FF編 第三章
練習に入ってからも[#dn=1#]は憂色を隠しきれないままだった。木々の背丈を越え、青空に高く打ち上げられたボール。[#dn=1#]は陽の光を手で遮り雲一つない青空を舞うボールを目で追いかけた。
蹴り上げられたボールのドンッという重みも、近くにいるはずの彼らの歓声も膜を張ったように遠く聞こえる。……そんなふうに感じてしまうのは頭の中を占めている思考のせいだろうか。
空に掲げた手のひらで顔を覆い、瞼が震えるほど強く力を込めて目を閉じた。苦々しい迷いが[#dn=1#]の心を今も占拠していた。
マネージャーの仕事をこなしながらも頭のどこかでひたすら葛藤し続けている。帝国からの密偵の件をチームに打ち明けるべきか否か。
鬼道の言葉があるとはいえ、雷門にスパイが潜り込んでいる事実を黙っているというのはチームに対する裏切りだ。見て見ぬふりをするのは決して許されることでは無い。……けれども。
[#dn=1#]の心が揺れるたびにあの絶対的な声が脳裏に響く。実際のものではない、幻聴と分かっている囁きでさえ[#dn=1#]の心に杭を打ち込んだ。あの日彼が触れた場所を指でなぞる。
――――だって、鬼道さんの頼みだから。
「[#dn=1#]ちゃん」
思考の堂々巡りを繰り返していると[#dn=1#]の顔に影が掛かった。顔を上げると秋がニコニコとこちらを覗き込んでいる。[#dn=1#]は取り繕いながら笑顔を向けた。
「秋ちゃん、どうしたの?」
「ううん、みんな頑張ってるなあって」
……確かに、それについては同感だ。グラウンドの方へと視線を向けて[#dn=1#]は頷く。
特訓だ、なんて言いながら大きなタイヤを吊るし、振り子の原理で揺らしてはそれを受け止める練習をしている。タックルに負けない身体を作るのが……目的だろうか。とにかく選手のみんなはいつも以上に気合十分だ。
つい先ほど、学校の用務員の古株さんに”伝説のイナズマイレブン”の話を聞いたのがよっぽど刺激になったらしい。過酷な特訓に対しても彼らは果敢に取り組んでいた。
迫りくるタイヤに立ち向かう選手すらいる。無茶苦茶な練習だがとても楽しそうに見えた。見ている[#dn=1#]の方が飛び出していきたくなるほどの活気にチームは満ち溢れている。
「そうだね。……私も混ざりたいくらい」
「ふふ、[#dn=1#]ちゃんは選手の方がいいって言ってたもんね」
「想像してたよりサッカーって面白いなって思って。……私もね、サッカーの練習始めてみたんだ」
風丸以外には初めて[#dn=1#]はサッカーを始めたことを打ち明ける。
初めて自分の意志でボールを蹴ったあの日から、彼女は毎日欠かさず練習メニューをこなしていた。
風丸に自分の下手なプレーを見られたことが[#dn=1#]には許せなかったのだ。絶対に汚名返上してみせるという意気込みが彼女のやる気に熱を注いでいた。
まだ練習を始めてからさほど経たないが、あの日に比べれば多少はドリブルの無駄が少なくなり始めた。
もちろん、これまで通りスプリンターとして必要な練習もバランスを見ながら継続している。……まだ、走ることも諦められないからだ。
「へぇー、[#dn=1#]サッカー始めたのか?」
「あ、おつかれさま半田くん、マックスくん。補給?」
秋と[#dn=1#]の会話に割って入ったのは彼ら二人だった。[#dn=1#]がサッカーを始めたという話題に喰いついて顔を出してきたのらしい。[#dn=1#]が二人にボトルを手渡すと彼らはドリンクを飲みながら話に混ざる。
「さっきの話だけど[#dn=1#]、随分思い切ったじゃん。マネージャーになった時も思ったけどさ。[#dn=1#]が自分からサッカーに関わるなんて」
飄々とした態度でありながら、どことなく[#dn=1#]を気にしているらしい視線をマックスが送る。マックスの言葉を聞き、半田の方は目に見えて心配そうに眉根を寄せた。
マックスと半田がそんな反応をするのも無理はない。二人は[#dn=1#]がこれまでサッカーを忌避していた理由を知っている。
かつて[#dn=1#]の初恋を踏みにじるために引き合いに出されたのがサッカーだということ。その言葉が[#dn=1#]に与えている影響の強さを知っているからこそ、彼らの反応は別段おかしなものではなかった。
「みんなのプレーを見てたらやりたくなっちゃったの。だってすごく楽しそうだから」
神妙な面持ちの彼らをなだめるように[#dn=1#]が微笑む。
「[#dn=1#]ちゃんがサッカーを始めたこと、風丸くんは……?」
「知ってるよ。最近は一郎太くんにも教えてもらったり、一緒に練習したりするんだ。……本当はもっと上手くなって、彼の練習相手になる自信がついてから話すつもりだったんだけどね。偶然見つかっちゃって」
「そっか」
ほっと、秋が表情を緩めて息をついた。和やかな空気がこの場を包む。だが[#dn=1#]の言葉に何かに気が付いたようだ、マックスがパチンと指を打ってトレードマークのニット帽を揺らした。
「ていうかさぁ、風丸の為でしょ? [#dn=1#]がサッカー始めたの」
「えっ?」
「それか君が、一緒に練習したいからかな。風丸がサッカーに夢中で寂しいとか?」
「えっと……その」
ズバリ言い当てたマックスの言葉に[#dn=1#]の顔が見る見るうちに赤く染まる。照れくさそうにはにかみながら、[#dn=1#]はマックスの言葉を否定せずに首を小さく縦に振った。
[#dn=1#]の答えに秋は嬉しそうに表情を輝かせ、マックスと半田は顔を見合わせてやれやれと肩を竦める。
「なんだ図星かー、なんか心配して損した気分だよ」
「まあ[#dn=1#]が幸せそうで何よりだな」
マックスと半田のバカップルめ、と言いたげな視線に耐えかねて[#dn=1#]は俯く。
「あんまりからかわないで……」
火照った頬を両手で抑えながら恥ずかしそうに[#dn=1#]は呟いた。隠すつもりはないが、面と向かっていろいろ言われるとやはり少し気恥ずかしい。
きゅうと[#dn=1#]が縮こまったところで彼女の後ろから声が割り入った。
「何々、何の話? 俺も混ぜてくんない?」
「あ、土門くん」
土を擦った足音が止まる。それと同時に聞こえてきた声、そして秋が発したその名前にさっと[#dn=1#]の表情が強張る。頭から冷水を被ったような冷たさに身体が凍る。
[#dn=1#]は振り返るに振り返れず、ゆっくりと秋の影に隠れて身を縮める。
[#dn=1#]が土門を知っているからといって、別に彼が自分を知っているわけじゃない……。そう言い聞かせながら[#dn=1#]は、固く目を伏せながら必死の思いで気配を消そうとした。
「別に大した話じゃないよ。ウチのチームのラブラブカップルの話してただけ。ねー、[#dn=1#]」
「……っ」
急に話を振られ、[#dn=1#]は顔を上げてしまった。不可抗力的にバチっと土門と視線が合う。[#dn=1#]を捉えた土門の瞳が散大したのを見て、周囲の喧騒が一気に遠のいた。
「……あ」
薄く口を開いた土門が微かに声を漏らした。全身が心臓になったみたいに拍動しているのを感じ、これ以上身を隠しようもないのに[#dn=1#]は背を丸めた。顔を見られたくないと無意識に前髪に手を伸ばす。
「悪いな土門。[#dn=1#]、意外と人見知りだから……」
明らかに動揺して何も答えられなくなっている[#dn=1#]の為、半田がフォローを入れる。
半田の方は別段[#dn=1#]の様子をおかしくは思わなかったらしい。恋人の話を持ち出され、照れくさくて顔を上げられない。恥ずかしがって口を噤んでいるだけだと思ったようだ。
だが、言葉を失っているのは[#dn=1#]だけではなかった。
「……」
土門は[#dn=1#]へ視線を注ぐ。信じられないものを見る目で土門は目を見開く。目が合った瞬間から彼女の姿から目を逸らせなかった。
身を隠すように縮こまって顔を背ける。その姿に既視感があった。前髪を整えるふりをして顔を隠そうとして。ちょうどこんな感じの黒髪で、その子は鬼道さんだけを見て……。こちらと一切目を合わせようとしなかった。
記憶の中の少女と、目の前にいる少女の姿が寸分違わず重なり合う。土門は、今になってようやく彼女が何者であるかを思い出した。
「あ……」
今の今まで気が付かなかった。
土門は気づかぬうちにかいていた手汗をズボンで拭う。気づけなかったのは彼女が来ているのが帝国学園の制服じゃなかったからか。それとも随分と髪が短くなっていたせいか?
いや、おそらくそれだけじゃない。話しかける前に彼女が見せていた笑顔、あんなに溌剌と笑う姿を一度も見たことがなかったからだ。
動揺で震える唇を結び土門は固唾をのむ。……それでも間違いない。土門は[#dn=2#][#dn=1#]が何者であるかを確信する。
去年の終わりごろから彼女は帝国サッカー部の中では注目の的だった。
理由は単純だ、[#dn=2#][#dn=1#]は密かに”鬼道のお気に入り”と噂されていたからだ。あの鬼道が目に見えて気にかけていた女子生徒。いや、気にかけていたなんて生易しい言葉じゃ片づけられないかもしれない。
表立って鬼道が明かすことも、彼女との交流を人目にさらすこともなかった。しかし鬼道が一人の女子生徒を寵愛している話は、帝国学園サッカー部のレギュラー陣の中ではいつからか実しやかに囁かれていた。
それどころか年明けを過ぎた頃には部外でも噂が上った。鬼道が女を囲っているだとか、総帥の目を盗んで夜な夜な逢瀬を繰り返しているだとか妙な噂が立ったことさえある。
この噂に関しては、さすがに恋愛禁止の学則を破りはしないだろうと部内で意見が一致したのだが……。
それでも鬼道が一人の女子生徒を特別視しているのは、帝国学園サッカー部にいるものからすれば事実に相違なかった。
そして、目の前にいるその少女こそが噂に上った張本人。日の光に艶めく黒髪、雪のように白い肌が映える……。帝国の廊下で見た時とは印象が異なるが、今こうして頼りなさげに縮こまっている姿は間違いない。
とても地味で目立たない、自信なさげで飛びぬけた才脳があるわけじゃない。どう見たって鬼道有人の傍にいるには不釣り合いな女子。だから鬼道の趣味は意外だとチームの中で話したこともあった。
土門は記憶を巡らす。そういえばこっそり寺門らと、鬼道がこの子と話をしているところを覗き見たことを覚えている。
控えめな彼女を前に、鬼道が見たことないほど柔らかな顔をしていた。……あの日、鬼道がこの子に対し特別な感情を向けているのは明白だった。
「どうしたの、土門くん」
言葉を失った土門の肩を秋が叩く。土門はぎこちなく秋を振り返って笑いかけた。
「なんでもないよ、秋……」
何を言えばいいのか、言葉が見つからない。まさかこんなところに鬼道のお気に入りがいるなんて。だがこれで、土門の中に一つだけ明らかになったことがあった。
鬼道から渡された雷門の情報収集リスト、あの中の[#dn=2#][#dn=1#]に関する項目は総帥の指示ではないのかもしれない。……もしかすると鬼道さんが?
土門は[#dn=1#]の表情を窺いみる。[#dn=1#]は土門の動きを見て、さっと顔を逸らした。土門に対して明らな警戒がある。
緊張に張り詰めたその顔を見るに、彼女は土門が何者であるのか気づいているのだろう。彼女自身から情報を得ることは難しそうだった。