FF編 第二章
驚愕に口の端が震える。どうして、彼がこんなところに……。
「[#dn=2#]……」
彼の方も[#dn=1#]の存在に気が付いたようだった。グラウンドへと視線を向けていた彼、鬼道は[#dn=1#]を視界にとらえると彼女の名を口から漏らした。
互いに動けずにただ視線を交わし合う。すると鬼道の隣にいた銀髪の少年が鬼道の異変に気が付いた。試合から[#dn=1#]の方へと視線を寄こす。
「……へぇ」
銀髪の少年は[#dn=1#]の方へちらりと視線を落とし、興味深そうに笑みを浮かべた。[#dn=1#]はその男の視線を受けて身を縮め、咄嗟に前髪を整えるふりをして顔を隠す。
交流はないが彼のことは知っている。帝国学園サッカー部参謀、フォワードの佐久間次郎だ。ゴールキーパーの源田と並ぶ鬼道の右腕。
少なくとも鬼道が彼へ信頼を置いているのは確かだ。他でもない鬼道自身から話に聞いたことがある。
佐久間は品定めするように[#dn=1#]を見て愉快そうに口元を吊り上げた。
「鬼道のお気に入りじゃないか」
「……佐久間、少し席を外す。こっちの件はお前に任せた」
「ああ。感動の再会を邪魔するなんて野暮なことはしない」
「……」
二言三言、佐久間と何か言葉を交わし合ったらしい鬼道は[#dn=1#]の元へと歩み寄る。ぎゅっと両腕を胸元に寄せ警戒を露わにした[#dn=1#]だったが、意にも介さず鬼道は[#dn=1#]を呼ぶ。
「一緒に来い、お前に話がある」
彼の言葉を跳ねのけられたら一番良いのだろう。しかし、[#dn=1#]の中には鬼道の言葉に抗うなどという選択肢はもとより存在していなかった。
「……はい」
[#dn=1#]は鬼道の後ろ姿を見つめながら彼の後に続いて歩き始める。
鬼道が[#dn=1#]を連れてやってきたのは、前回顔を合わせたのと同じ場所だった。
雷門中学の裏門、正門前のグラウンドで試合をしているということもあってかここはいつにも増して人気がない。
そうでありながら、[#dn=1#]も鬼道も人の気配を警戒し学校を囲う門と木の陰に身を顰めるようにして向かい合った。
「話って、なんですか……」
できる限りつれなく、警戒を解かずに鬼道を見る。遠ざけたいと願っているはずなのに、その願いは鬼道の顔を見るだけで恐ろしいほど簡単に崩れ去った。
ゴーグル越しに視線が合うだけで胸が高鳴って冷静さを欠く。自分の心の動きが不本意なあまり[#dn=1#]は俯いた。
「お前にこれを返そうと思ってな」
「あ……」
[#dn=1#]の問いの答えと共に、鬼道はポケットから赤い手帳を取り出して[#dn=1#]にかざして見せた。[#dn=1#]は目を丸くし声を漏らす。
見覚えがある、というよりもアレは元々[#dn=1#]のものだった。無くしたはずの手帳、前回鬼道がまた会った時に返すと言っていた。
「ありがとうございます。あの、お手間をおかけして……」
用件というのがこれだけならさっさと受け取ってベンチに戻ろう。[#dn=1#]は手帳を受け取るために鬼道の方へと歩み寄り手を伸ばす。
しかし鬼道は素直に[#dn=1#]に手帳を手渡そうとはしなかった。にやりと口の端を吊り上げた彼は、ひらと顔の前に翳した手帳を振る。
「記録を見ると明白だな、お前の成長は著しさは。……いや、それよりも俺への熱烈な想いに言及するべきか」
鬼道の言葉に[#dn=1#]はさっと顔を青ざめさせる。
「まさか、中を……⁉」
「見ないと持ち主が分からないだろう?」
さも当然のように鬼道は笑う。鬼道の答えを受け、[#dn=1#]の表情は凍り付いた。
あの手帳の中には自分自身のタイムの記録、練習課題や日々のメニューが綴られている。だが、それだけではない。
日記の代わりも兼ねていたところがあったから、自分自身の心内も記載してあったのだ。無論、鬼道への想いも赤裸々に……。
「――――っ」
声にならない悲鳴を上げ、[#dn=1#]は昏倒しそうな気分になる。どうしようもない羞恥心がこみ上げ唇を噛むのが精いっぱいだった。
この際、手帳はもういい。返してほしかったのは誰にも見られたくなかったからだ。よりにもよって鬼道に中を改められているのならもうこれ以上の辱めはない。
いいや、これ以上内容に触れられることこそが何より恐ろしい。
「もう……、それは捨てておいてください」
「……」
「今の私には必要ないものですから」
鬼道から身を引き、声を震わせつつ[#dn=1#]は言い切る。鬼道の表情を見るのが怖いと思った。あの冷ややかな目に射竦められたら、きっと……。
[#dn=1#]はそのまま踵を返して逃げ出してしまおうと視線を背ける。だが、それは[#dn=1#]の動きを読んでいた鬼道によって阻まれた。
「[#dn=2#]」
鬼道の声に[#dn=1#]の足は竦んで動かなくなる。自分を呼び止めた鬼道の声はこれまで[#dn=1#]に囁き続けた甘さとも、あの日と同じ侮蔑を含んだ嘲りとも異なる色があった。
しかし、考察の余地は与えない。間髪を入れず伸びてきた鬼道の腕が強引に[#dn=1#]を抱き寄せる。
「……っ」
「気が早いな、本題はこれからだが」
耳にかかる吐息に腰が砕けそうになる。鬼道の声はすでに余裕を取り戻していた。鬼道の左手が[#dn=1#]の顔を覆って視界を奪う。
背に彼の体が密着し、逃れようにも彼の右手がしっかりと腹に回されて逃れることは敵わない。
感覚全てを鬼道の声に支配される。あまりのことに[#dn=1#]は頭が真っ白になっていた。混乱するばかりで口からは意味のある言葉が何も出てこない。
「[#dn=2#]」
低く艶めく声が[#dn=1#]を呼ぶ。甘い痛みを生んで涙が出そうなほど苦しい。脳髄まで思考を一色に浸す鬼道の声は、たっぷり間をおいてから[#dn=1#]に囁きかける。
「近々、雷門サッカー部に密偵を派遣する。……賢明なお前なら黙っていてくれるだろう?」
「……は」
呼吸をするのがやっとだった。鬼道の声は[#dn=1#]の思考を止めるには十分すぎる威力を持っている。首を縦にも横にも振れずに[#dn=1#]は固まっていることしかできない。
突然視界がひらけて[#dn=1#]を拘束していた腕が緩む。だが[#dn=1#]が自由でいられたのはほんの刹那の間だけであった。
今度は強く腰を引き寄せられ、正面から鬼道に向き合わせられた。ぐっと身体を寄せられ、鬼道の身体がこの上なく密着しているのが分かる。
抗うだけの力は入らない、抗おうとも思えなかった。
「[#dn=2#]」
鬼道は[#dn=1#]の頬に右手を滑らせ、妖しい色香を浮かべた眼差しで彼女の顔を覗き込む。
「できるな?」
もはや会話の損得など図る余裕はどこにもなかった。わけのわからないまま、[#dn=1#]は首を何度も縦に振る。
この何とも言えない耽美な空気に包まれているとおかしくなりそうだ。早く彼から離れなければ、腹の底から沸き上がる心地よさで溶けてしまいそうになる。
かろうじて首を縦に振った[#dn=1#]を見とめ、鬼道は満足そうに笑う。
「ああ、そうだ……。言い忘れていたが」
[#dn=1#]の頬に触れていた鬼道の手が、[#dn=1#]の黒髪に指を通し毛先をくるりと指に巻き付けた。
もはや何が起こっているのかが分からず[#dn=1#]は目を白黒させるしかなかった。
心臓が乱れ狂って脈を打ち、頬は恥じらいに赤く染まる。そんな[#dn=1#]の表情を眺めながら鬼道は囁きを止めない。
「短い髪もよく似合っている。俺は前の方が好みだったがな」
「ご冗談、を」
「……冗談だと思うか?」
ギラりと鬼道の瞳がゴーグルの奥から覗く。
「教えてくれるか、なぜ切ってしまったのか。あれほど長く美しかった髪だ、伸ばすのは手間だったはずだろう」
「……っ」
「ここまでお前を思い切らせるほど……、心境に変化があったのか」
問いかけておきながら答えることを許さないとばかりに言葉は封じられた。
「それは……、んっ」
一瞬、何が起こったのかが分からなかった。唇に触れた熱がいったい何なのか。
それが鬼道の唇だと分かった時には、鬼道の手により後頭部をしっかりと抑えつけられ、彼の成すがままにされることしかできなかった。
「んん……」
何度も何度も深く口づけられて[#dn=1#]の目には薄く涙が滲む。未だかつてない甘く痺れるような感覚が身体を支配している。
このまま、どうにかなってしまいそうだ。酸素の足りなさに[#dn=1#]が小さく口を開けば、鬼道の舌が口腔内へと滑り込み、好き勝手に[#dn=1#]を蹂躙した。
風丸にはこんなふうにされたことは無い。淫猥に舌を絡めさせられながら、[#dn=1#]は息すらままならずに涙を流した。
熱がのたうつ。目の前にいるこの人のことだけで満たされてしまうほどに。
脱力した[#dn=1#]が思わず鬼道の服の胸元を握れば、鬼道は今まで重ねていた唇を名残惜し気に離す。
力がすっかり抜けきった[#dn=1#]は支えがなければ立っていられず、その場にへたり込んでしまった。
「はぁ、は……っ」
鬼道は指で口元を拭い、肩で息をしている[#dn=1#]の傍に身をかがめた。ゴーグルの奥から見透かすように[#dn=1#]を覗き込みながら、またも彼は[#dn=1#]の方へ顔を寄せる。
「なぁ、[#dn=2#]」
支配的な声で言い聞かせるように鬼道は囁く。[#dn=1#]の頬に手を伸ばして彼女の濡れた頬を拭う。寄せた唇で彼女の白い首筋にキスを落とした。
「もう二度と、俺から逃げられると思うな」
ぞくっと背筋に怖気が走るほどの圧。
[#dn=1#]が微動だにできずにいると、鬼道はもうそれ以上何も言わなかった。彼は黙って立ち上がり、[#dn=1#]に背を向けてその場を去っていった。
校舎の裏から、試合の歓声が遠く聞こえる。取り残された[#dn=1#]は呆然とした感覚から抜けられないまま自らの唇に指を這わせた。
さっき、わたしは……? 心臓がまだ落ち着かない。だが押し込められた熱が抜け始めると自分が何をしでかしたのかを今更思い知らされる。
――――わたし、は。
事実のおぞましさに指が震える。鬼道がどうしてあんなことをしたのか、抗えなかった。そんなことはどうだっていい。
[#dn=1#]の中を占めるのは冷たい罪悪感ばかりだった。
――――一郎太くんを裏切った。
肩を抱いて[#dn=1#]はその場でうずくまる。[#dn=1#]が許せないのは行為よりも、己の心だった。
無理やりだった。鬼道さんからすれば、きっと私を懐柔するための手段に過ぎない行為だった。なのに不快感も嫌悪感も感じなかった。
鬼道に与えられた陶酔感に身をやつし、拒絶もなく彼を受け入れてしまった。それは風丸に対してどんなに背徳的な行いか。
「一郎太くん、ごめんなさい……」
涙ながらに独り言つ。その言葉はあまりにも誠意に掛けた、白々しい謝罪だった。