FF編 第五章


 放課後のサッカー部の部室はいつもの活気を失い、しんと静まり返っていた。意気揚々と練習に向かう選手たちの姿がそこにはなく、部室にいるのはマネージャーの秋、春奈、そして[#dn=1#]の三人だけだ。

 それでも普段ならば、マネージャーの女子三人が集まるだけで部室はおしゃべりに満ちるものだが、今日のところはどうやら様子が違う。箒が床を擦る音ばかりが部屋の中を支配していた。部室の空気はどんよりと重い。その理由は秋と[#dn=1#]の表情にあった。

 黙々と部室の掃除をしている彼女たちは深く眉間に皺を刻み、ギュッと固く唇を結んでいる。そしてその二人の様子を春奈が窺っている状況が続いていた。

 だが、いよいよ春奈が二人の様子を見かねたようだ。彼女はバケツの中に汚れた雑巾を放り込む。そして呆れを露わに腰に手を当て声を張り上げた。

「もう、木野先輩も[#dn=1#]先輩も暗いですよ! いい加減ご機嫌治してくださいっ」
「だって……」
「だって……じゃないです! みんな行っちゃったんだから仕方ないじゃないですか」

 不服そうに呟く秋に対し、バシッと春奈が事実を言い切った。それを横目に[#dn=1#]は大きくため息をついた。

 感情が顔に出やすい[#dn=1#]はともかくとして、どんな時も穏やかで明るい秋が不機嫌を顔に出しているのは珍しい。

 ことは今からおおよそ三十分ほど前に遡る。この部室に漂う重苦しい空気、彼女たちの表情の理由は、練習もせずに出かけて行った選手たちが原因だった。

 本日、フットボールフロンティア地区予選の準決勝の相手が決定した。相手チームはフットボールフロンティア出場校の中で最弱との呼び声も高い秋葉名戸。

 つまりは、トーナメント表が出た時点では雷門よりも評価が低いチームだった。

 そのため、次の試合は楽勝かと思われたのもつかの間。戦績を確認すると何と、かつて雷門が苦戦を強いられたあの尾刈斗中学が、秋葉名戸に完敗しているらしい。

 あの尾刈斗中を倒すなんていったいどんなチームなのか。戦々恐々とする選手たちだったが……。噂によると秋葉名戸のサッカー部の実態はメイド喫茶に入り浸るオタク集団、なのだという。

 メイド喫茶に何か秘密がある! 秋葉名戸の話を聞き、声高に叫んだのは目金だった。そして彼は情報収集のため、自分たちもメイド喫茶に行くべきだと主張した。

 その発言は全く持って理解不能だった。だがあまりも自信満々な彼の発言に、キャプテンである円堂が言いくるめられてしまったのだ。他の選手たちも後に続き、みんな揃って出かけていったのが先の顛末である。

 ――――メイド喫茶、だなんて……。

 馴染みのない場所への警戒と、彼に抱いてしまった不服感。それらが入り混じった感情が胸の奥のざわめきを掻き立てた。

 彼女は手にした箒の柄を痛いほど握りしめる。決して良いイメージの店だとは思えない。むしろ、如何わしい店なのではと疑ってさえいた。

 ランニング中、何度か商店街のメイド喫茶の前を通りかかったことがある。使用人服とは思えない破廉恥なメイド服を着た店員が、意味不明な言語で客引きをしていた。

 「おかえりなさいませ、ご主人様」だとか……。客も客で異様な雰囲気を醸し出していた。とにかく近寄りがたく、尋常ではない様子を垣間見た。

 だからこそ、[#dn=1#]は風丸がそんな場所に足を運んだことが気に入らないのだ。秋も円堂がメイド喫茶に行ったことが気に入らないのだろう。

 とはいえ愚直な円堂なら、目金の提案を鵜呑みにしてしまうのも、百歩譲って分からなくもないと思う。あれだけ自信満々だったら、彼なら信じてしまっても仕方ないのかもしれない。

 だが風丸は別だ。ちょっと考えれば、いや考えなくてもだ。思慮深い彼なら、そんな場所にサッカーに関係する何かなんてあるわけないと分かるはずだ。それなのに特に反論もせずについて行ってしまうなんて。

 じくじくと胸が痛む。これまで感じたことのない感覚がした。胸に重しを乗せられたような息苦しさに[#dn=1#]は息を吐いた。

 円堂が行くといった以上、風丸が着いていくのは必然だった。ただそれでも、目金の考えを一回くらい否定してくれればよかったのに。馬鹿な事いうなよと、俺は気が乗らないと一言言ってほしかった。

 ……実際、早々に病院に向かった豪炎寺はくだらないと零していた。[#dn=1#]も同じ思いだった。昼休みに豪炎寺のフットボールフロンティアへの熱意を聞いているせいか、余計に次の試合にかける気持ちの温度差に心が荒む。

「そろそろキャプテンたちはメイド喫茶に到着したころですよね。メイドさんにご主人様、なんて呼ばれたり……」
「ご主人様⁉」

 焚き付けるように春奈が悪戯っぽく笑った。それに煽られ、彼女の思惑通りに秋が声を上げる。顔を赤らめた秋の反応を面白がりながら、春奈は[#dn=1#]のことも横目に見た。

「風丸先輩も優しいですからねー……。メイドさんにあーん、なんてされたら断れないんじゃないですか?」
「……!」

 ぞわりとした焦燥が走った。開け放たれた窓から聞こえる蝉の合唱が一際声の大きさを増す。[#dn=1#]の手から滑り落ちた箒が、床に落ちてカラカラと乾いた音を立てる。

 しないようにしていた想像が一気に掻き立てられて、指先の力の籠め方が分からなくなる。

 ヒラヒラしたメイド服を着た可愛い女の子に、彼が給仕されている光景を思い浮かべる。もし、差し出されたスプーンを前に風丸が絆された顔を見せていたら……。

 ――――そんなの、……嫌。

 破裂してしまいそうなほど胸を強く締め上げられる感覚があった。ぐらぐらと足元が揺れている。どうしてこんなに胸が痛いのかが分からなくて、俯きながら[#dn=1#]はシャツの胸元を握った。

 ――――なんでこんなに苦しいの……。

 目を伏せながらやっとの思いで呼吸を繰り返す。目の奥が熱くなって、少しでも動けば涙が零れてしまいそうになる。初めて体感する強い感情だった。

 まるで見たこともない相手に彼を奪われてしまうような、そんな感覚が[#dn=1#]を脅かしている。

「ち、ちょっと、[#dn=1#]先輩! 冗談ですから真に受けないでくださいっ」
「……っ」

 想定していた反応ではないことに焦り、春奈は[#dn=1#]に駆け寄ってぽんぽんと背中を叩いた。伏せた目を開けると、潤んだ[#dn=1#]の視界に秋と春奈の心配そうな顔が映る。

「[#dn=1#]先輩泣かないでくださいーっ、本当に冗談ですから」
「だって……」
「そんなに本気でショック受けなくても、風丸先輩は[#dn=1#]先輩一筋ですって! 何にも心配しなくて大丈夫ですよー!」

 ですよね? と秋に同意を求めながら春奈が[#dn=1#]の落とした箒を拾い上げる。[#dn=1#]はその箒を受け取り、気持ちを押し殺そうと強く箒の柄を握りなおした。

 ……そうだ、彼は誠実な人だ。こんな私のことをいつも大切にしてくれるのに。

 飲みくだせない気持ちを押し込めながら[#dn=1#]は自分に言い聞かせる。一郎太くんは、私とは違う。何度も何度も胸の中で繰り返す。

「風丸先輩って[#dn=1#]先輩第一だし、ケンカしてるの見たことないし……。むしろ、それにみんなに隠れてイチャイチャしてるし。あ、そういえばこの間おふたりが河川敷で練習してるところも見ました!」

 指折りながら次々と日頃の風丸と[#dn=1#]の様子を春奈が上げていく。挙げられていくのは風丸の[#dn=1#]に対する献身ぶりばかりだ。

「いつも一緒なんですもんね!」

 こうして言葉にして列挙されると、照れくさい気持ちよりも罪悪感が勝る。[#dn=1#]は視線を落としながら春奈の言葉に深く頷いた。

「うん……。私のワガママなの。できるだけ一緒にいたくて」

 シン、と部室が静まり返る。

「一郎太くんの想いに……、ちゃんと応えられるようになりたいの」

 静かに[#dn=1#]が吐き出した言葉に秋が息を呑む。[#dn=1#]は秋に視線を寄せると曖昧に微笑んだ。

「? それってどういうことですか?」

 事情を知っている秋には言葉の核心が伝わっていたが、春奈の方に全く意図は伝わらなかった。不思議そうな顔をした春奈が首を傾げる。だが、[#dn=1#]はそれに答える気はなくて首を横に振った。

 春奈は答えを求めてさっと秋の方に視線を向ける。秋は興味津々な春奈の表情を見つつ、何も言わずに気まずげに微笑むばかりだ。

 それがますます春奈の探求心を煽ったようだ。頬を膨らませて春奈が[#dn=1#]の肩を揺さぶる。

「えー! 教えてくださいよ、木野先輩だけ知ってるなんてズルいですっ。 私、おふたりの馴れ初めとかにも興味あるのに」

 じれったさに春奈はぐいぐい[#dn=1#]に迫る。話すようなことじゃないよ、と彼女を退けようとした[#dn=1#]だったが春奈は一切引かなかった。数分の押問答が続き、とうとう根負けしたのは[#dn=1#]のほうだった。

「じゃあ、少しだけ。…………私が、どうして一郎太くんと付き合うことになったのか⁠」


 ❀ ❀ ❀


 一通り、詳細は伏せつつ簡単に。[#dn=1#]は転校してきてからのこれまでを春奈に語った。

 もちろん、語る必要のない鬼道の名は伏せ、風丸の優しさが自分を支えてくれていることを中心にこれまでの恋路を確認していく。[#dn=1#]の話に耳を傾ける春奈は神妙な面持ちを浮かべていた。

「はぁー、まるでドラマみたいなお話ですねえ……」

 一区切りついたところで春奈が大きく息を吐く。どんなときも仲睦まじい先輩カップルに、こんな複雑な事情が絡んでいるなど想像もしていなかったようだ。

 実際、風丸と[#dn=1#]の仲は誰から見ても良好で、他人の入り込む隙など与えないものに見えるのだ。

「そんな……、最低な話だよ。優しい彼に気持ちを全部返せない。……不誠実な人間の話」

 視線を落とし[#dn=1#]は自嘲する。口にすれば、どれだけ自分が風丸に酷い仕打ちをしているのかが明らかでますます自己嫌悪が募る。メイド喫茶に行ってほしくないだなんて、どの口が言えるのか。

「でも、一緒にいようって言ってくれたのは風丸くんでしょ? それに[#dn=1#]ちゃんだって風丸くんの気持ちに応えようとしてるんだし、私は結ばれるべくして結ばれたんだと思うけどな」

「ですね! それに……」

 春奈は少し間をおいて無邪気な笑顔を[#dn=1#]に向けた。

「[#dn=1#]先輩だってヤキモチ焼いちゃうくらい、風丸先輩のこと大好きなんですから」
「……!」

 ヤキモチ……。深く、胸の奥で燻っている気持ちに手が触れる。春奈の言葉でようやく正体不明だった不快感の名前を知る。

 ――――これ、が……。

「私は……、一郎太くんがメイド喫茶に行った程度でヤキモチ妬いてる……」

 重く響く感情に顔をしかめる。無論、それが何かというものは分かっているつもりだった。だが、こんなに痛く苦しいものなのか。まるで身を焼くような痛み……。

 ただ自分には抱く資格のない痛みだと[#dn=1#]は思った。少なくとも、鬼道への未練を残し、今も風丸の心と真正面から向き合えていない自分には不釣り合いで、自分勝手な感情だ。

「…………なんで、一郎太くんだけを好きだって言えないのかな」

 思い通りになってくれない己の感情に振り回されて、[#dn=1#]の表情は苦痛に歪む。

 秋も春奈も[#dn=1#]の言葉に否定も肯定もしなかった。むしろ、春奈の方は少しだけ不服そうな表情で[#dn=1#]を見つめている。沈黙があって、春奈は確認するように[#dn=1#]に問いかけた。

「今でもそんなに……、その帝国の人のことが好きなんですか?」

 春奈の言葉は”こんなにも風丸に愛されているのに”と言いたげに聞こえた。[#dn=1#]は目を伏せ、春奈の視線を避けて俯く。

「……どうしても、嫌いになれないの」

 ため息の中に言葉を滲ませる。背を向けようとしているのに、どんなに藻掻いてもこの気持ちからは逃れられない。意識してしまうと思い出す。

『[#dn=2#]』

 そう囁いて、幾度となく[#dn=1#]のすべてを支配しながら覗き込んでいた眼差しを。

『俺を見ろ』

 熱く心を溶かす言葉と、この手を握り締めていた温もりも。
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