FF編 第三章



 この日の三人の練習は、豪炎寺がジャンプしてからのオーバーヘッドキックを経て、着地を決められるようになったところで終了した。

 夜の闇が深まり、街灯の明かりが鉄塔広場とそこに佇む彼らのシルエットを映し出す。円堂や壁山の練習も今日の所はこれで一区切りにするようだ。

 壁山の特訓は豪炎寺ほど成果は見えなかったようだ。壁山の高所恐怖症をどうやって克服するかが大きな課題になっている。

「一郎太くん!」

 救急セットを抱えた[#dn=1#]が一人離れたベンチに腰かけていた風丸を呼ぶ。豪炎寺の、そして染岡の手当てを終えてようやく彼の元へ駆けつけてきたのだ。

 幸いにして大きな怪我はないが、風丸の腕は今日の特訓での酷使でますます赤く腫れて傷だらけだ。先に受けっておいた氷で冷やしていたから、痛みの方は何もしていないよりはマシになっている。

「腕、見せてね」

 [#dn=1#]は風丸の隣に腰かけ、そうっと腕の様子を観察する。そして風丸の腕の惨状に[#dn=1#]は表情を苦しげに歪めた。

「こんなに赤くなってる……、痛むよね。 傷口は洗ってくれた?」
「ああ……」

 てきぱきと救急セットを広げ始める[#dn=1#]の甲斐甲斐しさは嬉しいのに、風丸の答えは素っ気なくなってしまった。

 彼の心には複雑な気持ちが燻っていて、どうにもそれが拭いとれない。[#dn=1#]が自分のために懸命に処置をしようとしている姿を見ていても気持ちは晴れやかにはなれない。

「深い傷はないし……、とにかく今は冷やすのがいいかな」

 [#dn=1#]が氷嚢を再び風丸の腕に押し当てる。[#dn=1#]の瞳は風丸を捉えて揺れている。風丸の痛々しい腕を見つめ、彼女が睫毛を震わせるのが見て取れた。風丸はそっと[#dn=1#]の腕に触れる。

「……[#dn=1#]」

 [#dn=1#]が自分の怪我を心配してくれているのは伝わる。しかしこんな怪我は些細なものだ。痛みだって大したものじゃない。

 そんなものよりも胸を圧迫して仕方のないことが風丸の痛みを些末なものにしていた。

 ずっと胸の奥にある淀んだ気持ち。風丸の胸を苛むのは先ほどの出来事だ。どうして、[#dn=1#]は豪炎寺の言葉で引き下がったのか。

「どうしたの……?」

 腕に触れた風丸の手を取り、[#dn=1#]がじっと彼を見つめ返した。ただただ風丸の怪我への心痛を浮かべている[#dn=1#]。

 彼女を見ると風丸は、自分が口にしようとしている狭量な言葉を押し留めそうになる。……こんなことを言ったって、[#dn=1#]を困らせるだけだ。

「……いや、あのさ」

 言葉を見失って風丸は口を閉ざす。このまま[#dn=1#]が何か違う話をしてくれたらいいのにと思った。そうすれば、風丸はその話に全力で乗ろうと考えた。

 情けない自分を、あの程度のことで苛立ってしまった自分の気持ちを[#dn=1#]に向けたくない。

 しかし[#dn=1#]は風丸の期待とは裏腹に何も言わない。ただ、風丸が話始めるのを待って[#dn=1#]は風丸の手を握り続けた。

 心配そうに、ひたすらに純粋に向け続けられる視線に耐えかねて、風丸は[#dn=1#]から視線を逸らす。そして根負けした末に風丸は言葉を絞り出した。

「……豪炎寺にさ、さっき何を言われたんだ?」

 いくら考えても納得できなかった。風丸は[#dn=1#]の手を強く離れないように握り返す。

 豪炎寺のオーバーヘッドキックが上手くいった喜びより、怪我の痛みよりも。あの瞬間が重く暗く、尾を引いて風丸の心を占め続けていた。

 どうして、豪炎寺が……。仮にあの場にいたのが帝国の鬼道で、鬼道が[#dn=1#]に何かを囁きかけ、[#dn=1#]が折れたというのならまだ納得ができると思った。しかしあの場にいたのは鬼道じゃない。

 恋人である自分の言葉よりも豪炎寺の言葉を[#dn=1#]は聞き入れた。その事実が風丸はどうしても気に入らなかった。

 風丸の言葉に[#dn=1#]は虚を突かれたようだった。一瞬、驚いたような表情を見せたが、彼女はふっと表情を緩める。

「え……、ああ。うん、あのね……」

 [#dn=1#]の頬がほんのりと色づいたのを見て、風丸は再び心がざわつかせる。[#dn=1#]が豪炎寺の言葉を思い出し、そのせいで嬉しそうにしている。

……いい気分にはなれなかった。頼りになるエースストライカーだが、[#dn=1#]が絡むというなら話は別だ。風丸の眉間に深く皺が刻まれる。

「一郎太くんの気持ちくらい、汲んでやれって」
「……は?」

 今度は風丸が驚く番だった。思いにもよらなかった[#dn=1#]の発言に風丸は戸惑う。[#dn=1#]は風丸の表情を窺いながら、豪炎寺が囁いたさっきの言葉を彼女の言葉で繰り返す。 

「私が言うのも恥ずかしいけど……。豪炎寺くんがね、お前の恋人はお前が傷つくのを見たくないんだって……、私に何かあったら取り乱すって」
「……」
「……一郎太くんにとって私が、大切だからって」

 そこまで言って[#dn=1#]は口元を手で覆って俯いてしまった。恥じらいに身体を震わせ、潤んだ瞳で風丸をちらりと見る。

 思わず言葉が詰まる。風丸の方は一瞬[#dn=1#]の言葉を飲み込めなかったが……。豪炎寺が指摘したという言葉をかみ砕くと、まさしく自分の心を言い当てられていることに気が付く。

 察した瞬間、彼の頬も急速に熱を持ち始める。

「……っ」

 風丸の方も[#dn=1#]と同様に手で顔を覆って俯いた。[#dn=1#]を練習に参加させたくなかったのは、[#dn=1#]がただ女だからだとかそんなどうでもいい理由じゃない。

 [#dn=1#]が、とにかく風丸にとって大切だったからだ。[#dn=1#]が怪我をするのが嫌だった。いや、それだけじゃない。

 他の奴に触れられるのも嫌だと思っている。たとえ練習だとしても……。もしかすると豪炎寺はそんな風丸の心を見透かして、ワザと風丸を煽るように[#dn=1#]を引き寄せたのかもしれない。

「[#dn=1#]、俺……」
「私、もし一郎太くんがそう思ってくれてるなら……って、思うと嬉しかったの」

 照れながら[#dn=1#]が風丸に優しく微笑む。

「……だって私も同じ気持ちだったから」

 握り合わせた[#dn=1#]の手が動いて、親指が優しく風丸の手を撫でる。細められた瞳が街灯の光を受けて星のように瞬いた。

「あの時ね、一郎太くんの腕が傷つくところをこれ以上見てられなかった。……できることなら一郎太くんの痛みを私が代わりたくて」

 もちろん、[#dn=1#]が染岡や豪炎寺の身体の心配をしていないわけじゃない。だが彼女があの場で食い下がった一番の理由は、風丸の身を案じるからこそだった。

「[#dn=1#]……」
「あ……」

 彼女の心を知った途端、身体が勝手に動いた。風丸は[#dn=1#]の身体を強く引いて胸の中に[#dn=1#]を抱きしめる。温かくて柔らかくて……、そのすべてが愛しく感じられた。

 風丸は[#dn=1#]の額に額を寄せる。胸の鼓動が煩く響く。それはおそらく彼女も同じだった。息がかかるほど近い距離に[#dn=1#]を寄せて、かすれた声で彼女に自分の気持ちを吐露する。

「豪炎寺の言う通りだよ。……俺は[#dn=1#]を危ない目に遭わせたくない。怪我なんてさせられない。[#dn=1#]のことが大事だから」
「……っ」

 さっきの言葉、豪炎寺に代弁させたままではいられないと思った。自分の言葉で[#dn=1#]に伝えたい。

「だからさ、あんまり無茶はしないでくれ。……俺の身が持たない」
「ふふ……」

 風丸の言葉に[#dn=1#]がくすぐったそうに口元を緩めた。風丸の長い前髪に触れ、そっとかきあげる。露わになった彼の双眼を見つめ、[#dn=1#]は悪戯っぽい瞳で笑った。

「うん。……本当は私も力になりたいけど……、ほどほどにするね?」
「ああ、頼む」

 彼女の白く柔らかな頬に手を滑らせ、ゆっくりと撫でつけながら風丸は笑う。こうして[#dn=1#]と過ごしていると心の中には温かな気持ちが沁みわたる。

 [#dn=1#]が傍にいてくれるだけで、風丸はどこまでも優しい気持ちになれる気がした。

 こんな時間がいつまでも続けばどんなに幸せだろうと。ずっとこのまま、[#dn=1#]に傍にいてほしい。恋してやまない彼女を見つめ、彼は心から願う。

「おーい! 風丸ー! [#dn=2#]ー!」

 円堂の声がふたりの耳に届く。風丸と[#dn=1#]は互いに視線と微笑を交わす。身体が離れることに少し名残惜しさはあったが、ついさっきまで感じていた心の闇は消え失せていた。

 風丸が[#dn=1#]の手を取ってベンチから腰を上げ、足並みをそろえてふたりは歩き始めた。仲間たちの待つ広場の方へ足を速めながらも、繋ぎ合わせた手は離れ合うように握り合っていた。

 熱の籠った練習の合間には穏やかな時間が流れる。彼らの中を深め、愛おしく感じられる時間が。

 だが、波乱の時も着実に近づいていた。
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