FF編 第五章
その日の晩、湯上りの[#dn=1#]はベッドに腰かけ、ストレッチを行っていた。肌に残る湯の温かさを感じながら疲れた体を少しずつほぐしていく。
そして身体を伸ばしながら、壁に掛けた今日の土産……、メイド服に視線を寄せる。もう十分温まったあとのはずなのに自然と顔が熱を持った。
……随分と、大胆なことをしてしまった。みんなの前で、あんなことをするつもりじゃなかったのに。
試合前の自分の行動を思い出し、[#dn=1#]はぱたぱたと顔を仰ぐ。自分のあの行動でみんなを白けさせ、チームの士気がガタ落ちしてもおかしくなかったのだ。
風丸に自分の気持ちを打ち明けられたのはよかったが……。恋は判断力を鈍らせる。少し慎みを覚えなくてはと[#dn=1#]は自省した。
結局、秋葉名戸との試合には多少の苦戦を強いられたものの勝つことができた。何と怪我をした豪炎寺の代わりに出場した、目金の捨て身のプレーによってだ。
彼の熱意が勝利につながる一点をもぎ取った。かつての帝国との試合で泣きながら逃げ出した彼を思えば、すさまじい成長だ。
これで、次は地区予選決勝戦……。雷門が勝ち進んだことは何より喜ばしい。とはいえ……、次の対戦相手のことを考えると気分が陰る。
東京エリアの決勝戦の相手は考えるまでもない、鬼道の率いるあの帝国学園なのだ。
今の雷門中が帝国学園と対等に渡り合えるのか、それも不安だ。サッカー部の廃部を掛けたあの練習試合では文字通りボコボコに痛めつけられた。
しかし、チームは間違いなく強くなっている。それも地区の強豪たちと渡り合えるようになった。チームの勝利は、信じることができる……。
ただ、[#dn=1#]が信用ならないのは自分自身の心の方だった。
目を閉じるとあの威風堂々とした彼の姿が目に浮かぶ。深紅のマントを翻し、フィールドを支配する圧倒的な存在。帝国学園と対峙するとなれば、彼との対面はおそらく避けられない。
ベッドに身体を横たえ、枕をぎゅっと抱きしめる。頭に浮かんだ未練を、今で上書きしようと[#dn=1#]は目を閉じた。
そうすれば[#dn=1#]を見つめて微笑む快活明朗な風丸の姿を思い描ける。彼のことが好きだ。今は、ちゃんと風丸と向き合えている。……そう思いたいのに。
『俺はな、本当にどうでもいい奴に時間を割いたりしない』
最後に顔を合わせたとき、鬼道が囁いた言葉が心に波紋を打つ。
あれはどういう意味だ。鬼道は帝国時代も、雷門に転校してからも[#dn=1#]に対して時間を使っている。……そのまま鬼道の言葉を受け止めるのなら、[#dn=1#]はどうでもいい人間ではないのか。
『[#dn=1#]』
目を閉じると、鬼道のあの眼差しが[#dn=1#]を飲み込もうとする。枕を抱きしめ、[#dn=1#]は胸の疼きを抑えた。一郎太くんがいるのに、こんなことを考えてしまうなんて……。
手を伸ばし、[#dn=1#]は床頭台に置いていた携帯電話を手に取った。ぱきっと音を立てて開いた携帯を操作し始める。風丸、一郎太……。リダイヤルから彼の名前を探し出す。
今すぐに彼の声が聴きたいと思った。こんな時間に迷惑かもしれない。でも彼の穏やかで優しい声を聞けたら、[#dn=1#]は馬鹿なことを考えなくて済むはずだと思った。
「……!」
[#dn=1#]が通話ボタンに手を添え、まさに押そうとした瞬間だった。
パッと画面が切り替わって着信通知画面が映し出される。同時に携帯電話が音を立てて着信を知らせ始めた。このタイミングで電話が掛かってきたのだ。
「も、もしもし……っ」
反射的に通話ボタンを押してしまった[#dn=1#]は、取り落としそうになる携帯を握って、慌てて耳に押し当てる。
「……いやに慌てているな、[#dn=1#]」
電話口から聞こえた落ち着いた低い声。[#dn=1#]は息を呑んだ。……この声は。
「っ……鬼道、さん……?」
確認する必要もない。
電話の声の主は[#dn=1#]が今、一番声を聞きたくなかった人物で間違いなかった。驚きのあまり[#dn=1#]はベッドから跳ね起きる。
思考が追い付かない、心臓は今にも口から飛び出てしまいそうなほど激しく脈打っていた。
「……何の、御用ですか?」
動揺を隠そうとしながら[#dn=1#]はできるだけ冷静に目的を問う。しかし声の緊張は隠しきれていなかった。それを感じ取ってか、鬼道は電話の奥で笑い声を漏らした。
「フッ……、随分な挨拶だな。……お前と話がしたかったんだ」
「……そんな、うそ」
隠そうとしていた動揺は簡単に鬼道の前に転がり出た。[#dn=1#]の心臓は激しく跳ねる。自分が何を言っているのかもわからないまま、ただその言葉を口にしていた。驚きと戸惑いが交じった声だった。
[#dn=1#]は口元を押さえて鬼道の言葉の意図を汲み取ろうとする。かつてと同じように、鬼道は信じられないことばかり言う。……真に受けてはいけないのだろう、この言葉にはきっと裏があるはずだと頭を働かせようとした。
だが、鬼道の方は[#dn=1#]の困惑など微塵も気にしていないようだった。
「嘘だと思うか? まあいい、それより時間は大丈夫か」
特に用もない、……時間は大丈夫だが。本当に何の用だろうか。[#dn=1#]がか細い声ではい、と返答を返せば鬼道はどこか満足げだった。
「そうか。……まず、お前に聞きたいことがあるんだが」
鬼道の声色が緊張感を増す。[#dn=1#]は身構え、警戒しながら鬼道の言葉を待つ。
雷門中の情報を明け渡せという事だろうか……。そういう話ならすぐにでも電話を切ると心に決める。こちらが不利になること……、彼にとって不利益を齎すことだけは答えてはいけないと肝に銘じた。
しかし、鬼道の言葉は[#dn=1#]の想像の外にあった。
「お前が使用人の服を身に着けて、風丸に奉仕をしたという情報を得たのだが。……それは本当か?」
深刻な声色で放たれた鬼道の質問に[#dn=1#]は言葉を失った。
「は、あ……?」
「写真も送られてきているが。……お前にはそういう趣味があったのか?」
使用人の服とは、メイド服のことだろうか。真面目腐った声で彼は何を尋ねているのだろう……。[#dn=1#]は呆気に取られていたが、事態を理解した瞬間、あまりの滑稽さに思わず吹き出してしまった。
……冗談、ではないのだろう。あの鬼道有人が、まさかそんなどうでもよいことを真剣に気にしているのか。
「ふふっ……。そんなことが気になるんですか?」
拍子抜けしてしまって笑いをこらえることがどうしてもできなかった。くすくすっと笑う[#dn=1#]の声で、鬼道の方の雰囲気も和らぐ。
張り詰めていた二人の間の空気が明らかに緩んだ瞬間だった。
「久しぶりに聞いたな、お前の楽しそうな声は」
鬼道の声は、まるであの頃のように優しく、今にも頭を撫でられるような温かな響きを帯びていた。どき、と[#dn=1#]は自分の胸が大きく高鳴るのを感じる。
この声を幾度となく聞いてきた。帝国学園にいた頃は、いつも……。この温かさと共に、彼は[#dn=1#]を見つめていた。
「鬼道、さん……」
「[#dn=1#]、雷門での生活は楽しいか?」
電話を持つ[#dn=1#]の手が震える。[#dn=1#]は目を伏せ、彼の言葉を噛みしめながらその問いかけに答えた。
「はい。……とても」
❀ ❀ ❀
それから時間を忘れ、[#dn=1#]は鬼道と他愛のない話をした。学校のこと、私生活のこと、世間話……。鬼道はサッカーのことは一切口に出さず会話を進めた。
むしろ、鬼道は[#dn=1#]が雷門に来てからの生活についてを何よりも深く知りたがっているようだった。……風丸の話には鬼道は一度も触れなかったが。
警戒心で一杯だった[#dn=1#]の心は、鬼道と話をしているうちにいつの間にか解きほぐされていた。
まるで帝国にいた頃に戻ったかのように、[#dn=1#]の口調は次第に鬼道に対する親しみを取り戻しつつあった。
「ふふ、そうですね。鬼道さんらしいお考えだと思います」
「ああ、お前は本当によく覚えているな」
鬼道の方もかつてと同じように柔らかに[#dn=1#]に語り掛ける。会話が途切れ、二人の間に沈黙が訪れると鬼道は静かに電話口に囁いた。
「……[#dn=1#]」
その声には、先ほどまでの穏やかさを潜め、真剣さが滲んでいた。
「お前と会ってきちんと話したいことがある」
告げられた言葉に[#dn=1#]は携帯を握り締める。
「電話じゃ……、ダメなんですか?」
「ああ、お前の顔を見て直接伝えたい」
鬼道の声には形容はできないが切実さが滲んでいた。[#dn=1#]は携帯を持ち替えて手汗をズボンで拭う。
先ほどまで忘れていた緊張を取り戻して[#dn=1#]は呼吸を繰り返した。彼の目的は分からないが、慎重に答えなければ……。答えを誤るわけにはいかない。
「サッカーのことでしょうか? ……でしたら何も」
「いや、帝国もサッカーも関係ない。俺の気持ちの話だ」
「鬼道さんの、気持ち……?」
ますます正答が見えなくなる。だが、知りたくないと言えば嘘だった。
ずっと知りたかったことなのだ。鬼道の気持ちならどんな小さなことでも。
「だから、お前に会いたいんだ。……二人きりで」
懇願するような彼の声から心が伝わる気がした。今すぐに、どんなことをしてでも鬼道の元へ行きたいという衝動がこみ上げる。
[#dn=1#]が以前のままだったら、今すぐにどこへ行けばいいかを鬼道に問いかけただろう。だが、[#dn=1#]は以前とは違う。
部屋の片隅、鞄から覗いた二色の制汗剤のボトルを横目に見た。
心に彼の姿を思い浮かべ、[#dn=1#]はなるべく抑えながら深呼吸をして心を落ち着ける。そして静かに鬼道の言葉に言葉を選びながら返答した。
「鬼道さん、あの。私……、恋人がいて、彼と約束したんです」
「……」
「鬼道さんとは、会わないようにするって」
鬼道は何も言わなかった。部屋の時計の秒針が進む音がやけに大きく響く。暫くの沈黙の後に、彼が電話口で笑う声が聞こえた。
「ほう……、何故だ?」
「なぜ、って……」
「たとえ恋人だろうが、お前と俺が顔を合わせるのを禁じることはできないだろう。なぜ、会うのを制する必要がある?」
核心を突く言葉だった。そして、鬼道が望んでいる言葉が、[#dn=1#]にもこれでわかった。
「それは……っ」
「それは……? はっきり言わなければ分からないな」
くつくつと鬼道が笑いながら言う。本当はきっとわかっているのだ。[#dn=1#]がなぜ、風丸とこんな約束をしたのかなど。
鬼道に[#dn=1#]の気持ちは筒抜けだった。そしてそれを、[#dn=1#]自身にも再認識させるためにワザと言葉にさせようとしている。
どくどくと脈打つ心臓が呼吸を圧迫する。……しかし、鬼道を前に誤魔化すなどという選択肢は[#dn=1#]の中に在りえなかった。[#dn=1#]は訥々と、自分の気持ちを口にする。
「私が今も……、鬼道さんのことを好きだからです。これは鬼道さんにとっても、一郎太くんにとっても邪魔な気持ちだから。今、鬼道さんに会ってしまったら、きっとその気持ちは大きくなってしまいます」
「……」
「だから私は……、鬼道さんには会えません」
鬼道に会うことは誰のためにもならない。鬼道が言ったのだ、身の程を弁えろと。
そして[#dn=1#]の傍には、[#dn=1#]を大切に想ってくれる風丸の存在がある。鬼道への感情はこのまま消してしまうべきなのだ。
[#dn=1#]の答えを聞き、鬼道はまたしばらく黙り込んだ。
「[#dn=1#]、俺は……」
「……」
鬼道の口から絞り出すように漏れた言葉は、深いため息と共に、[#dn=1#]の心に重く響く。だが、それ以上彼は言葉を続けなかった。
「いや、今はやめておこう。…………今日はもう遅い、早く身体を休めろ」
「鬼道さん……?」
気を悪くしてしまっただろうか、失望した? 拒絶されたあの時のことがよぎって、[#dn=1#]は無意識に縋るように鬼道を呼ぶ。不安で心が押しつぶされそうになったが、何もこれ以上言うことはできなかった。
[#dn=1#]が気持ちを堪えていると、冷静さを取り返した声で鬼道が続ける。
「すべてはお前たちとの試合が終わってからにしよう。お前の恋人をサッカーで下してからにな」
「ラフ、プレイは……」
咄嗟に[#dn=1#]が呟く。以前の試合での光景が脳裏をよぎった。雷門の選手を傷つける、最悪な試合展開。あんな試合を見るのは二度とごめんだ。[#dn=1#]の震えた声に鬼道は優しく語り掛ける。
「安心しろ、この前のようにはならない。お前たちはそのために特訓するんだろう」
「はい……」
「それと、お前が俺に会いたくないのはわかった。だがせめて、また電話をかけてもいいか。……お前とまた話がしたい」
本当に風丸のことを想うのなら、ここで鬼道の頼みをきっぱりと断らなくてはならない。
「……」
「[#dn=1#]……」
乞うように呼ぶ声が[#dn=1#]の心を揺さぶる。しかし、どう足掻いても[#dn=1#]は鬼道への気持ちを捨てられなかった。しかも久しぶりに打ち解けた時間を過ごした後となれば……、その気持ちは再燃する。
彼女の心は鬼道に対して再び開きかけていた。[#dn=1#]は苦渋の中で、間違いだと分かっている返事を口にする。
「はい、電話くらいなら……」
声が喉を通った瞬間、後ろ暗さが胸を刺した。