FF編 第七章
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疑念は花織の口を塞ぐには十分すぎた。今も帝国学園に仕掛けられた影山総帥の罠を探すことに尽力していたが、探索の際の鬼道との会話は明らかに減っていた。どのような罠が想定されるか、意見を交わすことさえしなかった。
鬼道は影山総帥の企みを阻止することに注力している。花織の動揺をはっきりとは察していないようだ。むしろ、刻一刻と迫るタイムリミットに鬼道の表情に焦りが見え始めている。ただ、それでも繋げて沿わせた花織の手を放そうとはしない。その手を見つめて花織は微かに顔を顰めた。
――――こんなことを考えている場合じゃない。
鬼道が花織に抱いている感情。この場面でその核心を突くことがどんなに愚かな選択かを花織は理解している。今は、チームに危機が迫っているかもしれない。風丸の安全のために思考を割くのが最優先。何度も自分に言い聞かせて心を鎮めようとする。
そもそも、花織の疑念は積み上がった状況から導き出した推論に過ぎない。正当性など全くないのにそれでも花織の心を蝕む。それは鬼道の存在が花織の心を占める割合の大きさの証明だった。
もしも、鬼道さんが一度も”私”を見ていなかったのだとしたら……。それは恋心を踏みにじられるよりも遥かに苦痛な事実になる。
だからといって、今自分の些末な感情を明らかにして鬼道に精神的な負担をかけるつもりはない。花織は彼から視線を逸らし、別の通路に視線を向ける。瞬間、鋭い怒号が通路に響き渡った。
「何をしているの⁉」
思わず花織は身を竦める。振り返らなくても声の主はハッキリとしていた。きっと、先ほどの鬼道の態度に納得できずに追いかけてきたのだろう。つかつかと二人のもとに歩み寄ってきたのは彼の妹の音無春奈だった。
「どういう意味だ」
「だから、アップもせずにここで何をしていたの、って聞いてるのよ! しかも無理やり花織先輩を連れ出して」
「お前には関係ない。……行くぞ、花織」
ヒートアップしている春奈に対し、鬼道の声は地を這うように冷ややかだった。春奈を一瞥し、マントを翻して背を向けようとする。交流を禁じているとはいえ、ここまで冷淡にする必要があるのか。……そうでもしなければ、欲に負けるとでもいうように鬼道は徹底した態度を貫く。
「花織先輩!」
だが、鬼道に従うままの花織の足をとどめたのは春奈だった。鬼道が掴んでいるのとは反対側の花織の手を春奈が捕まえる。
「春奈ちゃん……」
「一緒に戻りましょう、花織先輩! この人と何があったかは知りませんけど、こんな人と一緒にいるべきじゃないです! 風丸先輩も待ってますからっ」
切実に叫ぶ春奈に花織はぐっと唇を結んだ。兄の冷酷な態度に傷ついていないわけがない。それでいながら、花織と風丸を気にかけてくれている春奈の行動に花織の胸は痛んだ。とてもその手を振り払う気にはなれない。
「花織」
鬼道が花織の手を強く引く。板挟みになった花織が鬼道を振り返ると、彼はそれ以上は何も言わずに首を横に振った。
何も言うな、黙ってついてこい。彼は花織にそう告げている。深呼吸をして花織は心を落ち着ける。なるべく春奈を刺激しないよう、宥めるような口調で花織は春奈に言葉を掛けた。
「ごめんね……、今はまだ戻れないの」
「どうしてですか⁉ ……先輩は雷門のマネージャーじゃないですか。なんでこの人についていくの? 風丸先輩を傍で応援しようとは思わないんですか? どうして!?」
その言葉は圧倒的に正しい。怒涛の質問に花織は言葉を詰まらせた。まっすぐすぎる春奈の視線に耐えられず目を伏せてしまう。
春奈の言うとおりだ。きっと誰もがそう思う。だが、今ここで鬼道の手を放して雷門に戻ることはできない。鬼道さんはあなたのために戦っているのだと事情を明かすこともできない。今できる最善の対応は。わずかな間で花織は答えを選ぶ。そして鬼道の貫く信念ために口を開いた。
「どうしてって……、鬼道さんが好きだからだよ」
ゆっくりと伏せてしまった視線を持上げて花織は春奈を見つめる。口にしたからには、その声にも表情にも毅然とした覚悟があった。何故か緩んだ鬼道の手を抜け、春奈の手を花織はそっと振り払った。靴音が微かに地面を蹴る。
感情に蓋をし、惨めで正直な感情を演じて花織は鬼道の胸に飛び込んだ。咄嗟に抱き留めてくれた腕の中で、花織はポーカーフェイスであり続ける鬼道の顔を見つめる。
「鬼道さんが好き……。私を見つけてくれた日から今日まで、ずっと私のすべてだった。だから鬼道さんに私は着いていく。鬼道さんがそう望んでくれるなら」
「花織……」
力を強める彼の腕に身を委ねて花織は目を伏せる。
……そう、すべてだったのだ。彼の本心に疑念があっても振り払えるほど簡単な気持ちじゃない。心を踏みにじられても嫌いになれなかったのだ。
「……っ⁉ 先輩の言ってた帝国の人がお兄ちゃん……?」
花織が完璧に鬼道に心酔する女を演じてみせると春奈は目に見えて狼狽えた。だがそれでも怯んだのは一瞬だった。困惑を振り払うように春奈はぶんぶんと首を振った。そしてさらに花織に詰め寄る。
「でもこの人は……‼ 鬼道家に行ってから、私たちが別々の家に引き取られてから、一切私と連絡を取ろうとしなかったんですよ? たった二人の兄妹なのに……っ。きっと私が邪魔になったんです」
心の澱を吐くように涙を浮かべて春奈が叫ぶ。痛切な言葉に花織の胸は痛んだ。春奈は鬼道の真意を理解していないだけ……。鬼道の胸に添えた手が、彼に縋れずに力なく握りこまれる。鬼道だって春奈と同じくらい寂しい思いをしていた。邪魔だなんて思っていない、むしろ私が……。
「違う」
兄妹の仲に立ち入って、分かったような口を利く資格は花織にはない。だが、それでも……。鬼道を酷く言われることは我慢がならなかった。
「鬼道さんは春奈ちゃんのことを」
「先輩言ったじゃないですか! ……酷い振られ方をしたんだって。この人は一度は先輩のことが邪魔になったくせに、先輩が雷門にとって価値が出てきたから先輩の気持ちを利用するつもりなんですよ!」
「でも……っ、鬼道さんは‼」
「花織先輩には風丸先輩がいるじゃないですかっ‼」
突き付けられた究極の言葉に花織はこれ以上反論の余地はなかった。胸を突き刺す現実に抉れた痛みが走る。ガラスに亀裂が走るように、花織の心が音を立ててひび割れる。衝撃に喉が詰まって花織は口元を手で覆った。
どんなことを言っても、どんな状況にあっても。状況をおかしくしているのは花織の不誠実な対応だ。
この瞬間、春奈の目に花織はどんな風に映るだろう。日々あれだけ一郎太くん、一郎太くんと彼のことばかりでいた花織が今も鬼道がすべてだと言い切ったのだ。風丸がどんなに花織のために心を砕いているかを知りながら……。春奈からすれば鬼道も花織も、自分の為なら簡単に人を切り捨てられる残忍な人間に見えたに違いない。
「……っ」
だが花織が吐き気を催したのはそれが理由ではない。鬼道に抱いていた疑念が見事に己に跳ね返ってきたからだ。自分の残酷さがありありと胸に突き付けられる。
仮に鬼道が春奈に会えない寂しさを花織で埋めていたのだとしても、”月島花織”を見ていなかったのだとしても。自分には傷つく資格さえないことを花織は理解した。
――――私自身がずっと、一郎太くんを鬼道さんの”代わり”にしていた。
自分という存在に確証が持てなくなる。花織の恐怖は一瞬で塗り替わった。鬼道が自分を通して春奈を見ていたように、自分は風丸を通してずっと鬼道を見ていたのではないか。鬼道に向けてしまった最も嫌悪する推論は、自分にも向けられるのではないか。
そうじゃない、違う。私は一郎太くんだから、彼だから好きになれた。……そう言い切りたいのに自分さえ信じられない。
「もうやめろ。花織、時間がない。……コイツに構っている暇はない」
小さく震え始めた花織の腰を鬼道が抱き寄せる。力がこもった手が花織の底の見えない恐怖を断ち切らせて我に返らせる。それでいながら、春奈への冷徹な鬼道の態度は最後まで一貫していた。春奈の目に涙が浮かぶ。
「貴方は……、貴方はもう優しかったあのお兄ちゃんじゃない、他人よ!」
失意の叫びと共に春奈は走り去ってしまった。自分を支えている鬼道の手が自分と同じように震えているのを感じ取った。あまりのやるせなさに花織は目頭が熱くなるのを抑えられない。
「鬼道さん……」
「……」
「出過ぎた真似でした……」
自分がしゃしゃり出たことで鬼道と春奈の関係をますます悪化させてしまったかもしれない。花織は唇を震わせて息を吐く。ゴーグルの奥に悲しみを湛えた彼の表情が痛ましい。自分がここにいなければ、鬼道はこんな顔をしなくて済んだか。花織が言葉を重ねる前に鬼道は静かに花織の手に触れた。
「気にするな。……お前は何も悪くない」
初めからことごとく選んだ二択が間違っていたような気がする。自分の行動は誰のためにもならない、ただ誰かを傷つけ引っ掻き回しただけだ。圧し潰されそうな自己嫌悪の波に花織が顔を歪めると、鬼道はそれを自分のものとするように花織の手を取りなおす。絡み合った指先は同じ温度まで冷え切って、手のひらに重なった鼓動を握り締めていた。