FF編 第一章



 衝撃的な事件から[#dn=1#]の家までは風丸も[#dn=1#]もほとんど無言だった。あれからは特に大きな事件もなかった。

 風丸は無事に[#dn=1#]の家まで辿り着いたことに安堵し胸を撫でおろす。色々あったが……、特にさっきのことは肝が冷えた。怪我させるわけにはいかなかったから、無意識にでも身体が動いてくれてよかったと思った。

「風丸くん、今日はありがとう」
「いや、こんなに遅くなって悪かった。転校初日なのに疲れたよな」

 本当に、転校初日なのに彼女にとって波乱の一日だったことだろうと風丸は思う。だが[#dn=1#]は疲れなどは一切見せず、首を振った。

「ううん、大丈夫。私こそごめんね、家まで送ってもらっちゃって」
「気にしなくていいって。俺が勝手にやったことなんだから」

 キリがないな、と風丸は苦笑する。風丸としてはなんてことない、ただ当然のことをしただけなのだが、彼女はそれを酷く気にしているらしい。本当に、やりたくてやっていることなのだから気にする必要はないのに。

 せめてそれが伝わればと風丸は[#dn=1#]に笑いかける。

「じゃ、俺も帰るよ。お疲れ」

 サッサと話を切り上げた方が[#dn=1#]も家に入りやすいだろう、そう思って風丸は足早に立ち去ろうと手を振った。しかし風丸が[#dn=1#]に背を向けてすぐ、[#dn=1#]の声が風丸を呼び止める。

「……あの、風丸くん!」
「ん?」

 風丸は走り出そうとした勢いのまま[#dn=1#]の方を振り返った。優しい春の風がそよいで艶めく黒が光を纏って輝いた。家の玄関に灯った柔らかい光が彼女に注いでその表情が鮮明に見える。

「今日は本当にありがとう。……それと」

 夜の闇の中にあるのにそれ以上に克明な、それでいて温かな色の眼差しが風丸を見つめて細められる。桜色の唇が自分の名前を紡ぎ、そして柔らかに笑むのがスローモーションのようにくっきりと見えた。

 どこからともなく風が連れてきた花びらが彼女の傍を舞って、薄明かりの中で彼女の姿を飾り立てた。彼女は風に遊ばれる黒髪を細い指先で耳に掛け、たおやかに風丸を見つめる。

「風丸くんと一緒に走れて楽しかった」

 心臓が、打ち震えるのをただ感じていた。風丸に向けられたのは彼女の、今日一番の笑顔だった。

 たった一日、今日一日だけで色々な彼女の一面を見た。控えめに佇む姿や闘争心に満ちた走りを。[#dn=2#][#dn=1#]の一面は風丸一郎太の心に大きな揺さぶりをかける。

 ただ……、何より彼の心に打ち響いたのは。まぎれもなく彼女の微笑みだった。

 風丸は完全に言葉を失って、自分に向けられる[#dn=1#]の眼差しに貫かれたままだった。顔が熱い、それどころか全身が。胸の中に流れ込む何かがどんどん熱を高めていく。

 生まれて初めての感覚だった。胸が押しつぶされそうになって、緊張に似た胸の高鳴りがある。目を離せたら楽になるかもしれないのに、それでも[#dn=1#]のことを見つめていたいと風丸は思わされる。

「気を付けて帰ってね」

 何も言えない風丸に手を振って[#dn=1#]が踵を返そうとする。ようやく身体が動く、と風丸は思った。とっさに届かないと分かっていながら手が伸びる。今度は風丸が彼女の名前を叫んだ。

「[#dn=2#]!」

 風丸の声で[#dn=1#]が振り返る。風丸は胸に走る痛みをこらえながら、心のままに気持ちを叫んだ。

「また……、一緒に走ろうな」
「……うん!」

 今度こそ、彼女が家の中に入っていく姿を見送る。風丸は彼女の姿が見えなくなってようやく大きく息を吐いた。まだ、心臓が大きく音を立てている。……本当に、なんなんだ今日は。

 不可解な気持ちを振り払おうと彼は夜の闇に駆け出す。地に落ちた桜の花びらが、彼が生み出した風と共に宙へ舞い上がった。
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