FF編 第一章



 翌日、[#dn=1#]は朝のランニングを早めに切り上げ、早めに学校へ向かうことにした。学校に着いたらもう一度昨日の礼を風丸に伝えようと思ったためだ。改めて考えてみると、昨日一日でどれだけ彼の世話になったか分からない。

 ――――彼は優しい人で、それに……。

 昨日の別れ際に咄嗟に口走った言葉を思い出す。後になって風丸と一緒に走れたことはとって楽しいことだったのか、と[#dn=1#]は思った。あの時は考えるよりも先に体が動いて……、勝手に言葉が口から出ていた。

 確かに、彼に走り負けたことは今でも悔しいし負けたくなかったと思っている。ただ……、時間が経てば経つほど思うのは、もう一度彼と一緒に走りたいということだ。

 一緒に走って、彼の走りで盗めるところは盗みたいと思う。……いや、そういう話でもないか。

「[#dn=2#]さん!」

 通学路を歩いていると後ろから聞き覚えのある声が[#dn=1#]を呼ぶ。振り返ると後方に女の子の姿があった、雷門中の制服だ。彼女は[#dn=1#]のクラスメイト、木野秋で間違いない。[#dn=1#]は足を止め、秋がここまでやってくるのを待った。

「おはよう。木野さん」
「おはよう。[#dn=2#]さん、朝早いんだね」

 明るく朗らかに秋が微笑む。

「ねえ、一緒に学校行かない? 色々お話したいから」
「うん、ぜひ」

 秋からの提案に[#dn=1#]は頷く。秋はよかった、と安どした様子で[#dn=1#]の隣を歩き始めた。

「[#dn=1#]ちゃんって呼んでいいかな?」

 他愛のない話をしながら[#dn=1#]は秋と学校への道を歩いた。こういう友達との通学も[#dn=1#]にとっては新鮮だった。帝国学園にいたとき、[#dn=1#]は仲のいい友人というものをほとんど持っていなかったのだ。

 孤独な時間が長かったからこそ、こういう中学生にとって当たり前のことですら楽しいことのように思えた。

「あ、そういえば。昨日陸上部はどうだったの?」

 次々と出てくる秋の質問に[#dn=1#]は順を追って話をしていく。あまり上級生とはうまくやれなかったが……、それ以上に色々あったことを。[#dn=1#]はあるがままを話したつもりだったが、話題のほとんどは風丸のことばかりだった。

 彼の走りが圧倒的であったこと、また走ろうと優しい言葉を掛けてくれたこと、そして家まで親切に送り届けてくれたことなど……。語れば語るほど秋は驚いたようだった。

「そうなの? 風丸くんが」
「うん。……優しい人だね、彼って」
「確かに、優しい人には違いないんだけど……。サッカー部もよく助けてもらってるし」

 秋は首を傾げながら続ける。秋によれば何でも風丸はサッカー部キャプテンの円堂と仲が良く、円堂のためにと部員の足りないサッカー部の助っ人に行くこともあるらしい。

「だけど風丸くんが女の子と一緒にいるところってあんまり見たことなかったの。だから少し驚いちゃった」
「ふぅん……そうなんだ」
「うん。風丸くんと[#dn=1#]ちゃんは気が合うのかもね。……だけど、面倒見がよくて優しいのはさすが風丸くんって感じ」

 風丸くんの家、こっちの方向じゃないんだよ。秋はくすっと笑いながら[#dn=1#]にそう言った。

「……えっ」

 秋の言葉に[#dn=1#]は驚く。昨日、彼は自分の家の帰り道のことを何も言わなかった。聞いても俺もこっちだから、としか言わなかったのだ。[#dn=1#]を家に送るためだけにわざわざ遠回りをしたのか。……でも、どうしてそこまで。

 いや、昨日の彼の行動を思えばおかしくないことかもしれない。彼はどこまでも親切な人だった。

「ごめん。木野さん、私ちょっと先に行くね」
「あっ、[#dn=1#]ちゃん!」

 居てもたっても居られずに[#dn=1#]は走り出す。秋が[#dn=1#]の名を呼んだが振り返らずに学校へ急いだ。

 少しでも早く風丸に会って話がしたいと思った。どうして自分なんかにそこまでしてくれたのか……、どうしても今すぐ彼に聞きたい。

 数分も走れば雷門中に到着した。[#dn=1#]は脇目もふらず、舞い散る桜の花を置き去りにして駆け抜ける。校舎横を抜け、陸上グラウンドを目指した。

 昨日、一緒に練習したときに男子陸上部は朝練も行っていると聞いていた。きっと彼はそこにいるはずだ。

「……はっ」

 視界の開けた先、陸上グラウンドを見る。練習する陸上部員たちの中から風丸を見つけ出すことは容易だった。彼の姿は探すまでもない、あれだけの存在感を放っておいて。

 [#dn=1#]の到着と共に号砲が響き、風丸が地面を蹴って走り出す。

 初めて、彼の走りを客観的に目の当たりにした。スタートした瞬間から、ぐんぐんと勢いを伸ばし他の選手たちを置き去りにして彼はコースを駆ける。

 弾むように軽やかに、舞い踊る青は流麗に彼の軌跡を描いていく。優美で、なによりも走ることが好きだという溢れんばかりの熱意がここまで伝わってくる。

 思わず、一歩前へと踏み出してしまいそうになる。今まで見てきた誰の走りよりも目を惹かれた。

 胸がどきどきしているのは、ここまで走ってきたからじゃない。……あの姿は、まさに。

「あ、[#dn=2#]さんじゃないですか!」

 グラウンドの外周をランニングしていた宮坂が[#dn=1#]を見つけて声を上げた。彼はニコニコと明るい笑みを浮かべて、どうしたんですかと[#dn=1#]に問いかける。

「練習見に来たんですか? それとも一緒にやります?」

 まだ心拍が整っていなかったが、[#dn=1#]はなるべく落ち着きを装って首を振る。

「……う、ううん。ちょっと風丸くんに用事があって」
「そうなんですね! じゃあ俺、ちょっと呼んできます」

 風丸さあん! と宮坂が彼を大声で呼びながらグラウンドの奥の方へと走っていった。[#dn=1#]は走ってきたせいで乱れてしまった髪をさりげなく整えて背筋を伸ばす。そして遠目に見える風丸と宮坂の姿を見守った。

 風丸は宮坂の声に首を傾げていたが、宮坂が指さした方に[#dn=1#]の姿があることに気が付いて彼女のところに駆け寄ってきた。

「おはよう! どうしたんだ[#dn=2#]」
「おはよう。……あの、昨日のお礼をと思って」

 秋から聞いた話と、先ほどの彼の走りと。自分の心の中がまとまっていないせいで何から言い出したらよいものかと[#dn=1#]はまごついた。それでもまずは昨日の礼からだと思い、[#dn=1#]はありがとうと改めて頭を下げる。

 風丸は一瞬きょとんとした表情を見せたが、すぐに表情を和らげた。

「ああ、そんなことか。別に気にしなくたって」
「でも、お家の方向反対だったんでしょ? どうして、そこまでして……」
「……え? なんでそんなこと知ってるんだ?」
「木野さんからさっき聞いたの。……私、本当にごめんさい」

 謝ることしかできなくて[#dn=1#]は再び頭を下げる。風丸は当然のようにこんなことをするけれど、これは友人となれば当たり前のことなのだろうか。[#dn=1#]はそうは思わない。

 そもそも風丸とはもう友人と呼べる距離感なのだろうか……? それすら帝国学園時代に友人の乏しかった[#dn=1#]には分からない。帝国学園で[#dn=1#]を気にかけてくれたようにみえた人はたった一人だけだった。

 風丸は謝るなよ、と慌てて[#dn=1#]の方へと手を伸ばした。しかし彼女の腕に指先が触れると、その華奢な身体に逆に驚いてしまって慌てて手を引っ込める。

「なっ、なんで[#dn=2#]が謝るんだ? 昨日も言ったけど、俺の勝手でやったことなんだから……」
「でも……。だったら、せめて何かお礼をさせてほしい」

 [#dn=1#]の方も食い下がらなかった。強情な[#dn=1#]の姿勢に風丸が困ったように頬を掻く。彼からすれば別段特別なことでもなかった。

 昨日はもう時間も遅かったのだし、女子を独り歩きさせるのはどうかと、そう思っただけだったのだ。だからそれに何か礼をと申し出られても返答に困った。

「そう、だな……。それじゃあ……」

 しばらく風丸は眉間に皺を寄せて悩んでいたが、何やら妙案を思いついたらしい。ふっと表情を緩めてみせた。[#dn=1#]はじっと彼を見つめて言葉を待つ。爽やかな風が風丸の髪を揺らした。

「それじゃ……、また今日の練習の後、少し付き合ってくれないか」
「え? でも、そんなことでいいの?」

 戸惑いを隠せず[#dn=1#]が風丸を見つめる。そんなことが彼の厚意への礼になるだろうか。

 なんせ彼の提案は[#dn=1#]にしてみれば利しかない。[#dn=1#]自身が風丸と走りたい理由はいくつもある。だが[#dn=1#]には、彼が[#dn=1#]と一緒に走りたいという理由が見つけられない。

 何を言っても[#dn=1#]のスピードでは風丸には敵わない。昨日の勝負を見れば火を見るより明らかだ。そんな自分と彼はどうして走りたいと思うのか。

「ああ。[#dn=2#]のスピードに俺は興味があるから」

 興味がある……、彼の言葉は[#dn=1#]にとってとても好意的に聞こえた。自分の存在と走りを認めてもらえたと、そう感じられるのは、かつての経験のせいだろうか。風丸の言葉は脳裏に響く声に重なる。[#dn=1#]は純粋に彼の言葉に喜び、顔をほころばせた。

「わかった。ありがとう、風丸くん」

 また彼と走ることができる。……それにさっきの走りも素晴らしかった、もっと近くでみてみたい。一緒に走りたい。

 放課後を思うと[#dn=1#]は今までに感じたことのないワクワクとした感覚がこみ上げてくるのを感じた。

 走るとは、一人でどこまでも深く突き詰めていくものだと思っていた。けれども誰かと走ることに、こんなに期待が募るものなのか。

 [#dn=1#]にとって初めての感覚であった。狭い一本道だった世界が、一気に開けたような気がした。
8/22ページ
スキ