FF編 第一章
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「今日はありがとう。私もそろそろ帰らなきゃ」
すっかり日の暮れてしまった空を仰いで花織が告げる。三人でのレースの後、自主練習を初めて早一時間が過ぎた。
他の陸上部の面々も宮坂も先に練習を切り上げて帰ってしまって、今ここにいるのは風丸と花織だけだ。一本走って切り上げる予定だったはずなのに、練習についての意見交換で意気投合し、ちょっと実践までやるかとつい熱が入ってしまったのだ。
「もう暗いから送るぞ?」
辺りはもうすっかり暗い。街灯の明かりは灯っているが、慣れない街を歩くのも不安じゃないかと風丸が提案する。しかし花織は自分の荷物をまとめ、首を横に振った。
「大丈夫。風丸くんが遅くなっちゃうから。……今日は何から何まで、本当にありがとう」
「あ、おい……」
一度丁寧に彼に頭を下げ、花織はその場を足早に立ち去った。きっとこのまま話を続けてしまえば、風丸は気を遣って花織を送ると譲ら無さそうだと思った。
彼はいい人だ、今日のやり取りだけでも十分にそれが分かった。
けれども花織はそこまで風丸に甘えるつもりはなかった。気が合うところはあるようだが、なんせ今日出会ったばかりなのだ。そこまでしてもらう理由もなく、何なら今日一日世話を焼いてもらいっぱなしだ。これ以上は忍びない。
女子陸上部の部室へ戻り、真っ暗な部室の中へ足を踏み入れる。電気を着けてもがらんとした空気は変わらない。早く着替えを済ませて帰ろう、と花織はタンクトップの裾に手をかける。
運動部ならではの速さで着替えを終え、花織は最後にヘアゴムに手をかけ髪を解いた。さらりと降ろされた髪はほつれなくまっすぐだ。部室に置かれた鏡で乱れを櫛で整えていく。
漆黒の艶めく髪も、走りには匹敵しないが数少ない花織の自慢だ。大切にいつも丁寧に手入れをしている。長い髪が走るたびに弾む感覚が楽しくて好きだというのもあるが、それ以上に伸ばしていることにも彼女なりの意味があった。
『風に靡くお前の髪はとても綺麗だ』
脳裏によぎった忘れられない声が、櫛を通していた花織の手がピタリと止める。……過ぎたことだ。それにのちに告げられた言葉を忘れたわけでもない。ただこの髪を切れないでいるのは、私の気持ちに整理がつかないってだけで。
もう十分だろう、後は帰るだけなのだからと花織は櫛を片付けて部室の鍵を手に取った。
部室の戸締りをした後、職員室へ鍵を返却するのにも少し迷って時間が掛かってしまった。空の色は先ほど以上の濃さにはなっていなかったが、もう十分に遅い時間だ。すっかり夜の匂いがする。
昼間は涼しげだと思っていた風もこの時間帯になるとむしろ肌寒い。花織は制服を擦り合わせて身体を温めようとする。
「日が落ちるの、まだ早いなあ……」
学校から家までの道のりも覚えたばかりなのだから、あまり遅くまで残りすぎるのも考え物かもしれない。
呟きながら夜桜の散る校庭を歩いていく。校門を出ようとしたところで彼女の瞳に人影が映った。風にそよぐ長い青髪。彼は花織を見て表情を綻ばせた。
「あ……、月島。遅かったな」
「え、風丸くん……? どうしてこんなところに」
間違いなくそこにいたのは風丸だった。花織は少し驚く。考え事をしていたせいで身支度にはそれなりの時間が掛かっていたはずだ。そして鍵を返すために少し校舎内を迷った時間もある。それなのに風丸がどうしてこんなところにいるのだろう。
「月島を待ってた。こんなに遅くなったのは、俺が練習に付き合せたせいだからな」
「そんな……」
待たせてしまっていたというわけか。あまりに申し訳なくて花織は眉根を下げる。花織がこんな時間まで残っていたのは彼女自らの意志だ。風丸が責任意識を感じる必要なんてこれっぽっちもないのに。
花織の表情を見て風丸は彼女の言いたいことを察したのだろう。花織が何を言うよりも早く彼は微笑んで口を開いた。
「俺が勝手に心配してるんだ。一人で女子に夜道を歩かせられない」
「……え」
どこまで紳士的なのか、人が好いというのか。彼の責任感ゆえか、それとも優しすぎるのか。花織は自分を気遣う風丸の言葉に目を見開いた。
出会ったばかりの人間にここまでしてくれる理由が分からなくて困惑する。女子だから、で説明ができるものか。
「あ……、えと」
先の言葉を恥じらってか、風丸が花織からふいと視線を逸らした。確かにさっきの発言はあまりにも頼もしく格好良すぎた。
「……早く帰ろうぜ、家まで送るから」
「うん……」
これほどの厚意を向けられて無下にする選択肢は花織の中になかった。家はどのあたり、という風丸の問いに答えてふたりはゆっくりと帰り道を辿り始める。風丸の家の方角について尋ねてみたが、彼は俺もこっちだよと曖昧に答えた。
花織は風丸の一歩後ろを歩きながら、彼の背中を見つめる。
――――心配、か。
心配なんてものは、両親以外からは久しぶりにもらったような気がしていた。きっと風丸にとっては何気ない、些細な言葉だったはずだ。
しかし花織の心は微かに揺れる。小石を投げ入れられた水面に波紋が打つように。今日だけで何度風丸を頼ってしまっただろう。けれど彼は一度たりとも花織に嫌そうな顔を見せなかった。
――――頼もしい人だ、それに何より優しい。
「……」
「……」
歩き始めてからふたりの間には沈黙が続いた。静けさがどうにも彼らの緊張を煽る。
「……寒くないか?」
「うん、大丈夫だよ」
たった一言交わした会話もすぐに途切れてしまう。また沈黙が続きそうになって、先にしびれを切らしたのは風丸だった。彼は花織を振り返って言葉を掛けた。
「そういえば月島ってどこから転校してきたんだ?」
「帝国学園だよ。……一応」
「へぇ……、頭いいんだな」
「成績はそんなに良くなかったよ。入学したときは下から数えて何番ってくらいだったし」
感心した様子の風丸に花織は苦笑いした。帝国学園はサッカーの名門校として有名だが、学力でも全国一と評される。花織自身、自分が帝国に入学できたのはよっぽど試験の日だけラッキーだったのだと思っているくらいだ。
「帝国でも陸上やってたのか?」
練習を共にしたのなら風丸の問いはごく当然のものだった。花織の走りは風丸に及ばなかったとはいえ、風丸自身が全国トップレベルのスプリンターなのだ。それに迫る花織であれば女子の中では有数の実力者の位置につけるはずだ。
もっと名前が有名でもおかしくない。……風丸はそう言いたげな様子だった。
「陸上部は部員もいなかったし、記録会にはあんまり……」
「ふうん」
「それに帝国はサッカー至上主義だから」
無意識に”サッカー”と口に出した声が強張ったのが花織自身にも分かった。
サッカー、サッカー、サッカー。帝国学園では学園長こと総帥の意向もあってサッカーがすべてだ。他の部活は隅に追いやられ、サッカー部の格を示すの踏み台のようなものに過ぎない。だが、花織が複雑な感情を抱くのはそこではない。
『――――お前なんかより』
思い出すと今でも苦しくなる。帝国学園を去る日、ある人から放たれた花織の心に深い傷をつけた言葉。それが今でも彼女の中に刻まれて消えない。サッカーはそれに根深く絡んでいる。むしろ近因とも言えるか。
「月島?」
「あ、ごめんね。少しぼうっとしちゃって」
「いや……。……とりあえず話、変えるか」
どうやら花織がサッカーに対して何か思うことがあるのを悟ったらしい。風丸は深く追求することはなく、彼女を気遣って話を変えることを選んだ。
しかし、話を変えることになったが、会話が途切れてしまうとお互いに何を話せばいいのか分からなくなってしまったようだ。またも沈黙が生まれ、ふたりの足音だけが帰路に響く。今度は耐えかねて花織の方が口を開いた。
「あの……、風丸くん」
「何だ?」
風丸が首を傾げた瞬間、物凄い爆音がふたりの耳を劈いた。ふたりが驚き、振り返ると狭い道だというのに猛スピードの車が突っ込んでくるのが見えた。
「危ない‼」
「きゃ……っ!」
一瞬のことであった。風丸が強い力で花織の腕を引き、身体を通りの塀に押し付ける。花織は衝撃と回転した景色に小さな悲鳴を漏らした。
我に返った時、花織は風丸の腕の中にいた。強い力で抱き寄せられている……、花織は風丸の腕の中で目を白黒させた。温かい体温、仄かに香る制汗剤の匂い。そして速い胸の鼓動……。彼の心臓の音、だろうか。それとも。
「……」
恐る恐る顔を上げて花織は風丸の顔を覗き見た。彼の表情は必死そのもので、懸命に花織を脅威から遠ざけようとしているのは明白だった。彼の名前を呼ぼうとしたが上手く声にならない。
息が詰まる。彼の横顔を見つめていると無性に。
「月島、大丈夫か?」
真に迫った声色で風丸が、花織に問いかけながらその瞳を覗き込んだ。穏やかな茶色の眼差しがあまりにもまっすぐに花織を見つめる。
今度ばかりは、花織は自分の心臓が大きく音を立てたことを自覚しないではいられなかった。花織の身を案じることばかりが滲むその眼差しを見つめ、花織は言葉を失う。
――――守って、くれたの……?
事実を認識するたび心臓の高鳴りがうるさい。彼の眼差しに耐えかねて花織は思わず目を背けた。それなのにますます風丸を近くに感じる。
身体を抱き寄せる力強い手の温もりが、吐息までもが目を閉じたせいでいっそう鮮明に伝わってくる。息をするのも躊躇うほど胸が苦しい。
「月島?」
花織が返事をしないために風丸はさらに心配そうに花織に顔を寄せた。不安げな面持ちで花織の顔を覗き込もうとする。
大丈夫かと言われれば大丈夫ではないのだが……。花織はついに堪えていることができなくなって、消え入りそうな声で呟く。その頬はうっすらと桜色に染まっている。
「風丸くん……。ごめん……ちょっと、近い」
「え…………、う、うわっ!?」
一瞬、風丸は花織の言葉の意味を図りかねて困惑したようだったが、ようやく自分が花織の身体を強く抱きしめ、塀との間で圧し潰しそうになっていることに気が付いたようだった。
戸惑いの後、現状を悟ると弾けるみたいに風丸は慌てて花織から距離を置いた。今や花織より遥かに風丸の顔は真っ赤になっていた。
「わ、悪い! そういうつもりじゃ、なくて」
「ううん、気にしないで。……それよりありがとう、守ってくれて」
「……ああ」
照れくささからふたりは顔を合わせることもできずに顔を赤くして俯く。だが、その空気にすら耐えかねて風丸が先を促した。
「……行こうぜ」
「うん」
始めと同じように花織は風丸の一歩後ろをついて歩く。花織は風丸の赤くなった耳を見ながら、さりげなく喉元に手を当てた。
……こうして距離を置いているのにまだ少し呼吸がしにくい。なんでだろう。揺れる青い髪から目が離せないのも。
――――理由なんてない。
さっきのはちょっとビックリしただけだから。それにあんな風に今日あったばかりの人と密着したら、動揺しても当然のはず。
それ以上のことは何もない。覚えのあるこの顔の火照りも気のせい。ただの緊張の余韻……、心臓がこんなにうるさいのもそう。
だって……、この気持ちを他の誰かに……、あの人以外に抱くはずなんてないから。