FF編 第三章
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まさか、こんな日が来るとは想像もしていなかった。
買ったばかりのサッカーボールを地面に転がし足裏で止める。眼前に広がるのは河川敷のグラウンドだ。
爽快な風が木々の葉をざわめかせ麗らかな午後を演出する。高架下に流れる川の水面は陽の光を反射して眩しく光る。パン、と両の頬を叩いて花織は意識を集中させた。
本日は雷門サッカー部の練習はお休みだ。休日というのは花織自身が思う存分、自由に身体を動かすことができる日でもある。
だが今日は、普段のルーチンワークに留まらず新しいことに挑戦したいと思っていた。それは何を隠そう、サッカーに他ならない。
サッカー部に来て、マネージャーとしてチームに携わるようになってからは風丸と走る時間があまり持てなくなった。というのも、風丸がサッカーの練習に時間を割いているからだ。
彼との練習は出会ったときから日常的に傍にあって、花織にとっては風丸と過ごせる大切な時間だ。
今でも体力づくりなどの基礎練習は一緒にできるが……、サッカーの練習となると邪魔をしてはいけないと帰り道に分かれることも多々ある。
彼の日々の負担を考慮して、あまりワガママを言うつもりはないが……。もっと一緒にいられる時間を持ちたいというのが花織の本音だ。それが第一の理由。
だが理由はそれだけではない。サッカー部のマネージャーとして選手たちの練習を見ているともどかしさに体の芯が疼く。
楽しそうに走って、ボールを追いかけている姿。あまつさえ彼らは風丸と共に走って、間近で彼のスピードを感じられるのだ。
このじれったさを解消するために花織が出した答えがこれだ。自分もサッカーを始めてみること。
花織自身が彼の練習相手になれるだけの実力をつければいい。風丸だってサッカー部に入ってそう間もないのだ、今なら努力次第で追いつけるかもしれない。
強く風が吹きつけると土と草の匂いが混じって鼻孔をつく。花織は風に乱れた髪を抑える。感覚を確かめるために足の裏の球体を転がした。
……それに、新たな一歩は気持ちを切り替えるために必要なことだ。抱えている難解な恋の整理のために、まずは自分を変えていくことを試そうと花織は考えた。
そこで始める新たな試みが、あの人が最も大切にしているサッカーというのは少々複雑な気分だが……。しかし、今の花織が一番試したいと思うことがサッカーなのだ。
思い付きは花織を強く突き動かした。あれだけ遠巻きに見て、触れがたいと思っていたサッカーなのに、風丸と走るためだと思えば躊躇なく手を伸ばせた。
そして今、ボールを購入したその足で彼女は河川敷グラウンドへとやってきたのである。
「……」
穏やかな河川敷の川の音がじわじわと花織の緊張を高めていく。今身体に感じる足がそわつくこの緊張はレースのスタート前によく似ていた。
サッカーのルールは頭に入っているつもりだ。仔細は確認が必要かもしれないが、大部分は理解できているはず。
しかし、サッカーボールを蹴るのなんて帝国学園での授業以来になる。どのくらいマトモにプレーができるものか。
深呼吸を一つして、花織はつま先でボールを蹴りだした。コントロールを失わないよう配慮しながら徐々にスピードを上げていく。基本的なことはできなくはない、が……。
しかし思うようにスピードは出ない。それどころかボールが勢いを持ちすぎて遠くまで蹴りだしてしまい、そのたびに体のブレが生じてしまう。
普段、練習している選手たちが当たり前のようにこなしているドリブルにさえ、こんなに安定感がないなんて。
帝国学園での対女子との授業ではこの程度の実力でも苦慮することは一切なかった。少しその気になるだけで花織に追いつける女子はいなかったし、持ち前の身体能力だけでボールを奪うのも朝飯前だった。
だが、風丸との練習を想定するのであれば到底こんな実力ではお話にならない。
「……っ」
力加減を誤り、ボールが花織の数歩先へ飛び出す。咄嗟に歩幅を広げ、ボールを取り戻すが体のバランスを崩してみっともなくよろめいた。耳に感じる風を切る音はいつもに比べてはるかに弱い。
――――練習するしかない。
前を向く彼女の瞳にはメラメラと燃える熱意があった。もとより彼女には努力の才能がある。それは陸上で残したの実績がすでに証明していた。
インサイドにボールを当てたときの、ボールの中で空気が弾む感覚を捉えながら思考を進めた。サッカーはボールに触れている時間が大事だと聞いたことがある。
だったら日々の練習にボールタッチやリフティングを組み込むのはどうだろう。家での勉強も足でボールに触れながらやる、とか。
足がコントロールの方法を覚えれば、ドリブルでのスピードも安定するかもしれない。
ただ走るのとは違う筋肉を使わされている。眉間に皺をよせ、花織はインサイド、アウトサイドを意識しながらボールを蹴って頭を回す。
どうしても動きが大きくなりがちだ。もっと動作をコンパクトにしなくては。これもきっと練習あるのみだ。これまで見てきた練習を参考に自分用のメニューを組んでやっていくしかない。練習方法も本で調べなくては。
「……っ」
前髪が汗で張り付く不快さを拭う。中途半端な長さの髪が視界を覆うのを無造作に払いのけ、花織は己の技量に顔をしかめる。
もっと真面目に帝国学園での練習をみていれば話が早かったか。そう思いながらも後悔は頭から振り払う。
あの人たちのサッカーを今更真似るつもりはない。あの人からは基礎を学んだのだからそれ以上は必要ない。必要なのは強い意志だ。
――――一郎太くんと走りたい。
ボールを蹴りだして前を向いたとき、そこに彼の後ろ姿を見る。
高く結われたポニーテールが華やかに揺れて、誰の追随も許さずにピッチを駆け抜ける姿が。強く憧れる姿に辿り着きたいと花織の足は強く地面を蹴る。
ボールタッチ、ドリブル、ボールタッチ、リフティング。時間を忘れて花織はひたすらボールを蹴り続けた。息が上がってるがまだ走れる。
不格好ながらにドリブルでグラウンドを駆け、誰もいないゴールへシュートを蹴り込もうとした瞬間だった。
「花織!」
花織の名を呼んだ声は、花織のボールに向けていたすべての集中力を一瞬にして攫っていった。
「!」
気が逸れてしまったせいでボールに付けた狙いがわずかに逸れる。サッカーボールは弱々しい勢いで転がり、ゴールの下をのろのろと潜っていった。
集中力の切れた花織は息を切らし、汗を拭いながら声の方を振り返る。グラウンド脇の舗装された道に、風に揺れる誰よりも明瞭な青い髪が見えた。熱く燃えていた身体が冷水を被ったかのように一気に冷える。
目の前にいる彼の姿は、先ほどまで見ていた花織の空想ではない。彼は花織が動きを止めるとグラウンドの中を突っ切りこちらへ駆け寄ってくる。
「い、一郎太くん……」
花織は肩で息をしながら彼の方へ視線をやる。ランニングウェアにランニングシューズ。どうやら風丸も自主練の最中だったようだ。土を擦った足音が止まると同時に彼がもう一度花織の名前を繰り返す。
「花織……」
花織の傍にやってきた風丸は目を丸くしている。彼の表情にも声にも、隠しきれない驚きがあった。