FF編 第六章



 とっぷりと日が暮れた帰り道、[#dn=1#]は形容できない怖気に背後を振り返った。

 しかし彼女の後方には薄暗い帰り道が続いているばかりで誰の気配もない。[#dn=1#]は硬く表情を強張らせながら鞄の肩ひもを握り締める。そして再び家路をまた歩き始めた。

 いつからだろう、少なくとも五分ほど前からか。自分の背後に人の気配と視線を感じている。だが、振り返って確認してみてもそこには誰もいないのだ。彼女の耳には微かに足音すら聞こえているというのに。得体のしれない何か、それが[#dn=1#]の恐怖を煽りたて、彼女の歩みを速めさせる。

 今日は一人で帰る日だった。風丸と一緒に練習した日は彼が家まで送り届けてくれるが、今日に限ってあいにく行動を別にしていた。明日に控えた地区予選決勝の為、練習が早く終わったからだ。

 これは明日に備えて身体を休めろという、新監督の命だ。そう、円堂の説得もあってあの雷雷軒の店主が雷門中サッカー部の監督を引き受けてくれることになったのである。風丸は円堂と豪炎寺と共に、その監督こと響木の営む雷雷軒により道をしてから帰ると話していた。

 そんな彼らを見送り、河川敷で自主練習を行った後、[#dn=1#]はこうして一人で帰路についているといるところだった。

 ――――ここに、一郎太くんがいてくれたら……。

 それはどんなに心強いことかと[#dn=1#]は思う。ちら、と携帯をポケットから取り出し時刻を確認する。今ならまだ、彼は雷雷軒にいるだろうか。ここからなら商店街へは自宅よりも近い。円堂たちとの時間を邪魔してしまうのは申し訳ないが、このままこの気配に家まで追跡されるのもイヤだった。背に腹は代えられない。

 思いついてしまうとすぐにも風丸に会いたくて仕方が無くなった。背後の足音を気にしながら、[#dn=1#]は進行方向を変えて商店街へと急ぐ。背中に感じる気配や視線は消えないが、雷雷軒に到着すれば息はつける。その一心で[#dn=1#]は倉庫街へと足を踏み入れた。

 人通りも少なく、街灯もまばらで本当なら明るい道を選びたいところだが、ここを抜ければ何倍も早く雷雷軒に辿り着ける。

 歩調を速めて[#dn=1#]は倉庫街を進む。焦りから走ってもいないのに呼吸が速まる。それでももうすぐ雷雷軒だと思えば、どうにか怖さを退け揮い立てた。商店街に出るまで残り二つになった角を曲がる。

 瞬間、強い力で腕を引かれ、[#dn=1#]は身体を壁に叩きつけられた。

「……⁉」
「騒ぐな」

 突然のことに声すら出なかった。

 腕をねじり上げられ、壁に胸を押し付けられる。壁に映った明らかに[#dn=1#]よりも大きな体躯の影、そして背後から突きつけられる声から。相手は大人の男だと[#dn=1#]は悟る。だが、あまりの衝撃に身体が硬直して動けない。

「[#dn=2#][#dn=1#]だな?」

 壁に顔を押し付けられたまま、腕がぐいぐいと引っ張り上げられる。縛られている、と[#dn=1#]が理解したのは腕が完全に固定されてからだった。

 ――――私の名前、なんで……?

 混乱する頭で考えようとしても思考がまとまらない。男は[#dn=1#]の前髪を掴み、ぐいと顔を覗き込む。そしてまじまじと[#dn=1#]の顔をみてから、背後で何やらごそごそと荷物を漁り始めた。

 何かを、確認している……? あまりの恐怖に[#dn=1#]の心は凍り付いていたが、震える足に力を込めて何とか踏み止まる。相手が後ろで手間取っているせいか、僅かながら冷静さが戻ってきた。

 相手は今、油断している。商店街、雷雷軒まであと百メートルもない。手を縛られていても二十秒あれば事足りる。上手く相手の意表を突ければ表通りに出られるかもしれない。

 相手が一人ならば、縛られていても自分の足なら十分に撒ける。

「くっ……!!」

 潔く判断した[#dn=1#]は、勢いに任せて身体を反転させた。制服が破れるのも、肌が擦れて傷つくのも厭わない。[#dn=1#]の抵抗に驚いている男の急所をめがけ、持ち前の脚力で足を振り上げた。

「うぐ……っ!」

 男は悶絶し、股間を押さえて[#dn=1#]の前に蹲る。その隙を付いて[#dn=1#]は全力で目的地へ向かって駆け出した。

 想像以上に手が振れないとバランスが取れない。足がもつれて今にも転びそうだ。だが、そんなことを言っている場合ではない。意地でも足に鞭打って走る。

 五十メートル以上走って[#dn=1#]はちらと後方を見て確信する。大丈夫だ、男はまだ立ち上がれていない。これなら雷雷軒まで辿り着ける。

「逃げたぞ!」

 [#dn=1#]に攻撃された男が大声を上げる。[#dn=1#]は男のその発言に臓腑を掴まれたような感覚に陥る。まさか。だが、止まるわけにもいかずに[#dn=1#]は地面を蹴る。

 商店街に出るための最後の曲がり角を曲がろうとした瞬間、その影から黒服を見にまとった二人組の男が現れて[#dn=1#]を取り押さえた。

「っ……! 放してっ‼」

 金切り声を上げて[#dn=1#]は身を捩る。だが、大人の男二人の拘束だ。[#dn=1#]の抵抗ではびくともしない。[#dn=1#]は悲鳴を上げながら足をばたつかせる。だが、その程度はものともせずに男たちは[#dn=1#]を地面に組み伏して抑えつけた。

 血も凍る恐怖が[#dn=1#]の身体を支配する。逃れられない絶望が[#dn=1#]を捕らえた。

「大人しくしてろっ!」
「いやっ‼ いやぁっ‼ 助けてっいち……っ‼ ……んんっ」

 誰かが気が付いてくれることを願い、声を張り上げても。[#dn=1#]の努力は空しく夜道に響くだけだった。必死に騒ぎ立てる[#dn=1#]に舌打ちした男は、すぐにも[#dn=1#]に猿轡を噛ませた。そのうえで視界を黒い布で覆い耳を塞ぐ。

 四肢の自由、五感の一部まで奪われてしまった[#dn=1#]にはもう、助けを求める手段がなかった。

「んん……、ん」

 それでも助けを求めて声を上げる。だがくぐもった声が漏れるばかりで意味のある言葉にも、誰かに届くような大きさにもならない。

 崖から突き落とされたような恐怖感が[#dn=1#]の心を覆っていた。あまりの恐ろしさに涙すら出ず、呼吸すらうまくできない。

 ……殺されてしまうかもしれない。お父さんお母さんにも二度と会えないかもしれない……。お父さんお母さん助けて……。お願い、助けて……一郎太くん。

 身体を抱えられ、足先が地面を擦る感覚を覚えても。もはや彼女にはどうすることもできなかった。
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