FF編 第六章
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流れる青が目もあやに翻った。その速さに翻弄されつつも、彼女は懸命にサッカーボールを捉えようと足を伸ばす。しかしボールは軽やかに花織の足を逃れ躱していく。それでも負けじと切り返してボールを狙った。それでも、彼を捕まえることはできない。
「……!」
目を見開き、自分を抜き去った姿を視線だけでもと追いかける。しなやかな動きで彼が放ったシュートがゴールに吸い込まれる光景が目に焼き付く。目にもとまらぬスピードに花織は追いつけなかった。高揚感が花織の心をくすぐる。さっきのあの姿、彼はまさしく風だった。
ゴールを決められてしまったというのに、花織の表情には徐々に笑みが広がっていく。こみ上げる気持ちが花織を突き動かして、風丸の元へと駆けださせた。
「完璧だね、一郎太くん!」
「ああ、花織のおかげだ」
いつになくはしゃいだ花織を見つめて風丸も表情を綻ばせた。
ふたりは今日もいつものように自主練習に取り組んでいた。以前、語らった風丸の必殺技の実現に向け、密かに練習を重ねていたのだ。そしてとうとう、彼だけの技を編み出した。さっきの一対一で風丸が見せた、まるで風のようなスピードのドリブルこそが彼だけの唯一の技だ。
「ううん……。私はちょっとお手伝いしただけ。一郎太くんが頑張ったからできたんだよ」
惜しみなく賞賛を風丸におくる。彼女のキラキラと輝く瞳には、風丸の必殺技完成を自分のことのように感じる喜びが映し出されていた。むしろ技を完成させた風丸よりも浮ついて落ち着かないようだ。
軽い足取りで花織はゴールから転がり出たボールを拾いに向かう。吸い付くように足裏で転がしたボールを彼女は風丸にパスとして送った。
「必殺技、名前はもう決めた?」
「ああ。疾風ダッシュっていうのはどうだ?」
花織から受けたボールを、風丸は爪先で弾き上げ左手でキャッチする。お互いに慣れた動きだった。
「きっと俺らしいんじゃないかって思うんだ」
「疾風ダッシュかあ……」
ふたたび風丸の元へ歩き出しながら花織が技の名前を反芻する。さっき体感した風丸のドリブルとフェイントは追いつく余地を絶えないスピードだった。言葉通り疾風のようにとらえることすらできなくて……。間違いなくあの技に相応しい名前だ。
彼のもとに戻って花織は風丸を見つめる。そして屈託なく彼に笑いかけた。
「うん。一郎太くんの技にピッタリの名前だね」
「ありがとう、花織」
すっと、風丸の手が伸びて花織の肩に触れた。その手は花織の身体を優しく寄せ、艷めく髪をそうっと撫でる。花織は、その手と同じ温度で自分を映した瞳を見ながら目を細めた。彼女の心の中に想いがこみ上げる。
――――この技で、帝国に一泡吹かせてほしい。
今の彼の実力を踏まえても、この技ならきっと帝国にも通用するはずだ。花織が夢描いた、彼がスピードで相手選手を翻弄する姿が現実になるかもしれない。……だが、それを実現させるためには警戒すべき点がある。
「一郎太くん。あの……、この技は帝国戦までみんなに秘密にしておかない?」
「? 秘密に?」
花織の提案に風丸は不思議そうな顔をした。当然だ、新しい技を作戦に組み込むためにはチームメイトへの周知が必要だからだ。チームメイトの把握が、戦略を広げる鍵にもなる。それは理解している。
しかし、花織の懸念は帝国のスパイの存在だ。情報を共有し、練習で披露すればたちまち彼の技の情報は帝国学園に筒抜けになる。情報を受けるのはあの帝国学園、なにより鬼道その人だ。彼なら試合の日までに間違いなく対策を講じてくる。それだけは絶対に避けなければならない。
帝国学園のスパイの存在を花織の口から公にすることはできない。だが、花織は自分にできる範囲の中で精いっぱい足掻くと決めていた。役に立つかも分からない小さな反旗だ、それでも。
たった一つだけでも雷門の、彼のことを守りたいと花織は考えていた。この技を絶対に試合で成功させたい。この技が雷門の攻撃の起点になるように。その熱意が花織を動かしている。
「切り札は隠しておくものかなって。それに敵を欺くにはまず味方からっていうから」
本当のことを言えたらどんなにいいだろう。そう思いながら花織はまっすぐに風丸を見つめる。風丸は花織の提案を受け、少し迷っているようだった。だが、花織の眼差しの真剣さを汲んで彼は頷く。
「一緒に考えてくれた花織がそう言うんだ。そうするよ」
「ありがとう」
「礼を言われるようなことじゃないさ」
話に決着がついてふたりはどちらともなく歩き始める。すでに陽は落ち始めて、あたりは暗い闇が包まれ始めていた。河川敷の街灯にぽつぽつと明かりが灯り始める。練習はそろそろ終える頃合いだ。
「腹、減ったな。花織、そろそろ行くか?」
ボールを片付けながら、風丸が問いかける。花織は彼の言葉に汗を拭きながら期待に満ちた表情で頷いた。
「うん、朝からずっと楽しみにしてたの」
❀ ❀ ❀
練習を終えたあとは風丸が花織を家まで送り届ける。これが大抵の場合のふたりのルーティンだった。だが、今日はいつもと異なる。理由は花織の両親が遅くまで不在になるためだった。
夕食は好きなものを買って、と彼女はそう言いつけられたらしい。その話をしたとき、”よかったら一郎太くんに連れて行ってほしい場所がある”と花織が改まってお願いしてきたのだ。数日前から約束をして、今日ようやくその日が訪れた。
「こんちはー」
先立って引き戸を開け、暖簾をくぐると美味しそうな匂いが鼻をくすぐる。練習の後ということもあってぐうと腹が鳴らないようにと力を込めた。好きな子の前で腹を鳴らすのは格好がつかない。
ちら、と後ろをついてくる花織を振り返る。彼女は風丸にぴたりとくっつきながら、彼の続いて店に入った。
花織がかねてより行きたかった場所、それは雷門イレブン御用達の店。”雷雷軒”という名のラーメン屋だった。元々は円堂行きつけの店で、円堂に連れられ練習終わりに風丸もよく来るようになった。それを花織に常々話していたから、彼女も一度来てみたかったらしい。
「……いらっしゃい」
髭を蓄えた店主が、ちらりとふたりを一瞥して呟いた。店主の愛想のない態度は風丸が誰と来ようがいつも通りだ。さらに店の繁盛具合も変わりなく、風丸と花織のほかには客は一人だけだった。風丸は二人で、と店主に告げながら花織をまた振り返った。花織は風丸の隣に立ち、店主のことを様子を伺うように見上げている。
――――そういえば、この人のことも花織に話したことがあったよな……。
たしかあれは、野生中との試合の前だったと風丸は思い返す。円堂の祖父の秘伝書の情報を教えてくれたのが、雷雷軒の店主だったと話をしたんじゃなかったか。頭にはラーメン屋らしくバンダナを巻き、顎まで伸びた白髭にサングラス。見るからに気難しそうだが、思いのほか面倒見がいいのかもしれないと話した気がする。実際、風丸が円堂たちとここに来た時、店主がぶっきらぼうに話に口を挟んでくることがあった。
「花織、こっち」
店主が促すのに従って、風丸は花織の手を引いた。花織は興味深そうに調理をしている店主の手元や店の中を見ていた。……なんだか、いつもよりも彼女に落ち着きがないようだ。ふたりでカウンター席に並んでかけ、風丸はメニューを広げた。
「何が食いたいんだ? 注文するから」
そう言いながら風丸はさっとメニュー表を花織に差し出した。花織はじっと、メニュー表を目で追っている。風丸も彼女の隣からメニューを覗いた。ラーメン、玉子ラーメン、チャーシュー、もやし、五目……。いつも同じものを頼んでいるから、メニューなんか確認しなくなってしまったが、改めて眺めてみるとラーメンだけでもいろいろな種類がある。
「……えっと、じゃあラーメンを」
あまり間を置かずに花織がおずおずと呟きながらメニューを指さした。風丸は頷き、店主の方へと視線を向ける。
「分かった。すみません、ラーメン二つ!」
「あいよ」
注文を受けた店主はそれに短く返事をして調理に取り掛かり始めた。目の前で着々とラーメンが作られているのを見ると、なんだか一層空腹感が増す。折角花織を連れてきたんだから、他にも何か頼むかと彼はメニュー表に視線を向ける。
「そうだな、あとは……。花織、餃子は食えるか?」
「う、うん」
彼がそう尋ねると、膝に手を置いて行儀よく座っていた花織がびくりと肩を揺らして頷いた。食べられるならと、お冷が出されたタイミングで風丸は餃子を一皿追加で注文した。
「ここの餃子旨いからさ、花織にも食ってみてほしいんだ。半分ずつ食おうぜ」
花織の空腹具合は分からないが、餃子なら分けられるし、もし食べられなくても俺が食べればいい。風丸はそう思いながら受け取ったお冷を花織の前に差し出した。風丸からコップを受け取ると、花織ははにかむ。が……、いつもに比べて表情に硬さを感じた。
「え、えっと……、ありがとう。慣れてるね?」
「まあ円堂とよく来てるからな」
「あ……、そうだよね」
喉渇いちゃった、と水を少しだけ口に含んだ花織の横顔を風丸はじっと観察する。水を飲む仕草ですら、いつもより固さがあってぎこちない。ふと、彼女と出会ったばかりの頃を風丸は思い出した。
初めて駄菓子屋に寄り道をしたとき……。あの時も花織は興味津々で、初体験におっかなびっくりといった様子だった。
「そういう花織はなんだか緊張してるみたいだな。……顔、強張ってるぞ」
実に目敏い指摘だったが、花織の傍にいる風丸にとっては容易く分かる事実であった。こういう彼女は久しぶりに見る。最近は鳴りを潜めていたが、雷門に来たばかりの頃の花織は余所余所しさ満載で警戒心も強かったことを思い出す。
「……っ、だって小学校の時以来なの。家族以外の誰かと、外食するなんて……」
風丸の言葉を受けて花織はきゅっと身を縮めた。両手で頬を隠すように覆ったが、日焼け知らずのその頬が真っ赤になってしまっている。風丸は縮こまって恥じらう花織を見て、胸がギューッと甘く痛むのを感じた。こんなことで照れてしまう彼女が酷く可愛らしい。
「……そ、そうなんだな」
ドキドキと風丸の心臓が早鐘を打ち始める。
……その言葉は嘘じゃないかもしれない。風丸の頭の中で彼女の初めてという言葉がぐるぐると回る。帝国にいた頃、花織はずっと一人だったと言っていた。勉強や陸上の練習に必死で、友達もいなかったとも。
初めて……か。そう思うと風丸の方も気持ちが逸っていく。自分が彼女にとって特別な機会を与えられたことが喜ばしい反面、これでよかったのかという焦りも込み上げてくる。
そもそも彼女と初めてくる店がラーメン屋でよかったのか。もっといい店とか、花織の好きなものとか……。それに学校帰りなんかじゃなくて、ちゃんとしたデートの日が良かったんじゃないか。考え出すと、風丸の方もどうすればいいのか分からなくなってしまって、ふたりの間には沈黙が走る。
「ラーメン、二つね」
まもなく助け舟とばかりに、コトンとふたりの前にどんぶりが差し出された。風丸はわたわたとしながら、割り箸を取って花織に差し出す。
「よ、よし食おうぜ! ほら、花織」
「ありがとう」
彼女が箸を受け取って、風丸は次に自分の分を手に取った。だが割るよりも先に、再び花織の方へと視線を戻す。じっと、彼の視線は花織に吸い寄せられる。
彼女は黒髪を耳に掛け、湯気の立つラーメンへと箸を伸ばす。麺を箸で掴み、ふうふうと冷ます姿に不思議と目が離せなかった。麺を啜るにしたって、いつも豪快な円堂ばかりを見ているせいか違う仕草にさえ感じる。
「……美味しい」
ほう、と息を吐いて呟いた花織に微笑み返す。彼女の笑顔からは先ほどの緊張は解けて消えていた。
「だろ?」
自分が好きなものを花織も美味しいと言ってくれたことが嬉しかった。風丸は頬杖をついて花織が二口目を運ぶ姿を眺め続ける。ときどき、癖のない横髪が耳から落ちてしまいそうになるたびに。汚れてはいけないとその髪を押さえてやりたくなる。
――――どうして。ラーメン一つ食うだけなのに、こんなに可愛いんだ。
目を離すのがもったいない。風丸はひたすら熱に浮かされたように花織に視線を注ぐ。ふうふうと麺に息を吹きかける仕草、レンゲでスープを美味しそうに飲む姿も。あつい、と唇に手をやるところまで。花織の何もかもが風丸の視線を惹き付けて離させない。
「おい、ボウズ」
呆れた様子の声がした。俺のことか? と一瞬事態を飲み込めずに風丸は視線を動かす。ぼうっと花織ばかりを見つめていた風丸を呼んだのはラーメン屋の店主だった。怪訝な顔で風丸が店主の方に視線をやると、店主はお玉でひょいひょいとラーメンを指す。
「早く食わないと伸びるぞ」
そこまで指摘されて、風丸はみるみるうちに顔を赤くする。ようやく自分が花織の姿に夢中でラーメンを食べることを忘れていたことに気がついた。
「っ、はい……」
慌てて風丸は箸を割った。バクバクと、心臓が全身を飲み込むほど大きな音を立てている。自分が花織に夢中になっていたことに気づいてなかったのもそうだが、それをラーメン屋の店主に指摘されたことも風丸を焦らせた。
どんぶりに顔を突っ込みかねない勢いで慌ててラーメンに箸をつけ、風丸は誤魔化すように麺を啜り上げる。
「あっ……」
すると、すっと伸びてきた指が風丸の長い前髪をそうっと抑えた。これまでの混乱に上乗せして驚き、風丸は丸椅子の上でびくりと跳ねあがる。やんわりと風丸の髪を押さえた花織は、嫋やかな手つきで彼の耳に前髪を掬って掛ける。
艶めく濡羽色の髪と同じ色の瞳が、慈愛たっぷりに風丸を見て細められた。
「髪の毛、気をつけないとついちゃうよ」
店の中の時間が一瞬止まった。ごく、と風丸の喉が大きく音を立てる。少し冷めたがまだ熱い麺が彼の喉を伝って落ちていく。身体の内側から外側まで何もかもが熱かった。
「っ、……ああ」
もはや風丸は耳まで真っ赤になっていた。先ほどの花織と同じように、今度は風丸の方が前髪をぐしゃぐしゃにしながら顔を覆った。照れくさいやら恥ずかしいやら、花織がどうしようもなく愛らしく見えるやらで風丸の胸中は穏やかではない。
いや、もはや風丸だけではなく店の中の空気が、このふたりの初々しい雰囲気に中てられていた。
「……おい。こんなシケたラーメン屋がいつからアベックのデートスポットになったんだ」
ふたりのほか、唯一店にいた中年の客が苦笑いしながら店主に声を掛ける。その声は半ば茶化すように、おおよそラーメン屋に似つかわしくない空気を指摘していた。
「知らん」
目の前で繰り広げられるふたりのやり取りに眉ひとつ動かさず。店主はネギを切りながら素っ気なく呟いた。