FF編 第三章



 結局のところ土門が何を考えているのかは不明だが、未だ[#dn=1#]に接触をしてくる様子はなかった。

 教室の窓から差し込む午後の日差しが、穏やかな教室の安穏とした空気を照らす。昼休みということもあってか教室内には生徒がまばらにしかいない。

 教室の隅でおしゃべりをしているのが数人、あとは自分の席で読書をしていたり……。あるいはやってこなかった宿題を急いで片付けようとして思い思いの昼休みを過ごしている。

 [#dn=1#]も教室で過ごすうちの一人だ。自分の席から窓の外、大きく広がる正門前グラウンドを見下ろしながら彼女は感慨に耽っていた。

 昨日土門と目が合った時の総毛立った感覚。あの時の直感とは裏腹に拍子抜けするほど何も起こっていなかった。もしかすると、これまで[#dn=1#]の心配は杞憂に過ぎなかったのか。

 帝国学園にいたころの[#dn=2#][#dn=1#]は誰の目にも止まらなかったのだ。おそらく土門は[#dn=1#]が帝国学園に在籍していたことすら知らない。見ていない。

 ……唯一、[#dn=1#]の存在に気が付いてくれていたのはあのひとだけ。鬼道だけが[#dn=1#]の心を見ていた。

 間隙をあけた窓から熱を含んだ風が吹き込み、クリーム色のカーテンがゆるやかにはためく。そのカーテンの揺れ方にすら、頭の中の記憶が勝手に結び付いて[#dn=1#]は大きく咳ばらいをする。

 ……何にせよ、ひとまずは気にする必要はないのかもしれない。土門が[#dn=1#]に気づいていないのなら僥倖であるし、接触する必要がないと判断したならそれでよい。

 強引にそう結論付けつつ、[#dn=1#]は薄く開いた窓の隙間から飛び込んでくる喧騒に耳を傾ける。生徒たちの無邪気な笑い声、サッカーボールが強く蹴り上げられる打音。

 彼女の視線の先には見知った姿がある。サッカー部の面々……、正門前のグラウンドにには円堂や半田たちがサッカーボールを蹴っている姿がある。

 その中には風丸の姿もあった。日の光を一心に浴びて誰よりも一段と目を惹く。彼の姿を映すと胸の中に温かな思いが広がった。

 印象深い艶やかな青髪は、彼がダッシュをするたびに流線を描く。昼休みまでサッカーをしているだなんて……、彼らは根っからのサッカー少年だなと微笑ましい想いを抱く。

 ここから彼らを見ているだけだが、[#dn=1#]は実に充実した昼休みを過ごしていた。

 ――――ああそうだ、準備しておこうかな。

 風丸の姿を追いかけることばかりに夢中になっていたが、その彼と今朝がた交わした約束をふっと思い出す。

 [#dn=1#]は一度窓の外から視線を外し、机の引き出しから目的のものを探し出す。彼女が取り出したのは古典の教科書だった。

 次の[#dn=1#]のクラスの授業は歴史だ、古典の教科書は必要ではない。だが、この後風丸がこれを借りに来る予定になっている。

 しっかりしている彼にしては珍しいことなのだが、持ってくるのを忘れたから貸してほしいと午前にお願いされていた。

 昼休み中には借りにくるといっていたから、あのサッカーがひと段落したら[#dn=1#]のところに来るのだろう。

 陽の光の落ちた古典の教科書を何気なく開いて中を見る。最近は万葉集に載っている歌を[#dn=1#]のクラスでは授業で習うが、風丸の方でも進行具合は同じだろうか。

 窓の外の笑い声を遠く聞き、パラパラとページに指を掛けて捲っていくと歌がいくつか目に留まる。

 ――――ありつつも君を待たば待たむうち靡く……わが黒髪に霜の置くまでに。

 今の気持ちに似た歌が目に留まる。窓の外、円堂たちと楽しそうに笑っている彼の姿を見つめて[#dn=1#]は口元を緩ませた。

 さすがに白髪になるまで待っているなんていうのは大げさだが、彼の為なら少しくらいは待たされたってかまわない。

 歴史に刻まれた和歌は情熱的だ。深く知り置いているわけではないが、その味わい深さを[#dn=1#]だって授業で習う範囲であれば知っている。

 この万葉集や百人一首なんかがそうだ。……好きな歌だってないわけじゃない。

 ――――君がため……。

 過去の日々とそれに等しい歌を諳んじて[#dn=1#]の手が止まる。一瞬窓の外の陽光が陰って、脳裏には帝国学園での日々の残渣がちらつく。

 揺れるカーテンの隙間から吹き込む風を急に冷たく感じた。

 突き刺されたような気持ちを抱きながら、古典の教科書から手を放してページを閉じる。机の上に指先を滑らせて[#dn=1#]はメモとペンケースを引き出しから引っ張り出した。

 歌を唄うとか、そういうセンスはない。だけど……。[#dn=1#]はそう思いつつ再びグラウンドに視線を落として風丸の姿を探した。

 圧倒的なスピードでグラウンドを駆ける彼の姿。誰をも寄せ付けず風丸はフィールドを走り抜けていく。それはまさしく疾風のように。軽やかなフェイントでディフェンスをよけ、彼がガラ空きのゴール前を捉えた。

 彼が勢いよくシュートしたボールは円堂がパンチングではじいてゴールには至らなかった。

 ああ、残念……。カチッと[#dn=1#]は無意識に力を込めてボールペンをノックする。一旦プレーが途切れるのを横目に、[#dn=1#]はようやくメモへと視線を戻した。

 そして[#dn=1#]はやっと取り出したメモに慎重にペン先を触れさせる。一文字一文字丁寧に言葉を綴っていく。

「……[#dn=2#]」

 最後の一文字を書き終えたところで背中をツンツンと突かれた。わ、と小さな声を上げ、[#dn=1#]は後ろを振り返る。

 後ろの席に座っている豪炎寺が[#dn=1#]の方へ手を伸ばしたままじっと[#dn=1#]の方を見ている。

 円堂たちは外でサッカーをしているが豪炎寺は一緒ではなかったらしい。確かに先ほどから眺めているグラウンドに彼の姿は一度も見なかったけれども。

「休み時間なのに熱心だな。予習でもしてるのか」
「あ、ううん……、そうじゃなくて」

 [#dn=1#]は一度腰を上げて豪炎寺の方を向いて座りなおした。そんな褒められたことをしていたわけじゃないと彼女は手を振って否定する。

 そして書いていたメモを手の取り、口元にそれを持ち上げてみせた。

「ちょっとね、お手紙書いてたの」
「手紙?」
「うん。一郎太くんがあとで教科書を借りに来るから」

 そういって[#dn=1#]は腕を伸ばして机の上の古典の教科書を手に取る。豪炎寺の机に教科書を立てかけてパラパラとページを捲った。

 今日の[#dn=1#]たちのクラスの授業で習ったページを探して開く。授業の進行具合に差がないと考えるなら、この辺りに挟んでおけば気づくと思うのだが……。

「せっかくだから……ちょっとね?」

 くすくすっと照れくさそうに笑いながら[#dn=1#]がノートにメモを挟み込んだ。豪炎寺の視線がパステルピンクのメモに落ちる。

 淡い色の小さなメモ用紙には先ほど彼女が綴ったメッセージが書き記されていた。

 『一郎太くん お互い勉強頑張ろ。練習が終わったら一緒に帰ろうね♡ [#dn=1#]』

 短い言葉だが気持ちのこもったメッセージであることは明白だった。特に締めくくりに書かれた小さなハートマークがそれを物語っている。

 豪炎寺にこうして自分のやっていたことを明かしておいて[#dn=1#]は少し照れくさい気持ちになる。

 メッセージを書いたことに特別な意味はない。ただ、この間クラスメイトが小さく折った手紙のやり取りをしていて少し羨ましく思ってやってみたくなったから。

 それだけだが、風丸に宛てて書いたとき……、彼がどんな反応をしてくれるのか見てみたいと思った。

「こういうの、嬉しいかな……」

 差し込まれたメッセージのメモを指でなぞりながら[#dn=1#]が呟く。[#dn=1#]の指先に陽の光が触れて柔らかく反射した。

 豪炎寺はメモの上に載せられた[#dn=1#]の言葉をまじまじと見て拾う。メモの端に書かれた小さなハートマークに彼の視線が鋭くなった。

「……さあな」

 グラウンドの方から聞こえる歓声が遠く響く中、豪炎寺はメモから視線を上げて恋を浮かべた[#dn=1#]の顔を見た。

 わずかに固さを持っていた表情、彼の唇に微かに力がこもる。しかし刹那の間に彼はゆっくりと口角を上げた。

「前から思っていたが」
「え?」
「熱心なやつだな、お前は」

 いたずらっぽく豪炎寺の瞳が揺れた。彼の落ち着いた声色にはからかうような色が含まれている。お前は風丸ばかりに熱心だと、彼はそう言っているのだ。

 豪炎寺の指摘に[#dn=1#]はみるみるうちに顔を赤らめて俯く。愉快そうに笑みを零した豪炎寺は、追い打ちをかけるように[#dn=1#]をじっくりと見つめた。

「この前、河川敷でボールを蹴るお前を見た。……サッカー始めたのか」

 それもアイツのためか? と豪炎寺は明らかに[#dn=1#]の反応を楽しみながら言葉で揺さぶりをかけている。

 彼の言っていることは事実に相違ないが……、[#dn=1#]は火照る頬を抑えながら首を縦に振った。

「そうだけど……。見てたなら声掛けてくれたらいいのに」
「あまりに集中してたからな。邪魔しちゃ悪いだろう」

 集中すると自分は確かに周りが見えなくなる。そう思いながら[#dn=1#]はむくれて口を尖らせる。声を掛けてくれなかったことに対してではない。

 あの拙いドリブルやリフティングを我がチームのエースストライカーに見られていたことが恥ずかしいのだ。

「下手なプレーを見られる方が恥ずかしいよ……」

 じっとりとした眼差しで[#dn=1#]が豪炎寺を見やると、彼はそんな[#dn=1#]の子供じみた仕草に対してか口元を柔らかく緩めた。

 教室の窓から注ぐ午後の柔らかい日差しが、赤みのさした[#dn=1#]の頬を鮮やかに演出する。一瞬、教室の喧騒が遠のいた気がしたがそれは本当にわずかな間だけであった。

 がらりと勢いよく開いた教室の扉の音、それと同時に豪炎寺が見つめていた[#dn=1#]の視線が扉の方へと向く。その瞬間、[#dn=1#]の瞳は今までの会話の中で一番輝きを放った。

 彼女の変化だけで誰が現れたのかを察した。豪炎寺も[#dn=1#]に従ってちらりと教室の出入り口の方へ視線を向ける。

 [#dn=1#]の視線の先、チラと向けた景色の中に教室の外に広がる青空よりも明瞭な青が揺れる。彼の登場により教室が一気に華やぐ。

 制汗剤を使ったのだろう、ふわりと風丸からは清涼感のある爽やかな香りが漂う。

「[#dn=1#]」
「一郎太くん、お疲れさま。はい、コレ」

 風丸が声を掛けてきたと同時に、用件を心得ていた[#dn=1#]が古典の教科書を彼に差し出す。閉じた教科書の中には[#dn=1#]が書いた風丸宛てのメモが挟まっている。

 風丸は悪い、と[#dn=1#]に対して拝むようにして申し訳なさそうに笑った。今や[#dn=1#]の視界に映っているのは風丸だけだ。[#dn=1#]はなんてことないとばかりに彼に首を振る。

「そんなことよりさっきのシュート惜しかったね。あともうちょっとだったのに」

 [#dn=1#]が風丸を見つめて目を細めて微笑む。風丸は[#dn=1#]の言葉が先ほどのグラウンドのプレーに対するものであったことに気が付くと、照れくさそうに頭を掻いた。

「なんだ見てたのか」

 降りてくればよかったのに、そう言いたげな眼差しで風丸が[#dn=1#]を見つめる。彼女から受け取った教科書を胸に抱き、風丸は[#dn=1#]に向け穏やかに微笑みかけた。

「やっぱり円堂のゴールを割るのは難しいよ。一筋縄じゃいかない」
「ふふ、だってキャプテンは我がチームの要だもの。そう簡単に攻略できないよ。ね、豪炎寺くん」
「……!」

 突然の[#dn=1#]の振りに豪炎寺が肩を揺らす。何も言わずに風丸と[#dn=1#]のやり取りを眺めていた豪炎寺はわずかに表情を硬くしてああ、と小さく答えた。

 そんな彼の微細な感情の揺れ動きに仲睦まじい二人は全く気付く様子はない。

 予鈴と共に風丸が教室から去って行ったあと、[#dn=1#]は豪炎寺の方を振り返ることなく黒板の方へと身体を向けた。

 豪炎寺は[#dn=1#]の後ろ姿を見つめながらただぼんやりと授業が流れていくのを聞いていた。

 授業の最中、配布されたプリントが机の各列の先頭の生徒に配られ、後ろへと回されていく。[#dn=1#]から豪炎寺へも。

「……」

 何気なく豪炎寺が[#dn=1#]からプリントを受け取った時、プリントだけではなく小さな紙がはらりと机の上に落ちた。

 パステルピンクのメモ用紙、先ほど目にしたものと同じものだ。豪炎寺はきゅっと目を凝らした後に顔を上げてプリントを渡してきた張本人を見やる。

 日差しをよけるために引かれたカーテンが風に揺れ、彼女だけを一瞬光が照らす。

 長い睫毛が悪戯っぽく輝く瞳を引き立てる。他の誰とも違う黒い瞳にはきらめきが映っていた。柔和な微笑を浮かべた彼女は、豪炎寺と目が合うと何も言わずに授業へと戻る。

 『豪炎寺くん 授業、あともうちょっとだね。今日も練習頑張ろ! [#dn=2#][#dn=1#]』

 チョークが黒板を走る音、冗長な教師の声が彼の中で遠のく。メモに走り書きされた彼女の言葉を豪炎寺は指先でそっとなぞる。

 文章の締めくくりに打たれた感嘆符で彼の指はピタリと止まった。
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