FF編 第五章



 マネージャーたち、戻ってきたみたいだな。

 更衣室へ続く通路のあたりから歓声があがり、風丸はちらと視線を寄せた。

 人だかりができていて姿は見えないが、秋や春奈の声が聞こえる。きっと[#dn=1#]もそこにいるはずだ。騒がしさに目を背けながら、風丸はピッチの方へと視線を向けた。

 曰く、試合に向けての準備があるのだと言っていた。[#dn=1#]たちが秋葉名戸のマネージャーに連れていかれて思った以上に時間が経っていた。

 だが、定刻通り試合も始められそうだ。むしろ、まだ少し時間があるか……、彼は時計を見ながら何気なく思った。

 [#dn=1#]がすぐ傍に立ち止まるまで、風丸は彼女の気配に全く気付かなかった。通路の方の騒ぎに意識を取られていたためだ。

 そして……、傍に立っている[#dn=1#]の姿を目にした瞬間、風丸は言葉を失う。

「……っ」

 え、とか、あ、とか意味の無い言葉が勝手に口から出ていくのは止められなかった。目の前に立っているのは間違いなく[#dn=1#]のはずなのに、理解が追い付かず思考が止まった。

 うるうるとした瞳が風丸をじっと見つめている。赤みの差した頬が白い肌に映えて綺麗で、ひいては彼女の黒髪までいつも以上に艶めいて見えた。

 目の前に立つ恋人の愛らしさに眩暈さえする。これなら、さっきの歓声にも納得できた。

 だが、その雑音すら遠ざけたのは、[#dn=1#]が小さく呟いた一言だった。

「い、いかがですか……? ご主人様」

 恥じらいたっぷりに告げられた言葉の破壊力は、間違いなく必殺シュートの威力を上回っていた。

 電撃が風丸の体を駆け抜ける。だが、衝撃を覚えたのは風丸だけではない。

 彼らふたりの傍にいた雷門の二年生が一斉に[#dn=1#]を振り返った。全員、今しがたの言葉に耳を疑っていた。唖然と口を開いて[#dn=1#]を見つめる者さえいる。

 いつも控えめで真面目な[#dn=1#]の口から、そんな言葉が出てくるなんて――。

「え、[#dn=1#]、熱でもあるの?」

 真顔でマックスがぼそっと呟いたが、その言葉は風丸の耳には全く届かなかった。ただただ、[#dn=1#]の姿に言葉に心を奪われていた。

「ご主人様……、一郎太様?」

 大真面目に、どこか甘えた雰囲気さえ醸しながら、[#dn=1#]はもう一度”ご主人様”と口にした。

 面映ゆそうに顔を赤らめ、上目遣いに風丸を見つめ続ける瞳には、筆舌に尽くしがたい可愛らしさと色香が混在していた。

 くらくらする頭を押さえたいのに指の感覚がない。見つめ続けているとおかしくなりそうなのに、それでも視線を逸らせない。指の先まですべて意識は[#dn=1#]に絡めとられて、風丸は動くどころか声も出なかった。

「あのさあ……、[#dn=1#]。風丸、完全に固まってるみたいだけど」

 硬直した風丸を見かねて[#dn=1#]の肩を叩いたのは、近くにいたマックスだった。彼は苦笑いしながら、風丸の方をチラっと見る。耳まで真っ赤に染めたまま、風丸はまるで石のように動かなかった。

「いや……、思い切ったね、[#dn=1#]。うん。……結構被害は甚大みたいだよ」

 マックスの視線が他の仲間たちへと流れる。近くにいた半田も染岡も完全に今の空気に持ってかれてしまったようだ。ぽかんと口を開けたまま[#dn=1#]を凝視している。

 さらには、ベンチに腰かけている豪炎寺ですら[#dn=1#]を見つめて視線を外さない。

「……ったく」

 やれやれ、と首を振りながらマックスはゆっくりと風丸の背に回った。そしてバン! と勢いよく風丸の背を叩く。

「ほら、起きて! 愛しの[#dn=1#]が呼んでるってば!」
「……いてっ」

 そこまでされてようやく風丸は我を取り戻した。そしてもう一度[#dn=1#]の姿を瞳に映す。そこに風丸の思考は存在していなかった。

 ただ、一つ彼の意識に浮かんだのは。このままここに、これ以上[#dn=1#]を他の奴らの目に晒したくないという衝動だった。

「きゃっ、一郎太くん……!」

 足は勝手に動き出していた。彼は[#dn=1#]の手を掴み、ピッチに背を向けて歩き出す。彼らの足音は、次第に速さを増しながら通路の奥へと消えていった。

 通路を突き進み、ようやく人気のないところで立ち止まった。

 そんなに走ったわけでもないのに、大袈裟なくらい息が上がっている。心拍も、抑まらずに全身を叩いていた。必死に動悸を押さえながら、風丸は振り返って言葉を絞り出す。

「[#dn=1#]……、あのさ」

 だが、顔は上げられなかった。二度とみれば自分がおかしくなるような気がして、風丸は俯いたまま握った[#dn=1#]の手を見つめていた。

「その格好は……」
「マネージャーはメイド服を着るんだって」
「そ、そうか……」

 [#dn=1#]の言葉で彼女がメイド服を着ている理由は納得できた。だが、それだけで説明ができないことがある。

 風丸は息を堪えて、ゾクゾクと背筋を走る感覚を抑え込む。抑えられない獰猛な感情がぐらぐらと風丸を揺さぶっている。彼は頭に手をやり、くしゃっと前髪を握った。

「じゃ、なんで……、あんなこと」
「……嫌、だった?」

 ワンテンポ遅れて返ってきた[#dn=1#]の声は微かに震えていた。風丸は思わず逸らしていた視線を上げて、[#dn=1#]の顔を見つめる。

「一郎太くん……。私、どうしようもないの」

 一心に風丸を見つめ、彼女の瞳は今にも溢れ出しそうなほど涙を浮かべていた。

「一郎太くんがメイド喫茶に行ったことが、嫌で……。馬鹿みたいに嫉妬して……、私にそんな資格、ないのに」

 言葉を詰まらせながら、ひとつずつ[#dn=1#]が心を明かしていく。彼女の言葉に耳を傾け、風丸は[#dn=1#]の言葉をかみ砕いていく。つまるところ、[#dn=1#]はメイド喫茶のメイドに嫉妬していた、というのだ。

「ごめんなさい……、変なことして。だけど、私」

 [#dn=1#]の腕を掴んだままにしていた風丸の手に、もう一方の[#dn=1#]の手が添えられる。彼女の冷えた手は風丸の手を包み、縋るように握り締めた。

「一郎太くんに、他の人を見て欲しくないの……」

 震えた声で告げられた彼女の本心に、風丸の心臓は今日一番跳ねた。

 さっきのご主人様という呼びかけにも、数日前の河川敷で[#dn=1#]が囁いた”私を見て”という言葉にも合点がいく。やっと理解できた風丸の中にある感情は単純なものだった。

「[#dn=1#]」

 触れられたままの腕を引き、そっと[#dn=1#]の身体を腕の中に抱きしめる。

 彼女の想いが嬉しかった。むしろ、嬉しくないわけがない。ずっと、今も自分が[#dn=1#]に対して抱いている感情を、[#dn=1#]が自分に感じてくれたことを風丸は知る。

 わずかにでも[#dn=1#]の心が自分に注がれている。その事実が、この上なく嬉しいことだと感じた。

「嬉しいよ、[#dn=1#]の気持ち」

 今、この瞬間だけは[#dn=1#]の瞳に映っているのは間違いなく鬼道じゃなくて俺だ。そう、実感できた。

「それにさ、俺が見てるのはお前だけだよ」

 喜びがいっそう[#dn=1#]を抱きしめる腕の力を強くする。風丸も自分の心を打ち明けると、[#dn=1#]の声がいつもの明るさを滲ませた。

「本当……?」
「ああ」

 風丸が[#dn=1#]の髪に指を絡めながら囁く。風丸は[#dn=1#]の身体を解放すると、じっと彼女の表情を見つめた。

 先ほどには無かった照れくささが風丸の瞳に映る。可愛くて愛おしくて、誰にも渡したくない。[#dn=1#]の笑顔を見ていると胸が張り裂けそうなほど痛む。

「本当にそうなら、嬉しい。……ね、一郎太くん。この格好どう?」
「どうって言われても、その……」

 言われてようやく、風丸はまじまじと[#dn=1#]のメイド服姿を吟味することができた。

 リボンとフリルで一杯のメイド服を身にまとった彼女の姿は、普段の制服姿やジャージ姿とは一味も二味も違っていた。可愛らしい衣装がいっそう、彼女の愛くるしさを高めている。

「可愛い、よ……」

 風丸の言葉は尻すぼみに小さくなって、最後はほとんど聞こえないくらいだった。しかしきちんと[#dn=1#]の耳にはその言葉が届いていた。

 彼女は花開いたように、喜びいっぱいに表情を綻ばせた。そしてぎゅっと、今度は彼女の方から風丸の腕の中に飛び込む。

「……嬉しい」

 [#dn=1#]が呟いた言葉には抑えられない彼女の気持ちが滲んでいた。[#dn=1#]はいつになく大胆に風丸の胸に顔を寄せた。

 そしてそっと、風丸の腕の中から彼の頬へと手を伸ばす。指先で前髪を払って、そっと彼の瞳を覗き込んだ。

「私、一郎太くんにそう思ってもらえるなら……。他に何もいらない」

 その言葉は風丸の心を大きく揺さぶる一言だった。

「[#dn=1#]……」

 言いたい言葉を押し殺して風丸は顔を寄せる。

 場所も時間も何も関係なかった。[#dn=1#]が目を伏せたのを合図にして、そっと風丸は優しく彼女の唇に自分の唇を重ね合わせた。強く[#dn=1#]の身体を抱き寄せて、風丸は心のままに彼女の体温を確かめる。

「ん……」

 触れ合うだけ。それでも熱く、情熱的なキスだった。

 離したくない、ずっとこのまま[#dn=1#]と一緒に。叶わない願いだと知りながら、夢を見ずにいられなかった。

 時が来たら身を引こうと決めたのに。その時のことを考えると胸が張り裂けそうになる。考えたくなくて、今は[#dn=1#]がここにいることを感じたくて唇を重ね合う。

 離れるなんて想像もできないのに、間違いなくその時は来る。

「……は」

 名残惜しい気持ちを呼吸と共に吐き出した。[#dn=1#]の顔を彼はもう一度覗き込む。

 濡れた瞳が瞬いて、柔らかで愛らしい微笑みを湛えて風丸を見つめていた。その笑顔が風丸の胸を締め付ける。思わず、目を細めた。

「……一郎太様」

 悪戯っぽい[#dn=1#]の囁きが風丸の心をくすぐった。胸がぎゅっと掴まれたような感覚。

 しかし同時にその一言がやはり何とも可笑しくて。風丸は思わず吹き出した。

「くくっ……、なんかヘンだなそれ」

 [#dn=1#]も風丸につられてくすくすと笑う。

「ふふっ、だってメイドさんってそう呼ぶんでしょ?」
「……まあ、ご主人様とは言ってたけどな」

 店での光景を振り返りながら、風丸が答えると少しだけ[#dn=1#]が頬を膨らませた。ぷいっとそっぽを向こうとした[#dn=1#]の身体を風丸は後ろから優しく捕まえる。

「こら、逃げるなよ」

 強く腕に抱きしめると、彼女はいつもよりも甘えた瞳で風丸を見上げてはにかんだ。

「……[#dn=1#]」

 ――――俺だけを、ずっと見ていてほしい。

 さっきから身勝手な想いが喉の奥から零れそうになる。ぐっと胸の奥に込み上げてくる想いを殺して風丸は[#dn=1#]を見つめた。今は、彼女がここにいてくれる。その事実だけを噛みしめて風丸は[#dn=1#]の髪に顔を埋めた。

 きっと鬼道だってこんな[#dn=1#]は見たことないだろう。[#dn=1#]は、今この瞬間の[#dn=1#]は、――俺だけのものだ。
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