FF編 第七章
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迫る試合開始まであと二十分を残していた。風丸は春奈に呼ばれて人気のない帝国学園の通路に足を運んでいた。別段、彼は春奈と仲が良いわけではない。もちろん選手とマネージャーとしての関係は築けていたが、それ以上でも以下でもない。特に下級生の春奈に呼び出され、するような話は思い当たらなかった。
「風丸先輩、あの……。試合前に言いにくいことなんですけど」
「ああ、どうしたんだ音無」
単刀直入に話を切り出し始めた春奈の言葉を邪魔せずに続きを促す。いつも元気はつらつとして好奇心に輝く春奈の明るい瞳が、今日は不満と悲しみで曇り切っているように風丸には見えた。彼女はここまで来ても言葉を迷わせていたようだが、決意と共に顔を上げ風丸を見据えた。
「風丸先輩……、花織先輩と別れた方がいいと思います」
「え……?」
狭い通路に緊張に強張った春奈の声が響く。思いにもよらなかった言葉に風丸は一瞬呆けてしまった。どういう意味だ、俺じゃ花織に相応しくないってそう言いたいのか。そんな言葉は喉につっかえて出てこない。風丸は苦し紛れに微笑み、自分の中に過った不安を悟られないように肩を竦めた。
「急になんだよ。音無、なんでそんなこと思ったんだ?」
「だってっ! 花織先輩がお兄ちゃんとコソコソしてるからっ! 花織先輩、前はあんなに風丸先輩の想いに応えたいって言ってたのに……。それなのにあの人にベタベタして、風丸先輩の想いをばかにするようなこと」
「お兄ちゃん?」
「帝国の、鬼道有人のことです」
一瞬、目を見張ったが風丸は何も言わなかった。鬼道と春奈が兄妹という事実は衝撃的だ。しかしそれよりも、風丸は春奈が花織に向ける辛辣な言葉の方が気になっていた。花織と春奈は同じマネージャー同士仲良くしているようだったし、春奈は花織を先輩として慕っていたはずだった。その春奈にここまで言わせるなんて……。
「……」
とはいえ、何があったのかは想像に容易い。春奈はおそらく今日の鬼道と花織を、寄り添う二人の姿を見たのだろう。傍から見ればさぞ仲睦まじく見えたんじゃないか。春奈の表情から嫌でも目に浮かぶ光景に、風丸は毒づく感情を胸の中に押し殺す。
あの二人の間で何があったのかは知らない。……知りたくないと心の中では叫んでいた。アイツらが愛を囁き合って、それ以上のことが二人の間にあったかもしれない……。想像さえ身を焼くような痛みだった。耳に入れてしまったらすべてが実際に起こったことだと確定してしまう気がして、さっきだって花織に鬼道と何を話したのかなどと一言だって聞けなかった。
心の澱を吐くように風丸はため息をつく。こんなことを考えても仕方がない。何度も自分に言い聞かせてきた言葉を風丸は心の中で繰り返す。
俺が知る必要のないことだ。花織はずっと鬼道のことが好きだったんだから。俺は花織にとって鬼道の代わりで、そうあることで花織が笑ってくれることを望んでる。そうだ、俺は花織に幸せになってほしいだけだ。その想いを噛みしめながら風丸は口を開く。
「忠告は嬉しいよ、音無。でも変な思い違いはしないでほしい」
「思い違い……、ですか?」
正気を疑うとばかりの表情を浮かべる春奈に風丸は深く、自分の心に杭を打つように頷いた。口元に浮かべた余裕ぶった微笑は崩さない。
「花織は別に二股掛けてるわけじゃないし、俺に黙って変なことをしてるわけでもない」
「そんなこと……、花織先輩が風丸先輩に帝国学園にいたときのお兄ちゃんとのことを話してるってことは知ってます! でも今は風丸先輩と付き合ってるでしょ? だったらどうしてあんな……っ」
春奈がわなわなと唇を震わせる。肩をそびやかす春奈からは、隠しきれない鬼道と花織に対する怒りが察せられた。しかしそんな苛立ちも受け流して風丸は静かに首を振る。
実の兄と尊敬していた先輩の不貞だと、その一言で片づけられる事象ならその憤りも当然のものだ。だが、実際はそういうわけでもない。鬼道にとっても花織にとってもこうなるしかなかった悲恋なのだ。風丸は訴えかける。
「音無、花織が本当に好きなのは鬼道なんだ」
それは自分にも言い聞かせるための言葉だった。凛として言い放った風丸の言葉に春奈は一瞬怯んだ。風丸の目に浮かべる寂しさとやるせなさ、言葉にできない感情が湛えられていたからだ。春奈が初めて目の当たりにする風丸の表情だった。
「花織は優しい奴なんだ」
「優しいって……。同情で風丸先輩と付き合ってるなら逆にそれは酷いんじゃないですか? 風丸先輩の気持ちを弄んでるってことでしょ?」
「違う」
批判を一刀両断し風丸は冷静すぎる眼差しを春奈に向ける。
「音無、お前は花織からどこまで話を聞いてるんだ?」
「どこって……。花織先輩が転校してきて、風丸先輩とお付き合いするようになったこと……。花織先輩はお兄ちゃんのことが好きだったけど、風丸先輩がそれでもいいって言ったんでしょう?」
風丸はゆっくりと首を振った。春奈のその答えは正解ではあるが、曖昧で大雑把だ。状況を読み取る茶の瞳が穏やかに細められる。花織はすべてを話しているわけじゃない。だが、花織が話していない部分にこそ自分たちの関係のすべてがあると風丸は思っていた。
「花織はさ、俺のこと一回振ってるんだ。好きな人がいるから俺とは付き合えないって」
「……え?」
呆気にとられた春奈がぽかんと口を開けた。彼女にとってそれは新事実だった。花織はかつて風丸との関係についてこう言っていた。”私が好きな人と一郎太くんとの感情で板挟みになっているとき、一郎太くんが寄り添ってくれた。今は代わりだと思っていいから、いつか俺を見てくれないか” そう言ってくれたのだと。風丸を振ったなどという言葉は一言もなかった。
「花織は俺が押し付けた気持ちと鬼道への想いで苦しんで……、髪を切らせるほどアイツを追い込んでしまった。俺は苦しむ花織に付け込んで、この関係に持ち込んだんだよ」
「……」
「俺と付き合い始めてからも花織は俺に何度も別れてくれって言ってる。帝国との練習試合で鬼道と再会した後とかにな。鬼道を忘れられない、俺に酷いことをしてるからって。……でも俺が花織を縛ってる。鬼道の代わりでいいはずだったんだ。だけどもう代わりをする必要もないのに、いざってなると踏ん切りがつかなくて俺の気持ちにずっと花織を付き合わせている」
全て事実かもしれない、風丸の述べた言葉は。だがこれは風丸の主観によってやや捻じ曲げられている。この説明こそが風丸の中での真実だからだ。風丸にとって花織は被害者で、非難される謂れはない。好きな人を貶められたくない。……その感情がより花織の恋の悲劇性を際立たせる。
「花織は俺の想いにずっと応えようとしてくれてる。鬼道にだってもう会わないと約束してくれてたんだ。だが、その花織の約束を踏みにじって今日鬼道の隣に花織を居させたのは俺の意志だ。……この状況はすべて俺自身の自業自得だ」
そして感情とは別に、意図的に風丸は花織が被害者に見えるように春奈に語っていた。自分と別れた花織が鬼道と結ばれる近い未来を誰にも非難されてほしくない。鬼道に乗り換えたなんて誤認をされたら、花織はチームに居られなくなる。そんな針の筵に花織を立たせるわけにはいかない。風丸の瞳には固い自己犠牲の精神があった。
「だからさ、音無」
胸が張り裂けそうな想いを殺して風丸は笑う。
「俺の踏ん切りがついたときには、花織が風丸と上手くいくように応援してやってくれないか。……そろそろ覚悟を決めるから」