FF編 第四章
試合終了後、[#dn=1#]は険しい面持ちで人気のないスタジアムの通路を歩いていた。
雷門中対御影専農の試合は、後半も厳しい試合展開が続いた。しかし状況を打ち破ったのはキャプテンの円堂のプレーだった。
彼がとった『ゴールキーパーがペナルティエリアを飛び出し、自らシュートへ持ち込みゴールをする』という前代未聞のプレー。チームメイトも相手チームも、観客も声を上げて驚嘆したプレーだ。
しかし、円堂のデータにはない予測のできないのプレーこそが、御影専農の選手たちの心を見事に動かした。彼らはデータを捨て、守りに逃げるサッカーを辞めた。
監督の指示に逆らい、全力でぶつかり合うサッカーを自分たちで選んだのだ。雷門イレブンも御影専農チームの熱意にプレーで応える。
そして激闘の末、二対一で雷門中が地区予選二回戦を制したのだ。
いい試合だった、誰が見てもきっとそういうはずだ。[#dn=1#]は先ほどの試合を思い返す。
ピッチに轟いた沸き立つ歓声がまだ耳に残っている。今日の試合は実力と心からサッカーに心を注ぐ選手たちの熱がぶつかり合った。まさしくサッカーの楽しさを感じられる試合だった。
チームは晴れやかな勝利の喜びの中にいる。[#dn=1#]はその歓喜の中を抜け出して彼に、鬼道に言いつけられた場所へと向かっていた。
雷門側のベンチ、真向かいの応援席入り口……。約束した場所はここのはずだと[#dn=1#]はあたりを見渡す。
「[#dn=2#]」
彼女を呼んだのは、今を忘れてしまいそうになるほど優しい声だった。[#dn=1#]は足先からすべてがぴたりと固まって動かなくなる感覚を覚える。
帝国学園にいたときに語り掛けてくれていた、あの頃と全く同じ声色。
覚束ない指先で[#dn=1#]は制服の胸元を押さえて振り返る。振り向いた先、[#dn=1#]の目の前にはドレッドヘアと、ゴーグルがトレードマークの少年の姿がある。私服だからマントはさすがに身に着けていないが、それでも紛れもない鬼道の姿だ。
「鬼道さん」
「……」
「あの、私……」
何も言わずにじっと自分を見つめている鬼道の視線に耐え兼ねて、[#dn=1#]の方が遠慮がちに口を開いた。鬼道が何も言わないのなら、聞きたいことが山ほどある。
どうして[#dn=1#]の電話番号を知っているのか、なぜこんなところに呼び出したのか。そして何より前回顔を合わせた時の……、あのキスの理由も。
何もかも洗いざらい問いただしたい。だが、ゴーグル越しの鬼道の眼差しに押されて[#dn=1#]の口からは上手く言葉が出てこない。
[#dn=1#]がまごついていると、鬼道は不敵な笑みを浮かべて[#dn=1#]の方へ一歩、また一歩と悠然と歩み寄る。距離を縮めて彼は静かに[#dn=1#]に囁いた。
「準決勝進出おめでとう、と言いたいところだが……。それよりお前は俺に聞きたいことがあるようだな、[#dn=2#]」
伸ばされた鬼道の手は無遠慮に[#dn=1#]の頬に触れた。それはなぞるように[#dn=1#]の肌を滑っておとがいを持ち上げる。
突然のことに[#dn=1#]は身を固く縮めることしかできなかった。[#dn=1#]の身体が硬直して抵抗しないのをいいことに鬼道はいっそう顔を寄せる。
もはや息がかかりそうなほどの距離感だ。だがかつて、この距離は日常だった。何よりも[#dn=1#]を覗き込む[#dn=1#]の眼差しは、物言うわけではないが[#dn=1#]のすべてを暴き押し入ろうとする。
「たとえば……、この前の口づけの意味だとか」
顎に触れている鬼道の親指が[#dn=1#]の唇の輪郭を撫でつける。[#dn=1#]は鬼道の指が唇を這う感覚に身震いした。
たったこれだけ、これだけで足から崩れ落ちてしまいそうになる。[#dn=1#]の反応を愉しみながら、鬼道は色香を含んだ笑みで囁く。
「なぜ、俺がお前の携帯番号を知っているのか。……そういうことだろう?」
蕩ける甘い声が[#dn=1#]を支配している。ゴーグルの奥から[#dn=1#]を見透かす赤い目が[#dn=1#]を容易く射抜いた。
こんなふうに見つめられると、過去に戻った気になってしまう。……帝国学園の秘密の場所で、二人きりで過ごしたあの頃に。鬼道がすべてだった懐かしい日々に。
「……」
潤んだ[#dn=1#]の瞳が鬼道の色に染まる。思考も彼の囁きで停止しつつあった。
知りたい……。[#dn=1#]は早くなる胸の鼓動を抑え、熱の籠った息を吐く。鬼道の行動の意味、自分を嫌っているはずの彼の心が……。まるで自分に向けてもらえているような錯覚に陥る。
唇が寄せられる。あとほんの数センチ……触れるか触れまいかの距離で[#dn=1#]の心に大切な人の姿がよぎった。温かく穏やかな瞳で見つめてくれる、青い髪の彼の姿。
―――― 一郎太くん。
思い浮かべた風丸の存在が[#dn=1#]の理性を呼び起こす。また流されるつもり……? 性懲りもなく、私はまた一郎太くんを傷つけるつもりなの?
風丸のことを思うと、鬼道にされるがままにされている自分のことが途端に許せなくなった。勢いに任せて鬼道の腕を払って、彼から距離を取ろうと後ずさる。
「……っ」
だが、鬼道もそのまま引き下がらなかった。鬼道を振り払うために払った[#dn=1#]の手を掴もうと彼は手を伸ばす。
その瞬間はほんの刹那のはずであったが、[#dn=1#]にはやけにスローモーションに見えた。瞳に映った鬼道の表情に思わず驚く。[#dn=1#]が拒絶したことにまるで心から傷ついたかのような……。
彼が浮かべた痛烈な表情は、[#dn=1#]がこれまで一度たりとも見たことのないものだった。
「[#dn=1#]……!」
感情を押し留められていない声で鬼道の口から名前が零れた。戸惑う呼吸に唇が震える。
どうして、名前を……。とそう問いかける間もなく、鬼道の腕が[#dn=1#]の左の二の腕を掴む。彼の指先に力がこもるのと同時に鈍い痛みが腕に響いた。
「……っ!」
[#dn=1#]の表情がわずかに痛みに引きつる。そしてその[#dn=1#]の表情の変化を鬼道は見逃さなかった。先ほど見せた痛烈さも切なさもすべて今の鬼道からは見えなくなっていた。ただ落ち着きを払いながら鬼道は[#dn=1#]の腕に触れる。
「腕を見せろ」
しかし落ち着けた声色とは裏腹に鬼道は[#dn=1#]の返答を待たなかった。彼は[#dn=1#]のシャツの袖口を掴んで強引にまくり上げる。
「……っ、これは」
陽のもとに晒された彼女の腕には黄色に変化しつつあるが、まだくっきりと修練場での練習で作ってしまった打撲痕が残っていた。その痛々しい痕を見て鬼道は息を呑み、見る見るうちに顔を険しくする。
鬼道の厳しい目に見つめられると、[#dn=1#]はなぜそんな顔をされているのかが分からずに身を縮めた。まるで叱責されているような……、まるで自分が悪いことでもしたかのような気分だ。
鬼道の手が緩んだ隙を見て[#dn=1#]は彼から距離を取る。右手で左腕の痣を見られないように覆って隠した。
「別に、何でもありません。練習で作ってしまっただけで」
「何でもない?」
素っ気なく吐いた[#dn=1#]の言葉に鬼道が眉を釣りあげた。わずかに語気が強まっている。
「……大方、イナビカリ修練場でアイツらと同じ練習をしたというところか」
「……」
正解だった。おそらく鬼道は土門からの情報でイナビカリ修練場の存在を知り、中でどんな練習がされているのかも把握しているのだろう。事実を完璧に言い当てられ[#dn=1#]は視線を落として口を閉ざす。
「向上心はお前の美徳だが、試合に出るわけじゃないだろう。こんな怪我をするほど無茶な特訓をする必要はない」
彼の視線は腕の痣だけではなく、スカートから覗いた足に残っている擦り傷にまで向けられている。その傷を鬼道は忌々しげに睨み、怒りを含んだ声で続ける。
「お前はアイツらとは違う。性別も繊細さもだ。練習に参加するのならもっと自分に合った体に無理のないものにしておけ」
低く淡々と告げる鬼道の言葉、彼の放つ言葉の数々に動揺と抑えていられない胸の高鳴りが[#dn=1#]の中に入り混じる。
どう解釈すればいい……? まるで私の身を案じているかのような言葉を。興味がないと吐き捨てておきながら、どうしてこの期に及んでこんな不可解なことを言うのか。
鬼道が放つ一言一言に疑問が尽きない。だが、[#dn=1#]に見えている現実はあの日の拒絶の言葉だけだ。
自分が鬼道に関して確信しているのはそれだけなのだと自分に言い聞かせる。今更、彼の心配を素直に受け入れる方が間違っている。絆されるわけにはいかないと[#dn=1#]は表情硬く首を振った。
「……貴方には関係のないことです」
これは、彼に対する初めての明確な反抗だったのかもしれない。
実際のところ[#dn=1#]は、イナビカリ修練場での練習はできない状況にある。風丸が酷く嫌がるのだ。彼は[#dn=1#]の身体を心配して、彼女がイナビカリ修練場で練習をすることを禁止した。風丸の言葉なら、[#dn=1#]も聞き分ける必要があると飲み込めた。
だが、鬼道に関しては話は別だ。鬼道に逆らいたくない、彼の期待を損ないたくない。ずっとそう思ってきたが、鬼道にとって[#dn=1#]は何でもないのだ。とやかく言われる筋合いだってない。
走ることはこれまでずっと鬼道のためのすべてであったが、サッカーに関することまで彼に心を囚われたくない……。これまで一度も思いつきもしなかった考えが[#dn=1#]を動かしていた。
「聞き分けが悪いな」
地を這うような声色、気を損ねたらしい鬼道が[#dn=1#]に詰め寄った。彼の表情に感情はなく、これまで見た鬼道のどの表情よりも冷淡に見えた。
彼は[#dn=1#]の腰を引き寄せて、荒々しく右手で顎を掴む。[#dn=1#]はとっさに身を捩ろうとしたが……、鬼道の腕はびくとも動かなかった。それどころか両手で鬼道の胸を押し返そうとすれば左手一本で反抗を制御される。
「賢いお前なら考えればわかるだろう? ……それとも、身体に教えなければ覚えられないか」
「やっ、鬼道さん……っ」
「理解しろ。お前は俺の手さえ自力で振りほどけないというのに」
再び、先ほどと遜色ない近さまで二人の距離が縮まる。[#dn=1#]は鬼道の腕から逃れようと身もがいたが、全く鬼道の腕の中から逃れられる気配がない。
それは男である彼の力が強いせいか、それとも自分がまだ本気で鬼道を振り払えないのか……。判断はつかないが、鬼道の腕は[#dn=1#]を捕らえたまま動かない。
「[#dn=1#]」
「……っ」
「こっちを向け」
先程とは違って彼の声は冷ややかだった。[#dn=1#]に拒絶の言葉を投げかけたときのように辛辣に響く。鬼道の心が読めなくて[#dn=1#]は彼に対する恐怖心を抱く。
だが、それでも……。ゴーグルの奥に映った赤い瞳。その瞳に言いようのない愁色を感じ取って[#dn=1#]は彼の心を知りたいとも思った。
鬼道の瞳が[#dn=1#]の心を掌握する。[#dn=1#]の思考を制し抵抗が弱まった。もう一度、鬼道は身動きの取れなくなった[#dn=1#]の名を呼び顔を寄せる。逃れる場所を失い、[#dn=1#]が無意識にギュッと目を瞑るしかなかった。
「[#dn=1#]……?」
[newpage]
その声がしたのは二人の唇が重なり合う寸前のことだった。
「一郎太、くん……」
鬼道のそれと触れ合いそうなほど近づいた唇から彼の名前が零れた。固く閉じていた瞼が自然と押し上がる。
光が[#dn=1#]の視界に遍く差し込んだ。ぼやけた光の中で青い髪が揺れている。その姿を視認すると[#dn=1#]の瞳にじわっと涙がこみ上げた。
……紛れもないその姿は彼女の恋人の風丸一郎太のものだった。どうやら[#dn=1#]を探してこんなところまでやってきたようだ。
「何、してるんだ」
穏やかな彼らしくなく、明確に苛立ちを含んだ声で風丸が鬼道を威嚇した。風丸の眼差しは厳しく鬼道を睨んでいる。
無理もない話だ。風丸の目からは見えるこの光景は怒髪天を衝くに値する。鬼道が嫌がる[#dn=1#]に無理やり迫っている……、そのように見えていた。
風丸は鬼道を押しのけて、[#dn=1#]を庇うようにして立ちはだかった。鬼道と[#dn=1#]の距離は開いたが、なおも鬼道は[#dn=1#]の手を放さない。風丸はその手をちらとみて眉を顰める。
それでも無理やり振り払うような真似はしなかった。だが鬼道に対し義憤に満ちた面持ちを向ける。
「悪いが[#dn=1#]は俺の大切な人だ。その手を放してくれ」
低く抑え込んだ声には怒りが隠しきれていなかった。風丸の形相を鬼道は無表情に見つめている。
「……フ」
気まずい沈黙がしばらく流れ、鬼道が風丸の懸命さを鼻で笑う。だがこれ以上争いをする気もないようですんなりと[#dn=1#]の手を解放した。苛立つ風丸に反して余裕のある態度を貫く鬼道は、口元に冷笑を浮かべながら斜に構える。
「少し話過ぎたな。……まあいい、今日のところは引いてやる」
「……」
「[#dn=1#]」
鬼道の表情が[#dn=1#]だけに焦点を絞るとわざとらしいくらい温和さを覗かせる。不慣れにも名を呼ばれ、[#dn=1#]はびくっと身を震わせる。鬼道は[#dn=1#]の瞳をまっすぐに見つめながら静かに口を開た。
「俺はな、本当にどうでもいい奴に時間を割いたりしない。増してや心配など特にだ……」
「……それは」
「どういう意味かはお前が考えろ」
謎かけのような鬼道の言葉に[#dn=1#]は当惑する。鬼道の真意を図りかねていたが、対してあからさまに顔をしかめたのは風丸だった。[#dn=1#]の前で鬼道に立ちはだかる彼の拳は力が込められ微かに震えている。その様子を鬼道は見逃さなかった。
「ああ、それと……。風丸、だったな」
出口へ向かって踵を返し、この場を立ち去ろうとした鬼道が足を止めた。そしてわざわざ風丸の方を振り返る。
[#dn=1#]に向けたものとは異なる笑み、愉悦を含んだ嘲笑が風丸を捕らえた。
「貴様だけにこの女の想いが向いていると思うな」
確かに鬼道は笑みを湛えている。だがそのゴーグルの奥の眼差しはちっとも笑みなど浮かべていないと……、そう風丸は思った。
それを最後に言い残すと、鬼道はふたりに背を向けて歩き出す。彼は一度も振り返らず、応援席通路の階段を静かに下って行った。残されたふたりはその後ろ姿を黙って見送ることしかできなかった。
試合の時の喧騒が嘘のように、グラウンドも応援席も水を打ったように静まり返っていた。
[#dn=1#]は彼の背後からおずおずと彼の姿を見つめる。彼女の立っている場所からでは、彼の横髪が阻んでその表情を窺い知ることができない。鬼道が去り、事態をどう収拾すればいいか分からず[#dn=1#]は両手をぎゅっと握り合わせた。
――――今更、何を言い訳すればいいの……?
寸でのところで踏みとどまったとはいえ、[#dn=1#]は自分自身の行動が風丸への裏切りだったことを自覚していた。
頭が冷えた今なら客観的に事が見える。自分勝手な理由をつけ、呼び出しに応じてのこのことこんなところにやってきて。挙句の果てにまたも同じ過ちを繰り返すところだった。
己の浅はかさが招いた事態。そして自分が取った行いのせいで、彼をどんなに傷つけてしまったことだろう。今更かける言葉なんかない。
「一郎太く……」
だが、このまま黙っているわけにもいかないと、[#dn=1#]は恐る恐る彼の背中に向かって口を開く。
その瞬間、目にもとまらぬ速さで彼の腕が[#dn=1#]の方へと伸びた。その手は[#dn=1#]の背中に回り、彼女の身体を力いっぱい自分の元へと抱き寄せる。
「……っ」
ぎゅうぎゅうと強く彼の腕が[#dn=1#]の身体を抱きしめる。あまりの締め付けように思わず痛い、と声が漏れそうになる。
しかしその腕が、彼の身体が。言葉もなく震えていることにすぐに気が付いた。[#dn=1#]は風丸の腕の中で息を堪える。
「……悪い」
呼吸の中に小さく、消え入りそうな声が混ざる。その声も身体と同じくして尾を震わせていた。[#dn=1#]の首筋に顔を埋め、風丸は彼女の身体を掻き抱く。
「邪魔をして、すまなかった……」
どうして一郎太くんが謝るの、と。考えなしの言葉を投げかけようとしてしまう寸前で口を閉ざす。彼の心に思い至り、[#dn=1#]は臓腑を鷲掴みにされたような感覚に陥った。
圧し潰すような圧迫感のせいで上手く呼吸ができなくなる。覚束なく動かした指先で彼の背中のジャージを弱々しく握った。
[#dn=1#]の推察が正しいのならば、風丸はこの場に現れたことを謝罪しているのだ。邪魔、という言葉を読み解くなら……、鬼道と[#dn=1#]の間に割って入ってしまったことを彼は謝っているのだろう。責めるべき[#dn=1#]を責めることなく。
――――なんで、どう考えたって私が悪いのに……。
「違う、よ……」
「……」
風丸は何も言わなかった。
「謝らないといけないのは、私……」
「……」
「ごめんなさい」
胸の痛みに耐えかね、彼を抱きしめたまま[#dn=1#]は目を伏せる。
心の底から風丸に対して申し訳ない気持ちはある。……だが、ごめんなさいなどという口先だけの謝罪が何になる。学びもなく鬼道の呼び出しに応じ、こうして彼を傷つけるのは何度目だ。
――――本当なら、私は一郎太くんの隣にいる資格がない。
[#dn=1#]の中にある風丸を好きな気持ちに嘘はない。だが、この期に及んで未だに過去の清算ができていないのも事実だ。そのせいでこんな事態を招く。そのたびに風丸の心を傷つける。
――――だけど、一郎太くんは私の隣にいようとしてくれる。
未練が切れないせいで風丸を傷つけたくないと、別れ話を切り出しても風丸は首を縦に振らない。
それどころか想いを告げたときと変わらず、自分を鬼道の代わりにしてくれと言う。一緒にいられるだけでいいからと強気に笑ってさえ見せるのだ。
「一郎太くん」
とんとんと[#dn=1#]が風丸の背を叩いて腕の力を緩めさせる。隙間もないほど密着していた身体をゆっくりと離して、[#dn=1#]は風丸の顔を見上げた。今度は[#dn=1#]から両手を伸ばし彼の頬を包み込む。
指先が触れると、びくっと身体を揺らす風丸の顔を覗きこむ。顔が見たくてそっと長い前髪を払うと、悲傷を映した茶色の瞳が[#dn=1#]を見つめ返した。
自分の行いが彼にそんな顔をさせている。それは[#dn=1#]にとっても辛い。
――――好き。一郎太くんが好き。この気持ちは嘘じゃない。
だから、貴方の気持ちに報いることを私もしたい。未練への決着をこれ以上先送りにできない。傍にいたいなら、一郎太くんのことが本当に好きなら。歩み寄らなければいけないのは私だ。
風丸の瞳を見つめ、覚悟を宣言をする。
「私、もう鬼道さんとは会わない」
それは[#dn=1#]にとって、とてつもなく大きな一歩だった。
「え……?」
[#dn=1#]の言葉に風丸が困惑の声を上げる。だが、[#dn=1#]は風丸の驚きを受け止め、微笑を浮かべた。
「一郎太くんが大事だから。……だからもう会わない。呼び出されても行かないようにする」
「俺のことは気にしなくたって……」
この期に及んで風丸は[#dn=1#]を気遣おうとする。[#dn=1#]は首を横に振った。
「私が嫌なの。……一郎太くんの気持ちをもう傷つけたくない。一郎太くんのことが大好きだから」
まだ、完璧にはできないかもしれない。それでも、たとえ今はどんなに歪でも貴方の想いに応えたいから。
でも、と食い下がろうとする風丸の唇を[#dn=1#]の唇が塞ぐ。いや確かに言葉は留まったが、塞いだと言えるのか……。お互いの鼻先がぶつかり、彼の表面を微かに撫でただけで唇はすぐに離れてしまった。
「……っ」
真っ赤になった[#dn=1#]が俯く。キス、と呼ぶには拙い結果に終わってしまった。いつも受け身でばかりいるから、自分からこうして唇を重ねようとしたのは初めてだったのだ。
えらそうなことを言っておいて、格好がつかない。[#dn=1#]は口元を覆って俯いた。
だが、それでも十分に風丸に気持ちは伝わったようだった。
「[#dn=1#]……」
風丸は[#dn=1#]の言葉に行動に、胸がいっぱいで言葉が出てこなかった。精一杯、声を絞り出して彼女の名前を呼ぶ。抱き寄せていた彼女の温もりと、決意めいた瞳の輝きを見つめる。
[#dn=1#]の気持ちは嬉しい。だが、同時に風丸は自分を情けなくも感じていた。
鬼道と[#dn=1#]の姿を見つけたとき、心は燃え上がる嫉妬で埋め尽くされた。二人が顔を寄せている光景に頭に血が上って、考える間もなく二人の間に割り込んだ。
どういうやり取りをしていたのかは知らない。だが、鬼道が[#dn=1#]に触れていたということが特に彼の冷静さを欠かせた。
すぐさまあの場で[#dn=1#]を抱き寄せて、[#dn=1#]に触るなと怒鳴りつけてやりたかった。[#dn=1#]の恋人は自分なのだとはっきり見せつけてやりたい。傲慢さが心に耳打ちをしたが、残っていたわずかな理性と[#dn=1#]への気持ちがそれを制してくれた。
潤んだ[#dn=1#]の瞳を見たとき、身勝手な行いで[#dn=1#]に嫌われたくないと思った。[#dn=1#]はまだ鬼道に対して恋心を抱いている。
……[#dn=1#]にとって、自分の独占欲が迷惑になるんじゃないかという考えが頭を過った。
理性的に事を収めたつもりだったが、時間が経てば経つほど思う。あの場に割り込んでしまったこと自体が[#dn=1#]にとって迷惑だったんじゃないかと。
鬼道に、俺と一緒にいるところを見られたくなかったかもしれない。俺が[#dn=1#]の邪魔をしているのかもしれない。
[#dn=1#]にとって自分が鬼道の代わりだと理解していながら……。ときどき、自分が[#dn=1#]の一番でありたいという気持ちが抑えられなくなる。
「……」
自分自身の身勝手な気持ちと向き合うたびに思う。
本当に[#dn=1#]のことを想っているのなら、今すぐにでも関係を解消して[#dn=1#]を自由にしてやるべきなんだろう。鬼道の代わり、というもっともらしい理由をつけた自分の行動が、[#dn=1#]の足に枷をつけるばかりか、自分の立場を惨めなものにしていることを。
けれど……、手放す勇気が湧かない。[#dn=1#]が好きで、失いたくない。一緒に過ごした時間や思い出、彼女を失うのが怖い。それがどんなに独りよがりなことかを理解していても。
だが、いつか……、その時が来たのなら。
「[#dn=1#]…………」
恋焦がれる愛しい少女の名を呼び、風丸は[#dn=1#]の頬を撫ぜる。ゆらりと美しい黒の瞳が揺れた。その眼差しは風丸だけを見つめて、今は彼のために微笑みかけてくれる。
懸命に自分の心を殺してまで、風丸の想いに応えようとしてくれている。それが伝わってくるから、いっそう彼女が愛おしく、自分が情けなくなる。
「好きだ」
――――[#dn=1#]のことが好きだ。この気持ちは嘘じゃない。
だからいつか、その時が来たら俺は[#dn=1#]の幸せのために身を引こう。きっとそれが最善の選択だ。このままだと[#dn=1#]はずっと鬼道への想いと、俺への罪悪感で苦しみ続ける。
鬼道のことを忘れさせたいって思ってた。酷い言葉で[#dn=1#]を傷つけた奴だって聞いてたから、[#dn=1#]の魅力に気づきもしない奴なんだと思っていたから。
だが、とてもそうは思えない。鬼道は明らかに[#dn=1#]のことを……。鬼道も[#dn=1#]もお互いのことを好きなら、想いあっている二人を引き裂く権利が俺にある訳がない。
顔を寄せて、風丸からそっと唇を重ねる。今度は長く深い言葉の代わりに想いを乗せたキスだった。
唇が離れてから風丸は[#dn=1#]の顔を見つめる。桃色に染まった白い頬が愛おしくて指先で壊さないように滑らかな肌を撫でた。
……だけど、もう少しだけ[#dn=1#]の傍にいさせてほしい。
心の準備が必要なのももちろんだが、まだ鬼道という男が信用に値しない。[#dn=1#]を傷つけたのは事実だ、それに帝国の時の試合で見せた冷徹さも記憶に新しい。
そんな奴に大切な彼女を渡すなんてできない。だから、俺の決心ができるそのときまでは。
「……俺の傍にいてくれ」
希う気持ちを小さく吐き出す。今だけはと、許しを請いながら[#dn=1#]をもう一度強く抱きしめた。いつか来る終わりを見ないふりをして。