FF編 第三章
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「驚いたよ、まさかボールを蹴ってるのが花織だとは思わなかったから」
おつかれ、と風丸が花織に自販機で買ってきたスポーツドリンクを差し出す。花織はそれを受け取りながら礼を言った。
指先に触れた濡れたボトルは冷たいのに、掠めた彼の指先がふれたところだけ熱を持つ。……以前にもこういうことがあった気がする。
風丸からもらったドリンクを飲むと渇いた喉に冷たさが染みわたっていく。この間買った制汗剤を使ったから風が吹くたびにスーッとした爽やかな感覚が肌を撫でるのも心地いい。
風丸と遭遇して十数分、花織はようやく息をついた。
花織が練習を始めたときには風の音と川のせせらぎばかりだった河川敷には、快活な子供の声が響く。あの後、小学生サッカーチームのイナズマKFCが練習のためにやってきたためグラウンドを明け渡した。
時計を見るともう一時間以上もボールを蹴ることに没頭していたのだと分かり、頃合いだと花織は風丸と共に河川敷の土手に腰を下ろして休憩を取ることにした。今、まさに小学生の選手たちが目の前でサッカーボールを蹴っているところだ。
……恨めしいことに花織よりもはるかにボールコントロールが上手い。ボールを持って走っている小学生を見ながら花織は眉間に皺を寄せた。
「なんで言ってくれなかったんだ? 練習するなら付き合ったのに」
「まだ見られるつもりはなかったの……」
ボールを落とさないよう、ネットの持ち手を手首にくぐらせて膝の上に抱える。ネットに入れたボールをいじりながら花織がむくれた様子で答えた。
河川敷なんて目立つところで練習しているのだから、想定していないといけなかったのに。サッカーをすることばかりに集中して、誰かと会うなんて考えに至らなかった。
それも、あんな格好つかない姿を見られることになるなんて……。
「もうちょっと上手くなってから一郎太くんには話したかった」
「上手いとか下手とか気にするなよ。それに俺だってまだ初心者みたいなもんだしさ」
口をとがらせている花織を宥めようとする口ぶりで柔らかく笑んだ風丸が言う。風丸の言葉はまさしくそうなのだが……、花織は納得いかずに視線を逸らした。きゅっとボールを支える手に力をこめる。
そう、風丸はまだサッカーを初めて間もないはずなのだが……。元からサッカー部にいた選手と遜色ない力量でプレーをしている。
というよりも雷門中のディフェンス陣営をまとめていると言っても過言ではない。これも風丸の才覚だろうか? 言いようのない焦燥感があった。
「で、なんで急にサッカーを始めたんだ?」
あくまでも穏やかに風丸が花織に問う。だがその声色にわずかに陰りがあるような気が花織はした。
どうしてそんなふうに感じたのかは分からない。だが、彼の瞳にはただの問いかけにしては深刻な色があった。
「……」
彼の追求の視線に観念して花織は肩を竦める。もうあんな姿を見られてしまったのだ。今更格好良く明かすことなんてできない。
真剣な表情で花織は風丸の顔を見つめ返す。そしてサッカーを始めたただ一つの理由を告げるために口を開いた。
「いち――――っ」
だが、声にする前に言葉が絡まった。慌てて花織は口を噤む。言葉を押し留めようと右手で口元を抑えた。口に出そうとした間際になって急に恥ずかしくなってきたのだ。
―――― 一郎太くんと一緒に走りたいから、なんて……。もしかして重たいって思われたりするかな。一郎太くんの練習相手になるためとか……、さすがに自惚れすぎてる。さっきの下手なプレーを見せておいて。
「え?」
「えっと、いやその……。急にサッカーやってみたくなっちゃって」
咄嗟に理由にもならない言葉を口にする。顔に熱がこみ上げてきて、どうしようもなくなって視線を落とした。適当にその場をごまかそうと花織はボールの縫い目を指先でなぞる。
身の程もわきまえずに自信満々に言おうとした自分が恥ずかしい。ちら、と風丸の顔を覗き見る。
一瞬、ほんのわずかに彼の瞳が揺れ、笑顔が固まった気がした。どことなく力ない微笑みと共に風丸が短く言葉を吐く。
「……そっか」
彼の声は肩を落とし、掠れているように聞こえた。
――――どうしてそんな顔を……?
羞恥心は忘れ、花織はボールから手を放す。ボールが地面に弾む音を余所に風丸へ手を伸ばした。触れて、重ね合わせた彼の手をぎゅっと握る。
触れた手の温度はいつもと変わりないけれど……、花織は戸惑いながら風丸の顔を覗きこんだ。
「どうしたの……?」
「え、いや……、花織こそどうしたんだ」
風丸の方も困惑を浮かべて花織と、花織と花織に握られた手を見比べている。いつもみたいに優しい笑顔で風丸は微笑んでいるが、花織にはどこか無理をしているように見えた。
それは確証があるわけではなく感覚的なものに過ぎないが……。花織は慎重に風丸の瞳の色を見ながら言葉を選ぶ。
「あの……。なんだか急に、一郎太くんが」
「……?」
見間違いだろうか。今、目の前で首を傾げている風丸にはどこにも陰りは無いように思う。少しだけ握った手に力を籠めると、風丸の方も柔らかく花織の手を握り返す。……さっきの感覚は今や薄れて見えなくなっていた。
もしかすると、花織の気のせいだったのかもしれない。
「ごめん、やっぱりなんでもない」
不必要に変な勘繰りをするものではない。そう自分を諫めて花織は言葉を引っ込める。
間を誤魔化したくて風丸からもらったスポーツドリンクを一口飲んだ。途切れてしまった会話の隙間をグラウンドの子供たちの声が埋める。
花織は話題を探したいと思いながらも、何を話せばいいのか分からなくて、手の中のペットボトルをわざとらしいくらい丁寧に置いた。
「あのさ、花織さえよかったら今度から俺の自主練に付き合ってくれないか」
生まれてしまった沈黙を破ったのは風丸だった。
「え?」
「花織がサッカーやるんだったらさ」
願ってもない彼の言葉に花織の表情がぱっと綻んだ。
「いいの……?」
「ダメなわけないだろ。練習相手がいた方が俺も張り合いが出るしさ。花織とも一緒に走りたいし」
風丸の提案は花織は表情を明るく灯す。優しく微笑んでくれる風丸の言葉を彼女は深い喜びと共に噛みしめた。火照る顔を押さえ、花織は緩んだ口元を引き締めようとする。なのにどうしても頬が緩む。
このところサッカー一筋だった風丸が、自分と一緒に走りたいと思ってくれていたことが嬉しかった。
「……嬉しい」
胸の内から溢れる喜びをどうして良いか分からない。花織はもじもじと膝を擦り合わせた。
彼がそう言ってくれるのなら、これからはより気を引き締めなければならない。彼女は胸の中で強く、固く決意をする。
風丸の練習に付き合うのなら、やはり力をつけなければダメだ。彼のための練習で足を引っ張るなんて無様な真似は絶対にしたくない。
―――― 一郎太くんにとって有意義な練習になるように……。そのためにはせめて今の一郎太くんと同じレベルくらいにはプレーができるようにならないと。
「あの、私もっと練習して上手く……」
「わぁっ!! ボールッ!」
その瞬間だった、グラウンドの方からきゃあっと悲鳴が上がって花織の言葉が途切れる。突如上がった金切り声に空気が裂かれる。
危ない、という子供の叫びが聞こえた。グラウンドのほうへ向けようとした花織の視線は瞬時に暗く遮られる。
「花織!」
「……っ」
強く地面に背が押し倒された、だが思ったよりも衝撃は大きくなかった。突然の出来事に目を開いたと同時に顔の横でボン、とボールが土手を跳ねたのが分かった。
ボール……、ボールが飛んできたの……?
強い衝撃はあったが痛みはない。感じるのは痛みではなくて、背中を支える大きな手の温みだ。
状況がつかめないまま、花織が呆けていると頬を何かがくすぐるのが分かった。覚えのある匂い、たなびく青髪。……もしかしなくても、これって。
「花織、大丈夫か?」
ゆっくりと視界が鮮明になっていく。花織の目と鼻の先には心配そうな表情を浮かべた風丸の顔があった。身体を押しつぶす重さ、花織はすぐさま何が起こったのかを察する。
土手に押しつぶされた花織の身体。そして花織を庇おうと盾になり、風丸の体が花織の上に覆いかぶさっている。
――――守ってくれたんだ、今も。
なんだか、最近こういう事ばかり起こる気がする。そしてどんなときも一郎太くんは私を守ってくれる。……自分の身を挺してまで。
「一郎太くん……」
ドキドキと心臓が高鳴っていく。自分を覗き込んでいる懸命な茶色の瞳を花織はじっと見つめ返した。握り合わせたままの手の固さ。
呼吸も、薄手のアンダーシャツ越しに沿わせた身体から触れ合っているからこそ伝わってくる。……いつも守ってくれる優しい温度。
「花織?」
花織の返答を待って、風丸がますます心配そうに眉間に皺を寄せた。握り合わせた彼の手に微かに力がこもる。
心から自分のことを心配してくれる気持ちが伝わってきて、花織は胸の内に溢れる感情に息を吐いた。
――――好き。
こうして彼の偽りのない優しさに直面するたびに自分の気持ちを確信する。彼にどれだけ自覚があるのかは分からないけれど、彼のこういう温かさに花織は心から惹かれるのだ。
花織はそっと風丸の頬に手を伸ばして指を沿わせた。花織の指先が触れたところから、彼の頬が見る見るうちに赤く染まっていく。花織、と彼がまた呼ぶ。
風丸から目を逸らさずに、花織は頬になぞった右手で彼の前髪を払った。右目と同じ温柔な眼差し。初めて彼の双眼を見たかもしれない。
「な……」
「いつも私を守ってくれるね、一郎太くん」
愛しさが胸いっぱいに溢れてくる。前髪をよけると彼の表情はいつにも増して分かりやすかった。驚いて目を丸くして、言葉一つで恥ずかしそうに笑って。そんな彼を心の底から大事だと感じる。
「私も一郎太くんを守れたらいいのにな……」
「花織……」
しっとりとした声色に、彼が何を望んでいるのかが分かった。花織は求められるままゆっくりと目を伏せる。頬に彼の髪が落ちて、顔が徐々に寄せられているのが分かった。
唇が触れ合うまであと数ミリ。吐息が絡み合ったそのとき、甲高い声が響き渡る。
「あー‼ あそこでえっちなことやってるひとがいるー‼」
「⁉」
だが重なり合う寸前で雰囲気は打ち壊された。びくっと風丸の背が震え、目にも止まらぬ恐ろしいスピードで風丸は体を起こして花織の上から退く。
花織は目をぱちぱちと瞬かせるばかりだったが、風丸は先ほどの比にならないくらいゆでだこのように顔を真っ赤にしていた。
「明日せんせーに言っちゃおー」
花織が身体を起こしてグラウンドの方を覗くと、子供たちが風丸と花織を指さしてきゃあきゃあと騒いでいた。小学生の彼らのからかいにパニックになっているらしい風丸は勢いよく彼らを振り返って叫ぶ。
「お、おい! まだ何もしてないからな!」
叫んだ声は同様のせいで明らかに上ずっていた。
「……ふふっ」
花織は堪えられずに笑みをこぼす。普段は冷静で、落ち着いている彼がこんなに慌てふためくなんて。こんな彼は始めて見た。
花織は真っ赤になった彼の横顔を見つめる。こういうところも含めて彼のことが好きだとそう思った。