FF編 第一章



 放課後、[#dn=1#]は風丸に言われた通り教室で彼のことを待っていた。

 転校初日は秋が声を掛けてくれたおかげで順調だった。一人で困ることもなかったし、この広い校舎の中でも迷子にならずに済んだ。アニメや漫画でよく見る、転校生がクラスメイトに質問攻めにされる……ということもなく平穏な一日が終わろうとしていた。

 [#dn=1#]は窓から桜の樹から花びらを散っていく様子を眺める。悪くない一日だった、にぎやかで安穏としていて。帝国学園とは全く違っているけれど。

 ……当然ではあるが、授業の進行具合はやはり帝国学園には劣る。それでも雷門も他の公立校に比べればかなりの進学校らしい。生徒の髪型然り、自由度の高い校風であるのに少し意外だ。

「[#dn=2#]」

 名前を急に呼ばれて[#dn=1#]は肩を揺らす。声の主を振り返ると急いでやってきた様子の風丸が[#dn=1#]の元へとやってきた。

「すまない、待たせたな。掃除当番だったんだ」
「いえ。……こちらこそ、わざわざごめんなさい」

 少しだけ申し訳なさそうに[#dn=1#]が肩をすくめる。だが風丸はまったく気にしていない様子だった。

「気にするなよ。円堂が勝手に決めたようなもんだしな。それより早く行こうぜ」

 微笑むと共に彼の髪が揺れた。[#dn=1#]は風丸と共に歩き出し、彼の横顔をちらりと見た。長い前髪で片目が覆い隠されてはいるけれど……、よくよく見てみると女の子には見えない。細い眉はきりっとしているし、むしろ男らしい顔立ちをしている。そんなことを思いながら[#dn=1#]は風丸の後をついていく。

 雷門中学の昇降口を出て右に進むと、そこには部室棟が立ち並んでいた。生徒数が多いだけあってか部室棟の数も多い。並んでいるその建物の左側を指さして風丸は[#dn=1#]を見た。

「あれが女子の部室だ。……さすがにそこまではついていってやれないけど大丈夫か?」

 心配そうに風丸が[#dn=1#]に問いかける。こうして案内してくれたのもそうだが、いろいろ気遣ってまでくれるなんて彼はとても親切な人だと思う。[#dn=1#]は頷きながら風丸に微笑みかけた。

「はい、大丈夫です。ありがとうございました」
「ああ。じゃあ、がんばれよ」

 [#dn=1#]が頭を下げると、風丸は軽く手を振って右側の建物へ入っていった。どうやら男子陸上部の部室は少し離れた場所にあるようだ。風丸が男子陸上部の部室に入るのを見送ってから、[#dn=1#]は女子陸上部の扉へ向かう。一度深呼吸をしたのちに扉をノックした。

「はい」

 返答を確認して[#dn=1#]はドアノブを回し、ゆっくりとドアを押し開けた。遠慮がちに失礼します、と呟き顔を中へと覗かせる。

「どなた?」

  部室の中には五人ほど練習着を来た少女たちがいて、全員が訝しげに[#dn=1#]の方を見ていた。その少女たちの中心にいる大人びたショートヘアの少女が、[#dn=1#]の姿を見てあからさまに顔を顰める。[#dn=1#]はその大人びた少女に気圧されて怯みかけるが、はっきりとした声で要件を伝えた。

「あの、入部希望で来ました」
「そう。じゃあさっさとこっちに来て。扉はちゃんと閉めてね」

 やけにそっけない口調でその人は[#dn=1#]を呼ぶ。他の部員は[#dn=1#]に何も言わなかったが不気味なほど静まり返っていた。ヒソヒソ、と[#dn=1#]を見ながら脇で耳打ちをしている。……どうやら歓迎されているわけではなさそうだ。

 [#dn=1#]はショートヘアの少女の前に立ち、丁寧に礼をした。

「二年の[#dn=2#][#dn=1#]です。今日この学校に転校してきました」
「そう。私は入山、女子陸部のキャプテンよ」

 [#dn=1#]が挨拶をしても入山は実に冷ややかな対応を貫く。

「希望競技とかあるの? ウチ、部員少ないから特にこだわりはしないけど」
「あの……、私短距離走がやりたいです。できれば百メートルを」

 さっと部室の空気が一段と冷えた気がした。あまり居心地の良い雰囲気ではないなと[#dn=1#]はわずかに眉をひそめた。部活をやっていく上では良いとは言えない環境かもしれない。

 幸いなのは個人技だというところだろうか。競技中に彼女たちが[#dn=1#]に影響するわけではない。ならばある程度のことは我慢しよう。とにかく走る場所が得られればそれでいい。

 そう思いながら[#dn=1#]は入山をまっすぐ見つめ何も言わなかった。

「そう、まあ別にいいけど」
「……」
「とりあえず、礼儀だけはわきまえて。あんた以外みんな三年なんだから」

 入山はつんとしたまま、[#dn=1#]を置いて部室を出て行った。それに従って他の四人の部員たちもぞろぞろと部室を後にする。

 クラスの方は良かったけれど、こっちは前途多難かもしれない。[#dn=1#]は小さくため息を零して鞄の中から練習着を引っ張り出した。帝国学園在籍中から使っているもの。今回の転入に際して新調したものはほとんどなかった。

 練習時間がとにかく惜しい。[#dn=1#]はてきぱきと着替えをすませ部室を出た。

  ❀ ❀ ❀

 そういえば、練習用のグラウンドはどこだろう? あらかじめ先輩に聞いておくべきだったのに失念してしまっていた。

 [#dn=1#]はスパイクを片手にきょろきょろと辺りを見回しながらため息をついた。仕方がないからその辺にいる生徒に道を聞いて案内してもらうしかない。

 [#dn=1#]が道行く生徒を呼び止めようと意気込むと、ちらと見覚えのある姿が視界を過った。そちらの方へ視線を寄せると練習着姿に着替えたらしい風丸とバッチリ目線が合ってしまった。

 目が合った[#dn=1#]と風丸はどちらともなく歩み寄る。[#dn=1#]としては、また頼ることになって申し訳ないが風丸が案内してくれたら心強いと思った。

「風丸くん、ごめんなさい。グラウンドの場所を教えてほしいんだけど……」
「え、入山さんに説明されてないのか?」

 腰に手を当てた風丸は[#dn=1#]の言葉に首を傾げた。さらりと彼のポニーテールが揺れる。その口調はどうも不思議そうな様子であった。入山が説明を忘れるなんて……、と言いたげな口ぶりだった。[#dn=1#]は眉根を下げて髪に手を触れる。

「私、緊張してたから聞きそびれてしまって」
「そうか、じゃあ一緒に行こうぜ。どうせ同じ方向だしな」

 [#dn=1#]と同様にスパイクを入れているらしい袋を片手に風丸が言う。[#dn=1#]は風丸の答えに礼を言い、 風丸と他愛のない話をしながらもグラウンドへ急ぐ。

 四百メートルトラックの白いラインが綺麗に引かれている陸上競技用のグラウンドに、入山を始めとする女子陸上部員はいた。入山キャプテンが不機嫌そうに[#dn=1#]を迎える。

「随分と遅かったわね」

 先ほど部室での口調よりは遥かに柔らかく入山が声を掛けた。そして[#dn=1#]に言葉を掛けながらも、彼女の視線は何度も風丸の方へと向けられていた。あからさまに入山は風丸を気にしているふうだ。

 ……もしかするとそういうことなのだろうか。別に風丸が変なことをしているわけでもないというのなら。[#dn=1#]はなんとなく入山の視線の理由を推察する。

 意識的に入山が風丸に視線を向ける理由は、彼に好意を持っているからではないか。だったらさっきよりは柔和な口調にも説明がつく。

 ……傍目から見るとああいうもの、なのかも。恋をしている人って。あれほど分かりやすく気持ちが態度に透けるのかもしれないし、何もかも筒抜ける。

 ――――きっとあんなふうに見えていたんだ、以前の私は。

「すみません。[#dn=2#]、場所が分からなくて迷っているようだったので」
「そう、ありがとう風丸くん」

 何も言わずに黙っている[#dn=1#]の代わりに風丸が答えた。入山は[#dn=1#]のことなど気にも留めていないようだ。二人のやり取りを見ながら[#dn=1#]はなるべく存在感を消す。あまりこの場に自分がいて良い気はしていなかった。

「それじゃあ俺は戻ります。[#dn=2#]」
「……は」
「お互い頑張ろうな」
「え……、あ、ありがとう」

 突然名を呼ばれて[#dn=1#]が顔を上げる。風丸の方へ視線を向ければ、凛々しく微笑んだ彼は激励の言葉を残しこの場を去って行った。爽やかな風のような衝撃に[#dn=1#]は思わずどもってしまう。[#dn=1#]が動揺と共に風に靡いた髪を抑えると、入山が強く[#dn=1#]を睨んだ。

「何もたもたしてたのよ。……じゃ、あんたの実力見るからさっさとストレッチして」

 風丸がいた時とは打って変わって絶対零度の声のトーンに[#dn=1#]は思わず身を固くする。どうやら風丸の激励は[#dn=1#]にとって、ある意味逆効果だったかもしれない。それでも入山に言われた通り、[#dn=1#]は一人でストレッチを開始した。

 春休みの間はこうしてタータンの上で走ることもなかった。自主練習は欠かさないようにしていたが……。久しぶりにグラウンドで思い切り走れる。その辺の道を走るのと競技用のグラウンドで走るのと他ではまったく違う。

 身体をほぐし終えた後、[#dn=1#]はスパイクに履き替える。そして右手首に付けていた黒ゴムを外し、長い黒髪をひと束にして高く結い上げた。

 大切な髪でも結んでいないとどうしても視界を妨げることがある。全力で走るとなると特にそうだ。本当は部室を出てからすぐに結ぶつもりだったのだが、風丸に会ったため今の今までタイミングがなかった。

「いつまでやってるのよ!」

 [#dn=1#]の行動に入山の怒号が飛ぶ。⁠[#dn=1#]は入山に急かされながら、しかしそれでも悠々としていた。入山のことは意にも介さず彼女の意識は走ることだけに注力されていた。逸る気持ちを抑え、スタートラインに立つ。慣れた流れだ。スターティングブロックに足をセットしてラインに指を添わせる。この感覚も久しぶりだった。

「用意!」

 軽く腰を浮かせ、地面を蹴りやすい体制を作り上げる。いよいよだ、やっとこの瞬間に立つことができた。神経を研ぎ澄ませ、意識すべてを集中させる。必要なものだけを耳に聞く。周囲の雑音も不要なものは遮断する。必要なのは信念だけだ。

 ――――誰よりも速く。

 ピィー、と 競技用のホイッスルの音と同時に[#dn=1#]は強く地面を蹴った。低い姿勢を保ったままぐんぐんと加速していく。徐々に姿勢を高く持ち、五十メートルを超える頃。このくらいの瞬間が[#dn=1#]は好きだった。

 耳元で聞こえる風の音。そして風と同化するこの感覚、私の前には誰もいない。それが私にできるすべてで、大切なこと……。

 気が付いたときには彼女はゴールラインを駆け抜けていた。あっという間だった、少しばかりの名残惜しさと共に減速をして後ろを振り返る。背後では入山が膝に手を着き、息を切らせて[#dn=1#]を憎々しげに睨み上げていた。その表情には圧倒的な実力を持つ新参者に対する困惑と敗北の屈辱が滲んでいる。目に見えて[#dn=1#]に対する敵意が向けられていた。

 だが対して[#dn=1#]は何を言うでもなく、冷淡に入山を見下ろした。

 ――――負けるわけない。こんなところで。

 大して練習を見ていたわけじゃないけれど、雷門中学の女子陸上部はレベルが高いというわけではなさそうだ。部員数の少なさや部室での空気感から薄々察していたところではあるが、今の走りで[#dn=1#]は確信していた。[#dn=1#]だって強豪陸上部出身というわけでもないから自惚れるつもりはない。だがさっきの走りで明確だった。この差が覆ることはないのは。

 それだけ[#dn=2#][#dn=1#]のスピードは誰の目から見ても圧倒的であった。


  ❀ ❀ ❀

 女子陸上部での練習は非常に淡泊なものであった。基礎的なトレーニングののち五時半を回ったころに片付けまで済ませ終え、引き上げを開始し始める。実際の練習時間は一時間といったところだ。部室の鍵を閉める時間などもあるのだろうが練習時間は物足りなかった。であれば、その気持ちを埋めるためには自主練習をするしかない。

 ――――家に帰ったら走りに行こっと。

 稲妻町に越してきて幸いだったのは、思ったよりもランニングコースが充実していることだった。河川敷は走っていて気持ちがいいし、鉄塔広場に繋がる坂道はダッシュの強化に丁度良い。そう意気込みながら[#dn=1#]は先輩たちの後について歩いていたときだった。

「先輩、すごく足が速いんですね!」
「え?」
「よかったら俺達と走りませんか?」

 振り返るとハーフパンツにタンクトップ姿の生徒が[#dn=1#]に視線を向けていた。[#dn=1#]はさりげなく周囲に人がいないかを見回し確認するが……、どうやら彼は自分に声を掛けてきたようだ。

 金髪のセミロングの可愛らしい顔立ち。一見女の子に見えるが、女子陸上部には前を歩いている先輩のほか部員はいないはずだ。となれば……、この一見性別の分からない子も男子だろうと[#dn=1#]は察する。よくよく見ればハーフパンツもタンクトップもさっき風丸が身に着けていたのと同じものだ。

「私?」
「はい、もちろんですよ!」
「えっと……、貴方は?」

 突然現れた彼の提案に困惑しつつも、[#dn=1#]はまずは少年の素性を尋ねた。

「俺は宮坂了、男子陸上部一年です。[#dn=2#]さんですよね」
「どうして私の名前を?」
「風丸さんに聞きました!」

 やはり彼は風丸の後輩か、と納得したのもつかの間だ。宮坂はにこやかに[#dn=1#]に再度提案する。

「なので、よかったら俺と一緒に来てください!」
「ちょ、ちょっと待って!」

 無邪気に笑う少年は、[#dn=1#]のことなどお構いなしの強引さだった。置いてけぼりの展開の速さに、[#dn=1#]は慌てて宮坂を止め、先を歩いていた入山のもとに駆け寄る。同じ陸上部とはいえ、別の部に介入するのであれば何にしても部長の了解を得なければならないはずだ。

「あの、入山先輩」
「勝手にすれば? 私たちもう上がるから。鍵だけ返しといてね」

 さっきのレースを終えてから、入山はいっそう[#dn=1#]に対して冷ややかだった。[#dn=1#]を一瞥したのち、吐き捨てるように言うとさっさと歩いて行ってしまう。他の部員も同様だった。[#dn=1#]に言葉を掛けることもなく入山と共に歩き去ってしまった。

 ふう、と[#dn=1#]はその場に立ち止まってため息をつく。部活に関しては帝国にいた時よりも壊滅的かもしれない。なんだか上手くやっていけそうにないな……。ここから挽回しようがあるだろうか。[#dn=1#]は落胆に似た気持ちで視線を落とす。

「気にしなくていいと思いますよ」

 いつの間にか[#dn=1#]のところまで駆け寄っていた宮坂が、[#dn=1#]の気持ちを察してか言葉を掛けてきた。

「宮坂くん」
「どうせ僻みですって。いつだったかの大会で準優勝したときから、ずっと偉そうなんですもん。……よっぽどあの人が気にかけるような人がいれば別ですけど」

 入山の背中をしれっとした表情で宮坂は見送っている。彼としても思うところがありそうな口ぶりだ。同じ陸上部同士だ、普段から色々と交流があるのかもしれない。

「それより! 早く行きましょうよ!」

 瞳を輝かせて宮坂が言った。今や[#dn=1#]の腕を引いて、早く行こうと言わんばかりだ。[#dn=1#]は宮坂の多少強引な態度に苦笑する。それでもここまで来た以上、彼の提案を呑むのがベストだ。今部室に戻るのはそれこそ気まずい。

 高く結い上げた黒髪をなびかせて、[#dn=1#]は宮坂の後に続いて陸上グラウンドへ引き返した。
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