FF編 第一章



「なあ、あの子って女子部の新入部員?」

 今から一時間ほど前のことだ。そんな言葉がストレッチをしていた風丸の耳にも飛び込んできた。なぜか先輩たちも含めて周囲がざわついていた。

 新入部員という言葉にもしかして、と思いながら風丸は顔を上げる。十数メートル先、同じタータンの上に立つ少女の姿が風丸の目に映った。彼女は悠然とスタートラインで構える。しなやかな肢体、印象的なのは長い艶やかな黒髪だ。

「[#dn=2#]……?」

 今日知り合ったばかりの転校生の名前が彼の口から零れた。

 瞬間、ホイッスルの音が高くグラウンドに響き渡る。刹那、彼女の走りはこの場の注目を一瞬にして奪っていった。

 ――――速い……!

 目が離せない、とても。目の前で展開されている[#dn=2#][#dn=1#]の走りを風丸は食い入るように見つめた。

 一緒に走っている三年生との差は歴然だ。彼女は圧倒的な速さでタータンの上を駆け抜けていく。なにより、速いだけではない。洗練されたフォーム、力強く地面を蹴る足の動きには一切の無駄がなくて美しい。いや、美しさだけではない。あれほど目を引くのはなぜか。

 走る彼女の姿には異様な存在感があった。風に晒された黒髪が躍動し、見るものすべてを惹きつける。誰の追随をも許さないその走りは、槍のように研ぎ澄まされている。オーラからして他の比にはならず圧倒的だった。

 ――――速い……。そこらの男子よりも、もしかすると俺よりも。

 彼女がゴールラインを越えた後も、風丸の心は彼女の走りに心を奪われたままであった。

 走り終えた後の[#dn=2#][#dn=1#]はまだまだ余裕そのものに見えた。彼女は悠々と女子陸上部の三年生エースを引き離してゴールラインを越えた。高揚に似て非なる気持ちが風丸の中に生まれる。

 興味があった、[#dn=2#][#dn=1#]のスピードに。美しいフォームで、あの圧倒的な存在感で……。すべてを置き去りにして駆ける少女のスピードを自分も間近で実感したいと思った。

「風丸さん!」

 風丸が[#dn=1#]から目が離せないでいると宮坂が風丸の名を呼んだ。宮坂了、彼は風丸を慕う雷門中の一年生だ。セミロングの金髪を真っすぐに下ろしているから、本人曰く女子と間違えられることも多いらしい。彼はかなり興奮した様子で風丸に声を掛けた。

「あの人! ほら、あの黒髪の人ですよ‼ あの人、すっごく足速くないですか?」

 どうやら宮坂も[#dn=1#]の走りを見ていたようだった。彼の口調は興奮しきっている。

 それもそうか……、と風丸は思った。走る前から注目されていたのだ。男子陸上部の多くの奴が今の走りを目の当たりにしていたはずだ。その証拠に周りから今の彼女の走りに関する話が聞こえた。

「ああ、俺も驚いた。……すごいな、[#dn=2#]」
「[#dn=2#]? あの人、[#dn=2#]さんっていうんですね!」
「ああ、二年の転校生だよ」
「そうなんですか、⁠……後で声かけてみようかな」

 一緒に走ってみたいなぁと呟く宮坂に、お前も集中しろよと声を掛けて風丸は立ち上がった。そこからは[#dn=2#][#dn=1#]の話題には干渉せず、練習に専念することにした。考え出すと頭の中に彼女の走る姿が鮮明に思い起こされる。それを振り払うためにも必要なことだった。

 確かに……、風丸としても彼女のスピードが気にならないと言ったら嘘になる。だが、わざわざ声を掛けに言ってまで一緒に走るのもどうだか。いくら足が速いと言ったって[#dn=1#]は女子だ。実際走ってみたらそこまで大したこともないかもしれない。……ただ。

 ――――ただ、あの走りは他の奴と全く違った。

 まだ、目の当たりにしたあの走りの余韻が抜けない。鮮明に焼き付いて、消えなくなってしまったみたいだった。

「風丸さぁん! [#dn=2#]さん、連れてきましたよ!」
「は?」

 理解を超える言葉が聞きなれた後輩の声で風丸を呼び止めた。慌てて振り返ると[#dn=1#]の腕を掴んだ宮坂がにこやかに風丸に手を振っている。後で声を掛けるっていうのは、冗談じゃなかったのか。風丸は目を白黒させつつ、自分のところまでやってきた宮坂に困惑の言葉を掛けた。

「お前、本当に連れてきたのか?」
「そうですよ。後で声かけるって言ったじゃないですか」

 確かに聞いていたが……、そう思いながら風丸は思わず顔をしかめ、思い切り困った顔をした。でもまさか本当に[#dn=1#]を引っ張ってきてしまうとは思ってなかった。練習が終わってから、宮坂の姿を見ないとは思っていたが……。

「お前なあ……。勝手なことしてると先輩に怒られるぞ?」

 溌剌として勢い任せなところがあるのが宮坂だ。どうせ今回も、勝手に突っ走って部長の許可もとらずに[#dn=1#]を連れてきたんじゃないかと風丸は察する。現に[#dn=1#]の表情には戸惑いが浮かんでいた。

「宮坂ー!」

 そして風丸の予想は的中する。風丸の指摘の直後、離れたところで集まっていた三年生たちが宮坂を呼びつけた。

「あーあ。仕方ないなぁ、俺ちょっと行ってきますね」

 宮坂はひらひらと手を振って先輩たちの元へ走っていく。風丸は破天荒な宮坂の言動に対して思わずため息を漏らした。

 ……なんだか、既視感がある状況が訪れる。こうして[#dn=1#]とふたりきりで取り残されるのは今日二度目だ。風丸はちら、と[#dn=1#]に視線を寄せる。

「すまないな、うちの宮坂が」
「ううん、私こそ……。ごめんなさい、言われるままついてきちゃって」

 雰囲気が違っていたから少し接するにも戸惑いがあったが……。話していると間違いなく目の前にいるのは、今日この学校にやってきた転校生だ。今になってようやく風丸はそれを確信する。

 さっきの走りを見てしまったせいだろうか。何せ、髪を結んでいるだけなのにまるで彼女を別人みたいに感じていたのだ。

 教室で顔を合わせたときの、そしてさっきグラウンドで見送った時の[#dn=1#]は大人しく物静かな女の子だと思った。

 人見知りなのか表情は固く口数も少ない。よくよく見ると可愛らしい顔立ちをしているから、俗に言う守ってあげたくなるタイプの女子なのだと。

 だが今の彼女は教室で見たときの控えめな印象とは違う、走りにも見えた凛麗さが残っていた。強者の風格というのか……、誰も寄せ付けない形容できないオーラがある。いうなれば、そう……。

 ――――綺麗、だ。

「あの……」

 風丸がまじまじと自分を見ていることが気になったのか、[#dn=1#]は耳に触れながら風丸からさっと視線を逸らした。

「私がここに来たの迷惑……、だった?」
「へっ……、い、いやっ、そんなことはない!」

 風丸の視線からどう推察したのかは分からないが、[#dn=1#]は風丸が自分のことを迷惑がっているのではと思ったようだ。慌てて風丸は[#dn=1#]の言葉を否定する。

 よくよく思い返せば、[#dn=1#]が宮坂とここに来た時、あからさまに顔をしかめた気がする。あれは宮坂に向けてのものだったが、彼女にしてみればそう取られても仕方がないかもしれないと思った。

「そう、よかった……。迷惑かなって、心配だったから。今日ずっと色々助けてもらってばかりだし」
「そんなの……、気にするなよ。案内だって俺が勝手にやっただけだし」

 風丸の言葉を聞いて[#dn=1#]は目に見えて安堵の表情を見せた。柔らかに、そして心底嬉しそうに彼女は風丸に微笑みかける。

「……っ」

 沈みかけていた夕日が一際、強い光を放った。風丸は、一瞬心臓が恐ろしいほど大きくなって破裂するかもしれないという錯覚を得る。

 春風が彼女の黒髪を舞い上げ、橙色の光があたたかに表情を照らす。風丸は[#dn=1#]を見つめたままでいた。長い睫毛に縁どられた、彼女のその髪と同じ黒の瞳がどんな色よりも鮮やかな色に輝いた気がした。

「ありがとう、風丸くん」

 正体不明の衝撃が全身に落ちる。陽が沈んでしまって光はあたりは暗くなっていくのに、音も何もかもすべてが自分から遠ざかっていくのに。[#dn=1#]の姿だけは陰りもせず、また彼女の透き通るような声だけが、風に乗って風丸の耳に届く。

 まばたきの間が異様なほど長く感じられた。長いようで短い間、風丸はずっと彼女の瞳から目が離せずにいる。

 ――――変な、気分だ。

 全力で走ったってわけでもないのに。どんどん脈が上がってる。止めようがなく速く。覚束ない指先でそっと胸に触れる。何だ、これ……。

「お待たせしました! 風丸さん、[#dn=2#]さん!」

 溌剌とした声が空気を掻き消す。我に返ったと同時に、自分が今まで陥っていた感覚が溶けて見えなくなる。なんだったんだ、さっきの……。

 早く走ろうと急かす宮坂の声を後目に、風丸はもう一度、[#dn=2#][#dn=1#]の顔を見つめてみた。風丸の視線に気が付いて彼女は微かに表情を緩める。さっきの感覚に似た燻りが胸の奥で熱を持っていた。

   ***

 風丸、宮坂、そして[#dn=1#]の三人でスタートラインに並ぶ。男女混合、異色のレースの開幕が迫っているが野良試合のためギャラリーはまばらだ。男子陸上部も様子を伺いつつも練習をすでに切り上げ始めている。

 どうやら宮坂は先ほどの呼び出しの際、先輩たちに一本だけ走らせてほしいと懇願してきたのだそうだ。結局宮坂に根負けした三年生が一本だけだぞ、と譲った結果が今であった。

 宮坂は[#dn=1#]と速さを競いたがった。だが、なぜかそのレースには風丸も引き込まれ今スタートに立たされている。

  こちらも宮坂に根負けした形だ。風丸さんも走りますよと強引にラインに立たされたのだ。実際の所、風丸も彼女の走り自体には興味があったから、これはまたとないチャンスであったが。

 スターティングブロックに足をかけ、風丸はクラウチングスタートの構えを取る。ちらりと横目で隣にいる[#dn=1#]の横顔を見た。

 真っ直ぐに地に向けられた視線。その瞳からは尋常じゃない熱意と集中が見て取れた。鋭く研ぎ澄まされた……やはり、さっきと雰囲気が全然違う。こうして横に並んでみると明らかだった。

「おーい、風丸! 集中しろよ!」

 スターターを買って出た風丸と同期の総細がピストル片手に注意を飛ばした。悪い、と風丸は返事をしてもう一度構えなおす。

「位置について!」

 彼女は、[#dn=2#][#dn=1#]はさっきの練習でも、これから始まる取って付けたような競争にでもおそらく全力を尽くすだろう。彼女の気迫がそれを証明している。

「用意!」

 だとしたら、俺もそれに応えるだけだ。負けられないと風丸は意気込み、ピストルの音ともに地面を蹴った。
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