FF編 第五章



 結局、今日の練習は時間がなくなってしまいお開きとなった。あれから二時間ほど経って、雷門イレブンはメイド喫茶から戻ってきた。

 戻ってきた選手たちの会話から小耳に挟んだ情報によれば、噂の通り秋葉名戸学園サッカー部はメイド喫茶に入り浸るオタク集団だったらしい。

 だが、[#dn=1#]は選手たちに他にどんな収穫があったのかをあえて聞かなかった。なんせ、選手たちが試合に向けての意気込みを新たに戻ってきたのならばともかく……。戻ってきた彼らはどこか拍子抜けしたようだった。

 それが[#dn=1#]の神経をますます逆なでしていた。自分の非を自覚しているからとはいえ、風丸がメイド喫茶に行ったという事実への苦々しい感情が掻き消えたわけではない。

 『メイドさんにあーん、なんてされちゃったら断れないんじゃないですか?』

 脳裏に春奈の言葉が反芻する。この発言は彼女の冗談だということは分かっている。だが、もしも万が一のことが起こっていたら……。

 鬱々とした気分の中に[#dn=1#]の心は沈んでいた。考えても無駄だと分かっていながら、そのくせメイド喫茶でどんな時間を過ごしたのか核心を迫る勇気もない。

 地平線のかなたに落ちていく夕日の放つ橙色に包まれた河川敷。きらきらと光る水面の輝きに反射して彼の青が眩しく翻った。

 [#dn=1#]はグラウンドから少し離れたベンチに腰かけて、ぼんやりと彼の姿を目で追いかけ続ける。

 いつもなら彼の隣を走る時間は一秒でも長く持ちたいと思う。だが今日はいたたまれなくて、疲れたから休憩すると彼と向き合うことから逃げてしまっていた。どんな顔をして彼の隣に立てばいいのか分からなかったのだ。

「[#dn=1#]」

 ぐるぐると答えの見えない思考に溺れていると、グラウンドを周回し終えた風丸が[#dn=1#]のところに戻ってきた。

「どうしたんだよ。何かあったのか?」

 軽く上がった息を整えながら風丸が[#dn=1#]の前にしゃがんだ。視線を合わせ、彼は[#dn=1#]の顔をよく見ようとした。覗きこむ風丸の表情には、[#dn=1#]に向けられた目いっぱいの心配が滲んでいた。

 無理もない。普段なら制止しても風丸と共に走りたがる[#dn=1#]が、浮かない顔で俯いているのだ。

「ううん……、何でもないよ」
「そんなわけないだろ。さっきからずっと元気ないじゃないか」

 誤魔化しにもならない[#dn=1#]の言葉を風丸は即座に一蹴する。彼は余所余所しい[#dn=1#]の態度を敏感に感じ取っていた。

 というよりも……、[#dn=1#]は感情が顔に出やすいのだ。[#dn=1#]の態度の変化は、メイド喫茶に出かける前と後では明らかに異なる。

「何か悩んでるなら話してくれ」
「……」
「俺にできることなら、何でもするからさ」

 地面に膝をつき、[#dn=1#]の表情を見上げながら風丸が微笑む。日が沈み始め、風丸の足元まで影が迫っていたが彼の温かさは陽の光そのものだった。

 風丸の手が優しく[#dn=1#]の手に触れてそっと握り締める。その手の温みがますます[#dn=1#]の罪悪感を煽る。

 [#dn=1#]自身に後ろ暗いことが何もなければ、簡単に口に出せるのだろう。

 今日、メイド喫茶に行って何をしていたの。遊んで帰ってきたわけじゃないよね、と面と向かって問いただすことが。すべて杞憂だったと明るみになれば[#dn=1#]の気持ちは晴れる。

 だが、[#dn=1#]自身がそんな言葉を許さない。自分の行いに胸を張れないくせに……、それでも嫉妬しているなんて。

 口が裂けても言えない。彼がどこで何をしていたって、[#dn=1#]が詮索する権利は欠片もないのだ。

「[#dn=1#]」

 心を探るように風丸の指が[#dn=1#]の手の甲をそっと撫でた。

 彼の穏やかな瞳は[#dn=1#]の心に寄り添おうとしている。優しい風丸の気持ちは[#dn=1#]の心を解こうとする。[#dn=1#]は言葉が零れ落ちそうになる唇をきゅっと結んだ。

 こんなふうに彼の瞳が、他の女の子を映したのだとしたら……。想像すると心の奥から黒く暗い気持ちが溢れ出る。

「一郎太くん……」

 無意識に彼の手を逃れて[#dn=1#]は指を伸ばす。[#dn=1#]の両の手は、躊躇いなく風丸の頬に触れ彼の汗ばんだ肌を包み込む。

「……え」

 ただ何も言えずに驚きを浮かべたまま[#dn=1#]を見つめていた。彼の茶色い瞳が大きく見開かれる。その瞳を見つめながら、掠れた声で[#dn=1#]は懇願する。

「……お願い」

 これ以上彼に優しい言葉を掛けられると、いらない言葉を口にしてしまいそうだった。

 ゆっくりと背を丸め、[#dn=1#]は彼に顔を寄せる。さらりと彼女の黒髪が風丸の頬に落ちた。足元まで迫った影が彼の身体を這い上る中、[#dn=1#]は風丸の長い前髪に触れる。

 髪を払えば彼の双眼が覗く……。だが彼女はそうしなかった。

 言葉を飲み込み、[#dn=1#]は前髪越しに風丸の左瞼に唇を押し当てた。鼻先に触れる彼の髪から、汗交じりの良く知る彼の匂いが薫る。は、と風丸の呼吸が震えるのを手のひらに感じた。

「……」

 影がすべてを飲み込んだあとゆっくりと[#dn=1#]は面を上げる。[#dn=1#]を見つめていた彼の瞳は驚きに見開かれ、頬は暮れてしまった夕日に負けないほど赤みを帯びていた。

 冷えた指先で彼の目じりを撫でながら[#dn=1#]は口元を緩める。彼の眼差しに映っているのが自分だけであることに言葉にできない満足感があった。

 止められなかった言葉がひとつだけ、[#dn=1#]の唇から零れ落ちる。

「私を、見て……」

 囁きには彼女の欲望が滲んでいた。口にした途端、[#dn=1#]は自分自身の言葉に身体が硬直するのが分かった。なぜ、そんな傲慢な言葉を口にしたのか、自分にも理解ができなかった。

 おぞましい感覚が身を包む。……どうして、私。

「[#dn=1#]……」

 まだ困惑している彼の声に[#dn=1#]はようやく我に返る。そして自分がしでかした行いを恥じ、慌てて風丸から視線を逸らす。

 勢いよく彼の頬から手を放して引っこめる。今の行為を誤魔化したくて、前髪を整えるふりをして顔を手で覆った。

「ごめん、私……、何してるんだろ……」
「いや……、少し驚いたけどさ」

 しどろもどろになっている[#dn=1#]の様子をみて、風丸の方が落ち着きを取り戻したようだった。照れくさそうに笑いつつ、彼はそっと[#dn=1#]にもう一度手を差し伸べる。彼女らしからぬ言葉や行動を、彼は何も言わずに受け止める。

「……[#dn=1#]」

 優しい声が[#dn=1#]を呼ぶ。温かい指が彼女の髪に触れ、[#dn=1#]がいつもそうするように耳に掛けた。

「俺、ちゃんとお前のこと見てるよ。……知ってるだろ?」

 力強い言葉だった。これまで示してきた行動が風丸の言葉の信憑性を裏付けている。

 風丸の想いはずっと前から痛いほど伝わっている。彼の言葉は[#dn=1#]が求めていた言葉であり、同時に彼女の心を苛む言葉でもあった。

 風丸の言葉に頷きながら[#dn=1#]は自問する。自分は何かを風丸に求める資格があるのか。

「……ごめんね、一郎太くん」

 強欲な願いを抱きながら、自分はどれだけ彼と向き合えているのだろう。
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