FF編 第一章
「落ち着いたか?」
ふたりが気持ちを通じ合わせてから数十分。[#dn=1#]の荷物を整理し、帰り支度を進めながら風丸が[#dn=1#]に尋ねた。[#dn=1#]は腫れた目を濡らしたハンカチで冷やしながら頷く。
今日はずっと泣きっぱなしで、酷い顔をしている……。とても好きな人に見せられるような顔じゃないはずだ。
だがもう、こうなっては仕方がない。それに冷やす前よりは幾分か楽になったはずだ。
「うん。……ありがとう」
[#dn=1#]が微笑みかけると、風丸は照れくさそうに頭を掻いて視線を逸らす。頬の赤い風丸を見ていると、なんだかますます[#dn=1#]の中にも好きという気持ちがこみ上げてくる。
……溢れそうになる気持ちを声にして、[#dn=1#]は彼の名前を呼んだ。
「一郎太くん」
「……えっ⁉」
「名前、合ってる……よね?」
「あ、ああ……」
突然の名前呼びに風丸は今日一番驚いたようだった。おろおろしながら赤い顔をますます赤らめている。[#dn=1#]は風丸の反応に可愛らしさすら感じながら目を細めた。
「一郎太くん」
もう一度、噛みしめるように彼の名を呼ぶ。ちゃんと風丸の想いに向き合っていたいと思う。そのためにももっと風丸との距離を縮めたい。
……名前で呼ぶ、というのは手段として短絡的過ぎるかもしれないけれど……。私は彼を選んだのだから、過去の恋に区切りをつけたい。
「これからはそう呼ぶね。……恋人同士になったんだから」
「……あ、えと」
「だから、その……」
あまりに風丸が照れるものだから、[#dn=1#]まで恥ずかしくなってきてしまった。尻すぼみになりながらも小さな声で呟く。
「私のことも名前で呼んで……?」
何をそんな、浮かれているんだろう……。急に照れくさくなって風丸から視線を外そうとすると、風丸の手が[#dn=1#]の頬に触れた。
じっと[#dn=1#]の目を見つめ、風丸が彼女を呼ぶ。
「[#dn=1#]……」
「……っ」
自分から呼んでと言ったくせに、心臓が飛び上がるくらい大きく跳ねた。急激に頬が燃えるように熱くなっていった。
普段、半田やマックスだって[#dn=1#]のことを名前で呼ぶ。なのに、風丸に呼ばれる名前の響きは他の誰とも違った。甘い痛みが胸の奥をくすぐっている。
名前を呼んでもらっただけ……、それなのに風丸に名前を呼ばれることは理由もなくただただ嬉しかった。
「……帰ろう、[#dn=1#]」
「うん」
[#dn=1#]は松葉杖を支えにして立ち上がろうとする。しかしそれよりも早く風丸が[#dn=1#]に背を向けて屈みこんだ。
え、と思わず[#dn=1#]が声を漏らす。
「ほら、乗れよ」
「さ、さすがに無理だよ! 階段があるんだし、一郎太くんに負担が……!」
慌てて[#dn=1#]が顔の前で手を振る。ここは三階だ、登るならまだしも人を抱えて階段を下るとなればかなりの危険が伴う。
しかも彼は陸上選手だ。もしも足を怪我するようなことがあれば……。いや、そうでなくても足に負担をかけるような行為をさせたくない。
「階段を下りるまでだ。……少しでいい、俺を頼ってくれないか?」
「……無理しない?」
「しない」
風丸のことは信じたいが、そこだけはあまり信用にならないような気がする。[#dn=1#]は風丸に無茶をさせたくなくて口を噤む。しかし有無を言わせずに風丸が[#dn=1#]を抱え上げた。
「きゃあっ!」
かなり不安定な状況で[#dn=1#]を負ぶったので、[#dn=1#]は必死になって風丸の背中にしがみつく。風丸は頼もしく[#dn=1#]を抱え上げ、体制を整えた。
「む、無理しないで! 何かあったら途中で落としていいから……きゃっ」
「落とすわけがないだろ? それに……」
一歩一歩慎重に前へと進みながら風丸は話を続ける。
「今日さ……、半田に負ぶわれてただろ? ……半田たちから話聞いてさ……悔しかったんだ。俺が[#dn=1#]の助けになれなかったことが」
「……」
風丸の気持ちを聞いて[#dn=1#]は胸に大きなときめきを感じた。風丸が自分を思ってくれている気持ちが嬉しかった。とても彼が愛おしい。心からそう思う。
「ありがとう。……一郎太くん」
[#dn=1#]は小さく呟き、風丸の大きな背中に頭を寄せた。青い彼の髪が[#dn=1#]の頬をくすぐる。幸せだった、彼を好きになれたことが幸福だとさえ思う。
しかし、[#dn=1#]の頭の片隅にわずかに過る。それは無意識的でもはや染みついた思考だった。止める間もなく浮かび上がってくるのだ。
鬼道さんだったら、こういうときなんて言っただろうか、と。