FF編 第五章
雷門中は地区予選の準決勝まで勝ち上がった。ほんの一か月前まで部員も足りなかった弱小サッカー部が、フットボールフロンティア全国大会まであと二勝に迫っている。目覚ましい戦績だった。
だが、楽々とここまで勝ち進んできたわけではない。野生中、御影専農中ともに苦戦は強いられてきた。
特に前回の御影専農中との試合では勝利したものの、エースストライカーである豪炎寺が利き足に怪我を負ってしまった。これはチームにとってかなりの痛手だ。次の準決勝、彼は出場できない。
四限目の終わり、理科室を出て[#dn=1#]は前方を歩く豪炎寺の背中を視界に捕らえた。
授業終わりのハイテンションの生徒たちが軽々と階段を駆け上る中、松葉杖をついた豪炎寺は一歩一歩不安定に階段を登っている。実に不便そうな姿だった、ほんの一週間程度の辛抱かもしれないが……。
「おい、無理するなよ豪炎寺」
彼の傍を歩いていた円堂が心配そうに言葉を掛けている。その様子を横目で見つつ[#dn=1#]は彼らを追い越す。追い越しざま、豪炎寺の表情が苦悶を浮かべたように見えたのがわずかに心に留まった。
さて、教室に戻り昼休み。周りのクラスメイトはすでに広げた弁当に箸をつけ始めている。[#dn=1#]も片づけを終え、弁当の包みを取り出した。彼女は何気なく振り返った空席を見る。豪炎寺がまだ戻ってきていなかった。
さすがに遅すぎるような気がする。しかも一緒にいたはずの円堂はどうやら先に戻ってきているようだ。
別に豪炎寺と昼を共にする約束をしていたわけでもない。豪炎寺が昼休みに何をして過ごそうと勝手だが……。一瞬見えた彼の苦渋を浮かべた顔が脳裏をよぎる。
「おーい[#dn=1#]、飯行くだろ?」
[#dn=1#]がぼんやりと教室の出入り口を見つめていると、半田がポンっと彼女の背を叩いた。どうやら、一緒に昼を食べようと誘いにきてくれたらしい。しかし半田の笑顔を余所に教室の出入り口に視線を向ける。
「ねえ半田くん、豪炎寺くん見なかった?」
「え、豪炎寺? ああ、さっき校庭に出てってなかったか? 何か部室に用があるって円堂が」
「……そう」
目的を持って彼が部室に行ったのなら、[#dn=1#]がこれ以上心配する必要は皆無だ。しかし……、どうしてもそれで自分を納得させられない。
足が痛むんじゃないだろうか。捻挫の痛みは[#dn=1#]は身をもって知っている。数か月前にも体感しているのだからなおのことだ。
きちんと足が固定ができていなければ足が痛む。そうでなくても松葉杖片手では何をするにも思い通りには出来なかった。
[#dn=1#]が怪我をした時は、風丸が献身的に付き添ってくれたからさほど不便は感じなかった。だが豪炎寺は違うかもしれない。
――――彼は、一人で気持ちを抱え込む人だ。
チームメイトとして共に過ごした時間の中で、[#dn=1#]は豪炎寺のことをそういう人間だと判断していた。
「ごめん、先ご飯食べてて。ちょっと私、用事思い出したから」
「え? [#dn=1#]!」
肩から落ちた半田の手を気にも留めずに[#dn=1#]は教室を飛び出す。杞憂ならばそれでいい。ただ、自分自身の心配を拭わなくては悠長に食事などできない。
半田の情報をもとに[#dn=1#]はサッカー部の部室へと足を運んだ。熱い日差しから逃れて部室の戸に手をかける。ドアノブは力を籠めると容易く回る、鍵はかかっていない。
「……っ、くそ」
カチャン、と扉が開く音に混じって微かに呻き声が聞こえた。
[#dn=1#]がそっと部室の中を覗きこむ。部室の片隅、椅子に腰かけた豪炎寺が足のテーピングを巻きなおそうとしている姿が目に映った。
眉間に皺を寄せる彼の手元では撓んだテーピングの端が、好き勝手にくっついてぐちゃぐちゃになっている。……やっぱり。
事情を察し、[#dn=1#]は豪炎寺の元へと歩み寄った。
「豪炎寺くん」
テーピングに悪戦苦闘していた豪炎寺は、声を掛けられてようやく[#dn=1#]の存在に気がついたようだった。彼は驚いて顔を上げて[#dn=1#]を見つめる。瞳が震えるように瞬いていた。
「……[#dn=2#]」
「教室に戻ってこないから心配しちゃった。テーピング、ずれちゃったんだよね? 大丈夫?」
膝に手を当て、背を屈めながら[#dn=1#]が豪炎寺に問いかける。気づいていたのか、と彼の唇が小さく動く。[#dn=1#]は肯定の代わりに豪炎寺に手を差し伸べる。
「やろうか、テーピング。自分でやるの難しいよね」
だが豪炎寺は反射的に手を引いて[#dn=1#]の手をよけた。ふい、と[#dn=1#]から視線を逸らし、彼はぶっきらぼうに呟く。彼の眉がぐっと幅を寄せる。
「いや、いい……。自分でやれる」
「自分でやれる、って……」
豪炎寺の言葉を繰り返し、[#dn=1#]は豪炎寺と同じく眉間に皺を寄せた。
それができていないからこうして提案しているのだ。彼の手の中でどうしようもなくなっているテープが何よりの証拠だろう。強がりも過ぎるといいことはない、[#dn=1#]は呆れを露わに口調を少し強めた。
「そんなこといって、固定がちゃんとできてなかったら悪化するよ」
「……」
もちろん、テーピングくらい時間をかければ豪炎寺は自分で完璧にできるのだろう。だが、[#dn=1#]がやった方が早いのは間違いない。[#dn=1#]が捻挫したときも、風丸がやってくれたことがある。
昼休みは短いのだ、彼もたまには人を頼った方がいい。ふうと息を吐いて[#dn=1#]は豪炎寺に視線を送る。
「それに……、少しくらい選手の役に立たせてよ」
あえて明るい声で彼に語り掛けた。スカートの裾を整えながら[#dn=1#]が豪炎寺の前に膝をついて屈んだ。零れ落ちた黒髪をそっと耳に掛ける。そして微笑みながら豪炎寺にもう一度手を伸ばした。
「頼ってほしい。私もサッカー部のマネージャーなんだから」
ね、と首を傾げながら、[#dn=1#]は豪炎寺に訴えかける。豪炎寺は俯き、しばらくはしかめっ面を続けていた。
だが、とうとう[#dn=1#]の熱意に根負けしたようだ。というよりも、[#dn=1#]が簡単には折れないことを早々に悟ったというべきか。
「……すまない、[#dn=2#]」
仏頂面のまま、彼は渋々[#dn=1#]の方に絡まったテーピングを差し出した。[#dn=1#]は歩み寄ってくれた豪炎寺に応え力強く頷く。
「任せて。陸上部で散々してたから」
「……ああ」
頼む、と囁かれた声と共におずおずと彼の鍛えられた足が差し出された。足を安定させるための台を用意し、テーピングの絡まった部分を手早く切り取る。準備はこれで完了した。
「じゃあ……、触るね。痛かったら言って」
そうっと慎重に、[#dn=1#]は掬うようにして彼の足に触れる。[#dn=1#]の指先が触れた瞬間、豪炎寺が息を呑む音が静まり返った部室の中に響いた。[#dn=1#]の指が恐々との足の上を滑る。
痛かった、だろうか。彼の足にはまだ少し熱と腫れが残っている。
「痛い?」
[#dn=1#]は患部を気遣いながら、上目遣いに豪炎寺を見上げて問う。
「……いや、大丈夫だ」
そう言いながら視線を逸らす豪炎寺の顔は少し赤みを帯びていた。
「豪炎寺くん……、顔赤い。部室、暑いもんね」
「……まあな」
短く返事をしながら、言い訳のように豪炎寺は制服の胸元を開いた。
なるべく早く終わらせよう、実際[#dn=1#]も暑さを感じていた。今は夏、そして陽が高い時間だ。何もしてなくてもうっすらと暑さに汗ばんでくる。この寂れた部室にエアコンなんてものはない。
やはり、気がかりを無視しなくてよかった。豪炎寺がひとりでやるとなったら[#dn=1#]がやるよりもさらに時間が掛かっただろう。
[#dn=1#]は慣れた手つきで豪炎寺の足にテーピングを巻きつけていく。患部の状態を観察しながら、彼の鍛えられた足を処置していく。
「足、鍛えてるね。……すごい」
「……」
さすがはエースストライカーの足、ふくらはぎの筋肉の発達が尋常ではない。自然と[#dn=1#]の口から感嘆の言葉が零れたが、豪炎寺はただ押し黙っていた。
淡々と処置が続く。部室の外からは昼休みを謳歌する生徒たちのはしゃぐ声が遠く聞こえるが、ここにあるのは二人分の息遣いだけだった。真剣にテーピングを巻いていく[#dn=1#]の顔を、豪炎寺は何も語らずに見つめている。
「……慣れてるな」
「ふふ……、じゃないと人にやってあげようなんて思わないよ」
他愛のない言葉を交わしながら時が流れていく。部屋は蒸すほど熱いのに水を打ったように静かで、不思議なほど穏やかな空気が部室の中には広がっていた。
外からの喧騒、焦がすような蝉の声、何もかもが遠くにある。だがそれらすべては、この空間を侵すことはできなかった。
「はい、できた。……痛くない?」
最後の固定を終えて[#dn=1#]は彼の足からそっと手を放す。豪炎寺はゆっくりと膝から足を前後に揺らし、[#dn=1#]の問いに小さく頷いた。
「……ああ、すまない」
役に立てたのなら何よりだ。よかった、と[#dn=1#]が立ち上がろうとしたそのときだった。彼の胸元がきらりと光ったような気がして[#dn=1#]の視線が縫い止まった。それが何かが気になって[#dn=1#]は動きを止めた。
ネックレス……? シルバーの鎖が彼の首元に垂れ下がっている。好奇心から[#dn=1#]が首を傾げると、豪炎寺は彼女の視線に気が付いたようだ。彼は手を胸元にあて、シャツの上から隠すようにそれを握り締めた。
「……」
見られたくないのなら、と。言及せずにいようと視線をそらす。しかし、ふと[#dn=1#]は豪炎寺と初めて出会ったときのことを思い出した。豪炎寺の出会いは、[#dn=1#]が彼の落とし物を拾ったのがきっかけだった。
あの時彼が落としたのはペンダント。不思議な形の飾りがついていたことを記憶している。次の日、礼を言われた時に大事なものだと豪炎寺が話していた。そう、アレは確か……。
「スパイクの、ペンダント……」
「!」
静けさの中に[#dn=1#]の声がくっきりと浮かぶ。[#dn=1#]の言葉を受け、豪炎寺は目を見開いた。動揺に揺れる彼の瞳を見つめながら、[#dn=1#]は豪炎寺とかつて教室で交わした言葉を繰り返す。
「大事なものだって、言ってたもんね」
ジワジワと身体を蝕む暑さの中に、[#dn=1#]の声が風鈴の音のように響く。この部屋の温度よりも、窓から差し込む陽光よりも熱い豪炎寺の眼差しが、じっと深く何かを堪えるように[#dn=1#]を見つめていた。
言いたいことは山ほどありそうなのに豪炎寺は口を閉ざす。彼はそういう人間だった。
「……」
[#dn=1#]は膝に手を置いたまま、俯き爪先を弾く。言及すべきじゃなかったか。彼が黙ったということは恐らくそういうことだと[#dn=1#]は結論付ける。
言いたいことがなければ言わなくていい。無理に聞き出すつもりはない。それで信用を得られてないとも思わない。きっと言えない理由があるのだろう。
いつものようにそう片付けようとした[#dn=1#]の耳に、微かに豪炎寺の声が届く。
「……妹がくれたんだ」
「え?」
まさか答えが返ってくるとは思わなかった。[#dn=1#]は弾かれたように顔を上げた。そして長いこと黙り込んでいた豪炎寺の顔を見る。
豪炎寺は表情に薄くだが苦悶を浮かべていた。交錯した彼の視線は、普段の漲るほどの力強さを欠いていた。それどころか、これまで見たことのない脆さが瞳の中に揺蕩う。
暑さのせいか、……それとも。じわりと手のひらが汗をかいていた。[#dn=1#]は呼吸を飲み込む。絡めとられたように彼から視線を外すことができなかった。
鋭い眼差しは葛藤に揺れている。[#dn=1#]はその瞳を見つめ返しながら、何も言わずにただ彼の言葉を待ち続けた。
ついに、掠れた低い声でぽつりぽつりと彼が言葉を吐き出す。
「夕香っていって、今は入院してる」
「妹さんの……」
入院と聞き、病気? と思わず聞いてしまいそうになる口を[#dn=1#]は閉ざした。心の澱を吐くように言葉を絞り出す豪炎寺を見ていると、口を挟んではいけないと感じた。
「お守りだって言って……、俺にくれたんだ」
「……うん」
彼が一言一言短く言葉を吐き出すのを、[#dn=1#]はただ頷きながら彼の言葉を受け止めることに徹した。豪炎寺の大きな手がペンダントを握り締め震えている。彼の視線が下がり、テーピングで巻かれた己の足を忌々しげに睨んだ。
「約束した。……シュートを決めて、全国大会で優勝するって」
彼の言葉の重さに[#dn=1#]は呼吸を乱した。豪炎寺がその約束を心から重んじているのなら。この怪我は見た目以上に彼にとっての痛手なのだ。
彼の心を想像する。全国大会優勝、そう掲げる豪炎寺の目標に到達するためには、試合において一切の負けは許容されない。しかしながら、これまでのどの試合においても。雷門の攻撃の要は豪炎寺だった。
だが現実、彼はこの怪我のせいで次の試合の出場はかなわない。
次の準決勝を豪炎寺抜きで勝ち抜かなければ、フットボールフロンティアの優勝は夢と消える。……豪炎寺は己の力を発揮できないまま、妹との約束を破ってしまうことになるかもしれない。
――――約束を果たせないのは、怖い。
豪炎寺の顔を見ながら、[#dn=1#]は痛くもない己の右足に触れた。走れなくなる恐怖、己の価値の喪失と……、向けられた期待を裏切る恐怖。[#dn=1#]には彼の気持ちが正確にではなくても痛いほど分かる気がした。
豪炎寺はチームの前では平気そうに振る舞っていた。そして頼りにしているとチームを信じる言葉を残した。
事実、それは全く嘘ではないのだろうが、心のどこかに自分が出場できない悔しさと不安を抱えているのかもしれない。
「俺は勝たなきゃいけない……。約束を果たしたら夕香が目を醒ましてくれるって……、そう信じてる」
[#dn=1#]は豪炎寺の言葉の断片から彼の妹の状況を読み取る。病気か怪我か、それは分からないが少なくとも会話ができる状況にはない、重篤な状態なのかもしれない。さらにいえば、生死にかかわるような状態なのか。
妹との約束が彼のサッカーへの熱意により火をくべているのだとしたら……。今の彼の心はとても[#dn=1#]に推し量ることはできない。
豪炎寺を見つめて息を漏らす。力なく笑う彼にどんな言葉を掛けるのが正解なのかは分からない。
[#dn=1#]自身が選手であったなら、豪炎寺の代わりに必ず点を取るだとか、ゴールは絶対に守るだとか……。もっと彼を勇気づけられる言葉が掛けられたのかもしれない。それができる立場ではないことはとても歯がゆい。
「……豪炎寺くん」
だが、信じている。次の試合、たとえ豪炎寺が欠場したのだとしても、チームが彼の不在をものともせずに勝ち進んでくれることを。
キャプテンの円堂が、そして他ならぬ風丸が雷門を勝利に導いてくれるはずだと。理屈じゃなくても心の底から信じているのだ。そのためのサポートが[#dn=1#]にできる役割だ。
「だったら……、早く怪我を治さないとね」
手を伸ばし、[#dn=1#]は豪炎寺の手に触れる。せめて、少しでも彼が安心できるように。
[#dn=1#]は彼の手を取って借りていたテーピングをその中に納めた。そうしながら、[#dn=1#]は温柔な微笑を豪炎寺に向ける。
「かっこよくシュート決めて優勝して……。お兄ちゃん約束守ったよって言ってあげなきゃ、妹さんに」
呼吸が震えた音がした。絶えない熱意を宿した手が、そうっと[#dn=1#]の渡したテーピングを握る。[#dn=1#]が徐に手を放した時、わずかに痙攣したように豪炎寺の指が動いた。
そして、彼の指は固く気持ちを押し込むようにして握りこまれる。
「……そうだな」
[#dn=1#]の言葉をどう解釈したのかは分からない。だが、豪炎寺は先ほどまでの張り詰めていた表情をようやく緩めたように思えた。少なくとも、眉間に寄せられていた皺は消退している。……きっと、彼なら大丈夫だ。
[#dn=1#]はようやく立ち上がる。スカートに付着した砂埃を払って教室へ戻る準備を始めた。豪炎寺は膝に付いた痕を撫でる[#dn=1#]の姿を穴が開くほど見つめている。
その視線に[#dn=1#]が気が付くと、彼は静かに口を開いた。
「……[#dn=2#]」
重く、低い声で彼が囁く。
「ありがとう」
細められたその眼差しには、静謐さの中に滾る炎を灯していた。