝う汗とともに鮮明に感じていた。本心ではない……、もしあの日の言葉を嘘だと彼が言い切ってしまうのなら。花織がこれまで雁字搦めになっていた迷宮の出口が見えてしまう。白と黒を返すように何もかも明らかになって。
「総帥と決別した今なら言える。……花織、俺は」
鬼道の眼差しが柔らかくも花織の心に滑り込む。記憶よりもさらに燃える眼差しで、この観覧室で数えきれないほど抑えつけられた言葉。出会ったばかりの頃から、鬼道有人が胸中で囁き続けてきた言葉を初めて花織の前で口にする。
「俺はお前が好きだ」
槍のような鋭い何かが胸の中を突き抜けた感覚があった。部屋に佇むあまりの静けさに唾液を飲み込むことさえ憚られる。花織だけに真摯に向けられたゴーグル越しの瞳から、目を逸らすことはどうしてもできなかった。
かつては焦がれてやまなかった言葉、その眼差し。だが、今となっては疑念が胸の底で闇を巻き上げる。すべてを真実として受け止められるほど花織は無垢ではない。
「鬼道、さん……」
「お前と風丸が恋人同士であることは理解している。だが、それは俺がお前を諦める理由にはならない」
彼の言葉には一切曇りがなかった。封印し、抑えつけていた言葉を心のままに打ち明けていた。今にも鬼道が手を伸ばし、あの頃のように自分を抱きしめてくれるような気がして花織は瞳を潤ませる。
だが……、もう遅いのだ。鬼道の気持ちには応えられないと唇を噛む。花織の心はもう、鬼道のためだけに存在していない。
「今更、そんなことを仰っても……」
「この場で答えを出せというつもりはない。だが花織、俺との交際を真剣に考えてほしい」
関係の変化を求める視線の圧に追いやられて、花織はとうとう視線を逸らしてしまった。そしてふるふると力なく首を横に振る。鬼道の想いは受けられない。花織の心を占めるのはその想いだけだった。
今の自分には風丸一郎太という大切な人がいるのだ。どんな時も寄り添って自分を優しく守り続ける風丸を、鬼道のために捨てることを花織は考えられない。
「お前は風丸を本気で想っているのか?」
しかし、動揺する心に鬼道の言葉が鋭く切り込む。一歩、また一歩と近づいてくる鬼道の足音に花織の心は引き裂かれてしまいそうなほど張り詰めていた。本当に、想って……。鬼道が思う以上に花織の心にその言葉はさらに鋭利に突き刺さる。
「……」
言葉が出ない花織の手をそっと鬼道がとった。花織の手をそっと自分の胸に押し抱き、鬼道は乞うように花織の顔を覗き込んだ。彼の速い鼓動が手のひら越しに伝わってくる。まるで、彼の心に直に触れさせられているような感覚だった。
「すまない、風丸に対するお前の気持ちを侮辱したいわけじゃない」
鬼道の指がおとがいに掛けられる。滑り込むような甘い声が花織の心を過去に引き戻そうとする。彼と同じスピードまで自然に胸の鼓動の速さを引き上げられる。
「手帳に綴ってあったお前を気持ちを読んだ。あの思いが今もお前の中にあると俺は信じている。……さっき春奈に言い切った言葉だって嘘じゃなかっただろう。お前は今も俺をここに置いてくれている……」
熱を帯びた指が花織の頬を滑って、見つめ返す黒色の眼の裾をそっと撫でつけた。
「言葉にしてほしいだけだ。……俺を、求めていると」
陶酔に身を任せてしまいそうになる言葉。すべてが変わったあの日にもしこの言葉を告げられていたのなら、この心は間違いなく鬼道に捧げたはずだ。だが、レンズに覆い隠された瞳を想いながら、花織はどうしても首を縦にふることができなかった。
こうして瞳を見つめていながら、花織の心の中には温かい茶色の眼差しが焼き付いて離れない。それに……、この熱烈な思いさえ別の感情を埋めるための代わりなのかもしれない。その疑惑が鬼道をこの場で受け入れる判断をさせなかった。
「……っ」
鬼道の胸を押して花織は彼から距離を取る。俯いた視線を上げることはとてもできなかった。秒針の動きが感情を急かすせいで余計に声が出ない。
震えるまま言葉を噛み殺す花織に鬼道はそれ以上は迫らなかった。足元の動きで鬼道が時計を振り返ったのが分かった。もうすぐフットボールフロンティアの決勝戦が始まる。
「考えておいてくれ。お前の想いは改めて聞く。……いい返事を期待しているぞ」
それだけ言い残して鬼道は観覧室を去っていった。一人残された花織ははっと、息を吐いて酸素を取り込む。迫られる選択をどう決断していいかは分からない。だが今は切り替えなければとようやく視線を上げて、この部屋唯一の出口を見た。
―――― 一郎太くんが待ってる。
まずは雷門を、彼の勝利を精一杯応援したい。現実逃避かもしれないが、返事が今すぐに要らないと言ったのは鬼道だ。……それに、鬼道と二人きりで会うつもりはもうない。
花織は風丸との約束を胸に反芻する。今日は彼に言われて例外だった。でも、”二人きりで会わない”と風丸に固く約束しているのだ。このまま振り切ってしまいたい、鬼道の告白はすべて聞かなかったことにしたい。
「……今更、もう遅いの」
彼の指が走った目じりに触れながら蹲る。己の心でありながら荒れ狂う心の手綱を引くことは花織にはできなかった。