FF編 第一章
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教室に残ったふたりのあいだにはわずかながらの静寂があった。
窓の外から聞こえる生徒のはしゃぐ声や、ボールを蹴る音……、遠い世界にあるかのような音が微かに響くほか、この部屋にはふたりの息遣いしか存在していなかった。
花織の傍まで歩いてきた風丸は、花織の前に膝をつきじっと花織の顔を覗き込む。穏やかな茶色の眼差しが花織に微笑みかけた。
「月島……。怪我、大丈夫か?」
「う、ん……。少し捻っただけ」
久しぶりにちゃんと、風丸の顔を見たと思った。風丸に見つめられるときゅうっと胸が締め付けられるような感覚がある。顔に熱が集まって、無性に気恥ずかしくなって……、思わず風丸から視線を逸らしてしまった。
見ていたいはずなのに、視線を合わせられない。……風丸が前に自分の視線を避けていた理由を身に染みて実感する。
「月島」
こっちを見てほしい、そう訴えかけるような声で風丸が花織を呼んだ。呼吸が今にも止まってしまいそう……。けれど、彼の声に応えたくて花織は懸命に視線を風丸に戻した。
「……風丸くん」
心臓が破けてしまいそうなほど大きく胸を打つ。大きく速く、走った後と同じくらい胸の鼓動を感じた。見つめているだけで思わず泣いてしまいそうになる。
認めたくないとか、そういう問題じゃない。これは誤魔化しようがない気持ちだ。
――――好き。
胸の奥で溢れてしまいそうになる気持ちを堪えると、風丸の方も何かを噛みしめるように目を細めた。
「……」
だけど何から言えばいいのか分からない。この間のことを謝るのが先? それとも今の気持ちをこのまま伝えるのがいいの?
言葉に迷い、花織は中々口を開けずにいる。すると、風丸の方が先に花織を見つめて語り掛けた。
「あのさ……、俺やっぱり月島のことが好きだよ。この間、俺の気持ちには応えられないって月島は言ってたけど……。お前に嫌われても、このまま諦めるなんてできない」
強い気持ちが彼の言葉の中には滲んでいた。それでも、風丸は一つ一つ言葉を選ぶようにして花織に想いを告げていく。
「お前がたとえ俺を見ていなくても、誰かの代わりだって良い。月島の傍にいさせてくれないか」
どうしてそこまで……。言葉の端々から伝わってくる真摯な風丸の想いに胸が締め付けられる思いがした。
彼の言葉を、何の後ろめたさもなく受け入れられたらどんなにいいだろうと思う。私もあなたが好きだと、心の底からそう言いきれたら。
しかし、花織の中には風丸に対しての想いと同等の強い気持ちがある。忘れられない、諦められない鬼道への気持ちが、風丸の想いに応えようとする自分を阻む。
忘れるなんて本気でできる……? そう言い切れる自信が今の花織にはない。
だからと言って、またこの前の言葉を繰り返すの? これは風丸と向き合う最後のチャンス。自分の気持ちに正直にならなければきっと後悔することになる。
……たとえ伝えて後悔することになっても、伝えないで後悔するよりはずっといいに違いない。
「……好きなの」
「月島」
「風丸くんのことが、好き」
想いと共にぽろぽろと花織の瞳から涙が伝い落ちる。
「……一緒にいたい。……風丸くんと走りたい」
とめどなく言葉が零れていく。
「風丸くんの走る姿を隣で見ていたい……」
口にするのは簡単だ、だが。花織は頭によぎった一人の少年の姿に言葉を詰まらせる。
……これはもう、終わったことなのに。今になっても花織の心の大部分を占め続ける。こんなに風丸が好きなのに、それとは別のところで鬼道を待ち続けてしまう自分がいる。
待っていたって彼が振り向いてくれるわけじゃない。好きでいたってその気持ちは迷惑なだけだ。
そう自分に言い聞かせなければならなくなるたび、花織は自分の気持ちを隠したくなる。今のままで風丸を大事にできる自信がない。好きだからこそ、自分の選択で彼を傷つけたくない。
「私は……」
綺麗なだけの気持ちでもない。……いつか、風丸が自分への気持ちを違えることにさえ、花織は恐怖している。
あれだけ信じていた鬼道にすら否定されたのだ。これから先、風丸の心変わりがないなんて確証はどこにもない。……傷つけられるのも堪らなく怖いのだ。
「月島」
長く花織が答えあぐねていると、花織を導くように風丸が彼女を呼んだ。そっと花織の手に触れて、花織を見つめる。
触れた指先からも、見つめ合った瞳からも彼の優しい気持ちが伝わってくる。
「お前が他の奴を好きでも構わない。……だから頼むよ、俺にチャンスをくれないか」
風丸はどこまでも花織をまっすぐに見つめ続ける。花織は首を横に振った。
チャンスだなんて、そんなことを言わないでほしい。きっと私の想いが風丸くんを苦しめるだけだ。……こんな私にだけ都合のいい話を受け入れるわけにはいかない。
「風丸くん……。私には、忘れられない人がいる。その人は、帝国にいた頃の私のすべてだった。最後はお前なんかに興味はないって……。サッカーの方が大事なんだって……。私の気持ちは否定されてしまったけれど……。それでも忘れられない」
こんな未練がましい気持ちに風丸を付き合わせるわけにはいかない。だが、花織が頑ななように風丸の方も引き下がりはしなかった。
「だったらなおさら、俺はチャンスが欲しい。月島の想いをそいつが受け入れないなら……、俺がきっとお前の心を振り返らせる」
「私、きっと風丸くんを傷つけるよ……。風丸くんと彼を比べるかもしれない」
「それでも構わない。……月島の気持ちが今、少しでも俺にあるなら」
差し伸べられた手を握り返してもいいのか、いまでも分からない。触れた風丸の手は花織の手を取ってきゅっと握り締めた。とめどなく花織の頬を伝う涙を風丸がそっと拭う。
「どんなに時間が掛かっても、俺がそいつを忘れさせる。……だから、そいつじゃなくて……、今だけでも一緒にいる俺を見てほしい」
ぼやけた視界の中で彼が笑いかけてくれる。私の手を握る指、頬に触れている手は温かい。けれど少し震えていた。
彼だってきっと、不安なんだ。だけど……、その手から自分がどれだけ大切に思われているのかが伝わってくる。
「風丸くん……」
――――いつだって、あなたは優しい。
だから私はきっと、風丸くんのことを好きになった。……これから先、あなたを誰よりも大切にしていきたい。この気持ちに嘘はない。
「……月島」
名前を呼ばれて花織は風丸を見つめ返した。
もう拒む理由はない。花織が風丸の手を握り返すと、静かにふたりの距離は縮まっていく。
「好きだ。お前が好きなんだ、月島」
胸の鼓動はどちらともなく高鳴り、やがてひとつになる。
「私も。……風丸くんが、好き」
誓いにも似た囁きのもとで花織は目を閉じる。互いの想いを通じ合わせ、静寂の中でふたりの影は重なり合う。唇に触れた熱は温かく、なにより優しさが滲んでいた。